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オカルトエンタメ大学【Jホラーの作り方】脚本家・高橋洋先生の「怖い幽霊はこう描け!」の感想

YouTubeにオカルトエンタメ大学というチャンネルがある。「オカルトを楽しく学ぶ!」をモットーに怪談、心霊、村の風習、異界駅、都市伝説など様々なオカルト情報を、その道の専門家たちによる授業を通して、どこよりも詳しく!どこよりも楽しく!学べるチャンネル(チャンネル概要から抜粋)だ。

この夏、そこで3日間に渡って脚本家であり映画監督でもある高橋洋さんによる【Jホラーの作り方】という特別講座が開かれた。

これが信じられないほど密度の濃い内容で、本当ならお金払って受講すべきなんじゃないかと思うレベルで、ホラー映画好きは勿論、一般映画、演劇、小説からマンガまであらゆるエンタメ分野における作品制作のヒントになる話が沢山あった。

是非ともリンクに貼った動画をご覧いただきたいが、ここでは僕なりに受講しながら感じたことも交えてまとめていきたいと思う。

〇 恐怖表現の歴史

60年代、この頃ホラー映画は怪奇映画と呼ばれていた。代表的な作品としてハマーフィルムの『吸血鬼ドラキュラ』がある。ドラキュラを演じるクリストファー・リーとヘルシングを演じるピーター・カッシングの名演が光る初期ホラー映画の傑作だと思う。

当時の観客はクリストファー・リー演じるドラキュラの血まみれの口元アップだけで悲鳴をあげていたらしい。現代の感覚からすると「そこまでか?」という印象ではある。たしかに。僕が観る時なんかは「クリストファー・リーかっこいいなぁ」っていう目線でしかない。

しかし、その後に登場するジョージ・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は、ひと味違った。

「死体が動くとはどういうこと?」というのを追求し、観てはいけないものを観ているという感触を味わえる画期的な作品だった。「死体が蘇る」というのは、土葬が基本である欧米の人たちの心の奥に或る潜在的な恐怖意識をうまく刺激したんだろう。この辺、日本では古くから火葬が習慣としてあったからか、あまり「死体の蘇り」というのに馴染みがないのが面白い。

〇 Jホラーの恐怖表現

80年代当時、ホラー映画はスプラッタが全盛だった。だけど、高橋さんや黒沢清監督(『CURE』など多くのホラー作品の監督)らは、家に帰っても恐怖が残るもの、本当に怖いものは何かを追求したいと考えた。

本当に怖いものは何か?
それは幽霊だろう

じゃあ、幽霊が何をしたら一番怖い?
何もせずにただ立っているだけが一番怖い

それが最大の恐怖表現になるような映画を撮ろうと意見がまとまったことが、その後の「Jホラー」の代名詞に繋がった。

この「何もせずに立っているだけ」という表現が、まず画期的だったと思う。これは心霊写真からの発想だったらしい。人ならぬ“何か”がボーっと写り込んでいる怖さ、たしかに心霊写真はそれだけなのに異様なほど怖い。

だが、当時の日本の映画業界では心霊的なアプローチというのが理解されなかった。実際に撮って見せれば心霊写真のように一目瞭然で分かっただろうが、スプラッタ全盛の当時では感覚的に理解されなかったらしい。

結果、黒沢清監督の『スウィートホーム』はスプラッタ表現が全開の作品となった。それはそれで、当時の日本映画としては画期的だったと思うけど、高橋さんや黒沢さんは更に一歩も二歩も先を行っていたんだろう。まだ、時代が追い付いていなかった。

90年代に入って、小中千昭さん、鶴田法男さんらがオリジナルビデオという自由で新しい媒体によって『邪願霊』『ほんとにあった怖い話』を発表して、日本のホラー業界はガラリと空気が変わった。まさに高橋さんや黒沢さんが目指していた「幽霊が立っているだけが一番怖い」を実現させた。

〇 恐怖表現の技術論

動画の中盤で具体的に恐怖表現に関する技術論に話は展開していく。

①顔をはっきり見せない

幽霊の見え方について、心霊体験をした人たちの証言では「顔にピントがいっていない」「見ているはずなのにはっきりしない」というのが多いらしい。かろうじて「死体の表情に似ていた気がする」くらいの印象しかないという。これは無意識下で「見てはいけないもの」というブレーキがかかるからなんだろうか。

そういう証言を踏まえると映像的表現としては「顔をぼんやりさせる」ということになるのだろう。いかに「生身の人間から“人間らしさ”を奪うか」が肝になってくる。

『リング』の時はキャスティング段階から徹底して、製作サイドの「貞子は有名女優で」というオーダーも突っぱねた。その対決は大変だったと言うが、それでも中田秀夫監督は『リング』最後の最後で「貞子の目のアップ」を入れた。

高橋さんは「顔映さないって言ったのに」と思ったが、中田監督はアップカット役の助監督に眼科で睫毛を全部抜いて来させた。「人間らしさ」という点で、一本も睫毛のない目のアップほど不自然で不気味なものはない。よくいう3Dキャラの「不気味の谷」と同じ原理なんだろう。

高橋さんは「素晴らしい効果だった」と回想している。

②幽霊の立ち位置が普通じゃない

ちょっと立ち位置が高い。ちょっと幽霊のサイズが大きい。みたいな日常のリアリティを揺さぶるズレを作り出すことで“それ”が普通じゃないことを直感的に伝えるのも大切だと高橋さんは言う。

