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ポストヒューマニティーズとはなんぞや⑤

マルクス、フロイト、ニーチェ、ときて今回はソシュールをまとめる。
ソシュールは構造主義の父、とも言われる。『寝ながら学べる構造主義』をもとに、その所以を自分なりに書いてみようと思う。

以下は過去の自分の記事だが、ソシュールのことを説明するのに役に立ちそうなので引用。


ソシュールは、「言葉とは『モノの名前』ではない」ということを言い始めた人。

水の中に足が8本あるヌルヌルした生き物がいるので、これは「タコという名前にしよう」とモノに名付けていった、というのがそれまでの西洋的価値観だったが、ソシュール曰く、「名付けられるのを待っている、まだ名前のないモノ」というのは存在しないのだという。

それはどういうことか。上の引用記事を例にとると、子供にとって「海」「さかな」「タコ」「チンアナゴ」「イルカ」は全て「み」という言葉で表される。

言葉を覚える前の子供の世界においては、イルカもタコも、まだ存在していない。いや、子供の世界の中には存在していないかもしれないけれど、「万人共通の世界」にはタコは存在していて、子供がその名前を覚えるかどうかの問題じゃあないか、とお思いかもしれない。
だけど、私がタコと呼んでいる生物は、マダコだろうか?ミズダコだろうか?それともサメハダテナガダコ? 万人共通の世界に存在する「タコ」とは何か? 世界共通のモノカタログのようなものがあったとして、タコの欄に載っている絵図はミズダコなのかマダコなのか。「タコ」というのは、色々な種類のタコの総称で、「タコ」という「モノ」は存在していない。
では、「ミズダコ」はどうか。色々なタコの総称が「タコ」なら、それを構成する「ミズダコ」や「マダコ」はモノとして存在するではないか。と言う意見はありそうだ。だけど、タコ漁を生業をする漁師さんに聞いてみれば、同じミズダコでも様々な区別としているかもしれない。例えば、産卵前のミズダコは「モジャダコ」と呼ぶとか、子供のミズダコは「アガンボウ」と呼ぶとか、そういうのがあるかもしれない(具体例はデタラメですが)。「モジャダコ」や「アガンボウ」や「オダコ」「メダコ」などの総称を「ミズダコ」と呼んでいるとすれば、「ミズダコ」という「モノ」の存在も怪しくなってくる。
では世界モノカタログは、そうやってモノをとにかく分類し、細分化すれば成り立つかというと、そうでもない。英語で「devilfish」という生き物があるが、これは「タコ」と「エイ」の総称らしい。言語/環境/職種/年齢…様々な要素によって、言葉の表す範囲は違ってくる。

『寝ながら学べる構造主義』の言葉を借りれば、「ソシュールの考える言語活動は元々は切れ目の入っていない世界に、人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけること」であるという。

名前がつけられる前の世界(=切り分ける前の世界)は何一つ判然としてはおらず、名前がつけられて(世界が切り分けられて)初めて、その観念が私たちの中に存在するようになる、というのがソシュールの知見だ。

ソシュールにとって言葉とは、「ものに対応してつけられた名前」ではなく、「世界に張り巡らされた網目」のことなのだ。

つまり、「マルクスが記述したような資本主義の危機に直面していなくても、フロイトが例に挙げた神経症を患っていなくても、ただ普通に母国語を使って暮らしているだけで、私たちはすでにある価値体系の中に取り込まれているという事実をソシュールは私たちに教えてくれた(『寝ながら学べる構造主義』より)」。

構造主義とは、「私たちは自分で【考えてる】と思ってるけど、実は自分の外部の要素によって【考えさせられている】のではないか」という大転換のことだとはじめに述べたが、

ただ喋っているだけで、もうすでにある価値体系の影響下にいる、ということはまさにそうで、わたし自身、今までで一番「外部の要素によって思考が規定されている」という言葉が、なるほど、と腑に落ちた。

ソシュールの言語学は、スイスのジュネーブ大学の「一般言語学講義」という講義でひっそりと始まったらしい。この考えがゆくゆくは、西洋の伝統的な人間観を変えてゆくことになるそうです…

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