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中編小説『二人』(2-8)

 それから私たちは、日程を決めると、宿泊する場所を探し始めた。駅前の漫画喫茶の狭いパーティションの中で二人身体を寄せて、パソコンの画面に並んだ宿の一覧から自分たちの条件に合うものを一件ずつ調べていった。犬の同伴が可能な宿は、事前に想像していたより多く、絞り込むのに難航した。互いに拘りがないが故に決めきれず、画面を見つめながら二人して途方に暮れる。パーティションの向こう側から時折漏れる控えめな咳の音が、時間の経過と、周囲を囲む他人の存在を間遠に知らせる。
 最後は半ば投げやりに、犬の同伴ができ、料金も手頃であればどこでもいいと、開いた宿のホームページの写真が存外に感じ良く、ここにしようと二人同時に呟いた。そこはノゾミが控えめながら拘りを示した、海に近い宿だった。
「どうして」
「カズキは一度も海を見たことがないから」
 私には<カズキ>が甥を指すのか子犬を指すのか分からなかった。ただ、答えを知ったところでまた別の問いを呼び込むだけに思われ、それ以上踏み込まなかった。
 宿泊日まで二週間を切っていたが、平日の宿泊ということもあり、予約はすんなり取れた。残りは現地での過ごし方を決めるだけであったが、カズキを連れて行動できる範囲も限られる。結局は宿周辺を散策するという結論に落ち着く。ここでもノゾミは海を見に行きたいと言った。私は二日目の朝、海に行こうと約束した。
 日程と宿が決まれば、荷造りは直前にすれば良く、それまで何もすることはない。私は変わらず、週の半分を実家で過ごし、ノゾミの部屋で過ごす時は、型どおりの日常をなぞって済ませた。それでもノゾミは時折きっかけなく残りの日数を数え上げ、内側から湧いてくるはしゃぎを抑えられないようだった。私は旅行の後の反動を案じつつ、ノゾミがそれまであまり見せなかった明るい表情を頻繁に浮かべることに好ましさを覚えた。

 荷造りを少しずつ始める段になって、ノゾミが旅行鞄らしいものを持っていないと気づく。私自身は普段からノゾミの部屋との往復で使用しているボストンバッグで済ますと決めていたが、ノゾミの鞄にまで気が回っていなかった。
「これまで遠出する時どうしていたの?」
「こちらに来てから何処にも行っていないので」
「上京してくる時は?」
「あれを使いました」
「あれで済んだの……」
 視線の先には、気の抜けた布の塊が項垂れるように横たわる。それはいつもノゾミが外出する際に持ち歩く、A4のノートを数冊入れれば他に入れる余地の無いほど薄っぺらいトートバッグだった。ノゾミの言葉が事実なら、地元を離れる時、ほとんど何も持たなかったことを意味する。姉夫婦に求められるままに与え、その一方で何も与えられず、挙句に金を稼ぐために馴染みの無い土地に一人追いやられる。ノゾミの心情を察すると、荒凉としたものを覚える。普段であれば警戒するような、甘い感情に傾斜するのを内に自覚しつつも、抗わぬまま思ったことを口にする。
「この際だから旅行鞄買おうよ。私、買ってあげてもいいから」
「いえ、大丈夫です」
 同棲を始めて改めて分かったのは、ノゾミの思考に住まう陽と陰は対となって同居し、例え傍からは好ましいことであってもそれが平衡の狂いに繋がるのであれば徹底して拒む。それは積み上がりの無い、絶えず欺き続ける現実を受け入れるためにノゾミが身につけた処世ということだろう。ただこの時は私も一度踏み込んだ足を後には引かなかった。ノゾミの姉夫婦とは違う。不意に去来したその考えが何を意味するのか深く理解しないまま、私は衝動に任せる。
「だったら、私が昔使っていたリュックをあげる。もう使わないし、ノゾミが使ってくれたら嬉しいから」
「それであったら私欲しいです」

 ノゾミに渡すリュックはクローゼットの奥にあるはずだった。だが、見つからない。それどころか、母親のものと思われる見慣れない洋服や小物が場所を占有している。私は軽い胸騒ぎを覚え、食卓で肘をついてテレビを見ていた母に、努めて穏やかな調子で問う。
「あれ必要だったの?永い間、使ってなかったみたいだからリサイクルショップに持っていったのよ」
 処分されたと覚悟はしていたが、平然と答えられて唖然とする。部屋に踏み入れた時、物の配置や仄かに立つ他人の臭いへの違和から、私がいない間、母親が私の部屋を使っているのは窺えた。週の半分を例外無く空ける生活が数ヶ月続いて、部屋の主としての権利を知らぬ間に剥奪されつつあるということだろう。そのうち、綺麗さっぱりものが入れ替わったとして、それならそれでノゾミとの生活に両足を置けば居場所を確保できるので、構いはしない。そのことを案じてはいない。むしろ母親の心境の変化が気遣われた。自己愛故の猜疑心の塊である母は、私のささやかな反抗に気づいていないはずはない。病気になってそれ以前は表に現わさなかった感情が増幅される形で溢れ出して、ちょっとした感情の変化も、私には天気の崩れよりも確かなものとして感じる。しかし、今のこの違和が今後どう変容し私たちの生活に作用していくのか予想は付かず、それが鳩尾にきりきりと刺すような不安を与える。
「そう……。であれば仕方がない」
 私はしばらくの逡巡ののち、僅かな波紋も起こさぬよう小声で呟く。旅行のことは母親に告げないでおく。大した話ではない。瑣末なことではさえ口にするのは、予期せぬ反発を生む可能性があり、覚悟が求められる。私は覚悟より逃避が常套となっていた。

2-9へ続く

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