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ナメられるのが悩みなら、いますぐ「強い人」になりきってしまえばいい

人間関係というのは残酷なもので、弱いヤツだと認識されると、なにかとナメられがちになる。

それでは何かと気分が悪いし、現実問題として人生に支障をきたすことも少なくない。

そこで、ナメられないように強くなりたいと願うのは自然なことだ。

現代社会では物理的に強いかどうか、つまり喧嘩の強さはさほど問題にならないから(暴力に訴えたら法の下、お縄を頂戴する羽目になる)、大事なのは精神的な強さのほうだ。

いわば意志の強さとかメンタルの強さに、人間としての強さが問われる


そこで意志やメンタルを強くしたいわけだけど、ここで、日本には「根性を鍛える」という表現がある。

これに象徴されるように、強い意志やメンタルは修行のように負荷のかかる行いを通して身につけていくものというイメージが世間にはある。また、そうであるべきという空気も、とくに体育会的価値観のもとでは存在する。

(サンデーモーニングで張本さんが言ってそうだ)


でも、強い心、強い意志、強いメンタルというのは、本当にそうやって負荷のかかるプロセスを経ないと身につけられないものなんだろうか?

もしそうならば、「強いメンタルを身につける修行をするための強いメンタル」がないと、強いメンタルなんて一向に身につけられないじゃないか、と言いたくなってくる。

まるで、服を買いに行くときに着る服がなくて結局行けない、みたいな感じだ。(少し違うか・・)


だったらもう、いまこのときから「自分は強いメンタルを持った人間なんだ」と、そのつもりで生きていけばいい

強メンタルを語るのに資格はいらない。

「おまえ、ちゃんと強メンタル修行を積んだのか?」

なんて確認を求めてくる人はいない。


あなたが今日から「私は強メンタルの持ち主だ」と自分に言い聞かせて、そのとおりに振る舞えば、

「おや?あいつ、なんかいままでと違うぞ・・」

とまわりの見る目が変わる。


最初こそ、

「おいおい、なんかいつもと違わない?どうしたんだよ笑」

なんてからかってくる人もいるかもしれない。

だけど、そんな声を意に介さず引き続き「強メンタルモード」を演じ続けることで、弱さにつけこめなくたったまわりの人間はナメた態度は取れなくなってくる。なんなら、気を遣ってくるようになることさえありうる。

ナメた態度は、あなたのことを弱いと見下し、油断していたから。それがどうもいままでとは様子が違うとわかれば、もはや油断した接し方はできない。


そしてあなたは引き続き「強メンタルモード」で過ごすうちに、本当にそのとおりの人間になっていく。そうなればこっちのものだ。

いままで人間関係で悩んでいたなら、これからはずっと楽に過ごせるようになるだろう。



強メンタルの持ち主になるのに、厳しい修行なんていらない


たしかに「鍛える」で手に入るものではあるけれど、それは強メンタルに至るいくつかある道の一部に過ぎない。「強メンタルの持ち主として振る舞う」でも、手に入る強メンタルはあるんだ。


昨日の記事では、自分は何もしてなくても、強いメンタルの持ち主と付き合っているだけで、振る舞いが変わって強メンタルな人間になっていけると書いた。


この方法も、修行じみたことをせずとも強メンタルに近づいていける方法だ。

今日書いたことと、昨日紹介したこの方法を組み合わせれば、より早く強メンタルな持ち主へと変身していけるのは間違いない。


強メンタルは厳しい鍛錬を経てはじめて手に入るものではない。

いまこのときから、自分は強い人間だと決め、そのとおりに振る舞うところから身についていくものなんだ。

もしいま、まわりからナメられているのが悩みなら、今日からさっそく「強い人」になりきってしまえばいい。

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