見出し画像

ポストヒューマニティーズとはなんぞや③

「ポストヒューマニティーズ」とは「ポスト・ポスト構造主義」とも言われ、いわば「ポスト構造主義以降」ということらしい。
ということは、「ポスト構造主義」とは何か、あるいは「構造主義」とは何か、ということを理解する必要がある。
それ以前の古代哲学、近代哲学については軽めに流しつつ、構造主義以降は少しだけしっかりめに掘り下げてみようと思う。

まず選んだのが内田樹の『寝ながら学べる構造主義(文春新書)』。
構造主義が確立される直前の、構造主義前夜の哲学(マルクス、フロイト、ニーチェ)を取り上げ、ソシュールを挟み、その後に構造主義四銃士(フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、ロランバルト)を見ていく、という流れ。

ようやくフーコーのところまで読み進めたが、面白すぎるぞ樹先生!!と声を大にしていいたい。哲学ってこんなに刺激的だったの⁈と思わせてくれるように、初心者向けに噛み砕いてくれている。

そんな樹先生の言葉を自分なりに理解しながらまとめたものを参考に書いているので、誤読がそこここに入っているかもしれないけど…とにかくまずは『寝ながら学べる構造主義』を追っていきます、、


「中世」が「近代」になったり、「近代」が「現代」になったり、歴史区分が変わるときというのは、何か決定的な変化が訪れたときなのだと思う。ということは哲学史においても、構造主義以前が、「構造主義時代」に突入したときにも、何か画期的なすっごいオドロキな変化があったわけで…
じゃあそれはなんだったんだろう、というところから。

それを一言で言うと、

「私たちは自分で【考えてる】と思ってるけど、実は自分の外部の要素によって【考えさせられている】んだよ」

という発見らしい。
それまでの思想では、どこに生まれようと、男だろうと女だろうと、どんな社会的立場にいようと変わらない、「本当の自分」みたいなものがある、というのが伝統的な人間観だったらしい。

いや、違うと。人間は自分の「内面」に宿した思いを外に向かって表現している、と思ってるかもしれないけどそうじゃないよと。外部の要素に左右されている部分が結構あるよと。ちなみにこの「外部の要素」というのは、例えば自分が所属する階級であったり(マルクス)、自分では感知できない無意識という未知の領域であったり(フロイト)、思想家によって色々らしいが、共通しているのは

「自分探し」はもうやめよう。探すべき自分は自分の内側にはいない、ということ。

なるほど…「自分探しの旅」がまだダサくなかった時代。それが構造主義以前の時代ってことなのか…(かなり大胆に曲解している可能性アリ)

少し、一人ずつについてもまとめてみようと思う。

今日はカール・マルクス(1818〜1883)。

マルクスは、

「人の個性とは【何者であるか】ではなく【何ごとを成すか】だ」

だと考えた。
私は一体何者なんだろう…と沈思黙考するのがそれまでの哲学だったのに対し、行動して初めてその人間が何者かわかる、と言って古典的人間観を退けた。

存在するだけ=ありのままでいる、だけでなく、「命がけの跳躍」を試みて「自分がそうありたいと願うものになること」が大切だ、というのはヘーゲルの人間学らしいのだが、マルクスはこの思想を継いだらしい。

個人的にすごく分かり易かったのは、「創作物が、作り手自身が何者かを規定する」という具体例。
なーるーほーどー。自分の能力というものがあらかじめあって、それを使って創作物を作っているわけではなく、出来上がった創作物からはかりしれることがその人の能力。ってことなんですね?
つまり、身の丈とか、自分の経験値とか、いまの自分にできること…、とかを悩んでいるのはそもそもナンセンスで、なりたい自分を無邪気に設定して、それに見合った行動をし続けろと。それは決して、自分の力を過信しまくりなアホ丸出し勘違い野郎ではなく「命がけの跳躍」として賞賛されて良いのですね?と。私は、なんだか小躍りしたい気持ちになった。

や、なんとなくはわかっていましたよ。やっているうちに本当になってくるというか、ハッタリかまし続けてこそ、器がデカくなれるみたいな感じは。でも、それは内面ありきで考えていたことで、「今は見合っていない内面が、いずれ見合う」という意味での、ハッタリだと思っていました。

でもそうじゃなくて、そもそも「内面」がどうとか言ってるの自体が古めかしい!と言われてしまえばこれ、あっはっは。と笑うしかないですよね。で、あるがままの自分とかダサいからもっと頑張れや、というのですからこれ、あ、はい頑張ります、とモラトリアムも強制終了ですよね。積み上げて来た自分の重圧が若干うざったいと思っていたけど、そういうことか!と。からっぽになってやたらな開放感に襲われた私です。

「主体性の根本は「存在」ではなく「行動」に宿る、というのは、構造主義の一番根本にあり、全ての構造主義者に共有されている考え方」だそうだ。そういう意味で、マルクスは構造主義の源流の一つと言えるようです。

他にも色々書いてあったけどマルクスからの構造主義、という流れを見るのに一番重要そうなところを選んで書いてみた次第。

さて、この思想が生まれたのは1800年代なわけで、ポストヒューマニティーズってこっからさらに2回もコペルニクス的転回迎えるの?!マルクスのおかげでもう今元気だし、このままでいいよ!と若干勉強を辞めたくなった私です。私の脳内はまだ200年前にいるのか?逆にすごいな。というか、マルクスがずっと有用ってことなのかしら。わかんないけど、この本はたのしい。

今日はここまで。次回はフロイト、あるいはニーチェ。

この記事が参加している募集

読書感想文

応援いただいたら、テンション上がります。嬉しくて、ひとしきり小躍りした後に気合い入れて書きます!