これも心霊写真なんかでよく感じる違和感に似ている。不自然に大きく写っている手や足場がないであろう場所にぼんやり写る人影、なんかは定番だ。その、ちょっとした違和感の積み重ねがボディブローのように幽霊を「そこにいるモノ」として形作っていくんだろう。

③平面的に描く

霊能力者に「あなたたちが見えている幽霊に一番近いのはなんですか?」と聞くと、みな一様に黒沢清監督による『降霊』でのなんてことない家の室内に少女がポツンと立っているカットをあげた。

撮影時に写真を窓ガラスに貼っただけのものだが、その二次元的な見え方、CGみたいに奥行きのない感じがズバリだったらしい。当たり前だが立体的に見えるというのはこの次元に存在する証拠だ。こんな当たり前のことを揺さぶるだけで、居心地の悪さが簡単に生まれるっていうのは面白い。

④幽霊の主観を入れない

けっこう専門的な話だと思うが、幽霊と対峙している状態を撮る時に、幽霊も人間と同じような主観で人間を見ているような映像作りをしてしまうのは悪手になると語られている。たしかに、この世ならざる存在のはずの幽霊が人間と同じ目線で人間を見ていたら、変だ。

だが、この違和感は使い方次第では効果的でもある。高橋さんも『ジョーズ』の鮫目線の映像による恐怖表現の見事さを例えに出していたが、まだ得体の知れない存在の段階における主観表現は、「なにかに見られている」という恐怖を生み出すことにもなる。

この使い分けが大切なんだと思う。

⑤悲鳴を上げない

これ、最近すごく思う。それこそ何十年も前の映画なら分かりやすい表現として、悲鳴は効果的だった。『ハロウィン』のジェイミー・リー・カーティスなんかは「スクリーミング・クイーン」なんて異名があるほど、絶叫シーンが魅力的だと思われていた。

だが、さすがに今の時代にそんな紋切り型の芝居はリアリティという観点から考えて正解だろうか。それはバラエティ番組なんかのドッキリ映像を見ても分かると思うが、人はなにか常識とは違うことが起きた時、絶句して思考停止してしまう。声も出ない状態になったことで、視聴者は「この人はいま、どうなっているんだろう」と想像させられる。ホラーにおいても、その想像が恐怖を増幅させるトリガーになる。

この原理原則を考えていない映画が最近の日本のホラーには多かった。やたらに「キャーキャー」叫んで取り乱し、同時に大きな効果音なんかも付けて安易に怖がらせようとする意識の低さに気が滅入っていた。高橋さんが「悲鳴を上げない」というのを恐怖表現の技術論のひとつとして提示してくれたのは、まさに我が意を得たりと思った。

例外として黒沢清監督の『クリーピー 偽りの隣人』のラストシーンをあげていた。最後に抱きしめられた竹内結子が大絶叫で泣く。これは演出する時に竹内結子から「悲鳴を上げても良いですか?」と言われ、やってみたら、それまでずっと抑え込んでいた感情の解放を見事に表現していて、かつ視聴者からしても「あ、感情あったんだ」という予想外の行動になっていて正解だった。思いがけない表現としての悲鳴は効果的にもなる。

こういうところ、竹内結子という役者の凄さだと思うのだ。泣けてくる。

⑥一部分を意図的に隠す

不安を煽る表現として、例えばいくつかあるカードの一部だけを隠して、ある部分は見えているけど、ある部分は見えないことで不安を煽れる。「あれはなんだろう?」というカード。それが明らかになるのは何時か?

たかがベール一枚だったとしても、その向こうには何があるか分からない。そういう空気感を物語の中で作り出していくか。その段取りが大切。

『リング』では、最初に貞子が現れるシーン。

俯きベンチに座る高山の目線の端に何者かの足だけが見える。フレームで切られてはいるが、確実にその先には何かが居る。

足しか見えていないのだけど、その足だけを見て観客は貞子を想像する。

そんなことを繰り返すのが段取りであり、観客はそういう段取りを経てベール一枚だとしても勝手にその先を想像するようになっていく。最初に井戸から貞子が出てくるのを見せていたら怖くないのだ。

だが、そんな理論をスパッと潔く覆したのが清水崇監督の『呪怨』だ。

清水監督は、それまでに確立させた「気配」だったり「徐々に見せていく」という手法を逆手にとって「いきなり見せる」そして「物理攻撃に近い」お化け屋敷的な怖さを全力で披露した。

普通、そんなおもちゃ箱をひっくり返したような世界観は怖くなくなることが多いのに『呪怨』は怖かった。「そこが凄い」と高橋さんは言う。だが、それはオリジナルビデオ版の『呪怨』の話だろう。オリジナルビデオ版の『呪怨2』から早々に『呪怨』の世界観はドリフのコントになったと思う。いや、でもそれはそれで面白いのだけど、純粋に“恐怖”だけを描くことにはなっていなかった。

だからこそ、あそこまで間口が広く受け入れられたとも言えるけど。

それでもあの伽椰子が階段から這いずり降りてくるシーンは、生身の人間に近い表現として伽椰子を撮っているのにも関わらず、とんでもなく怖い。そこが清水監督の演出の凄さでもあるんだろう。

ここ、清水監督サイドの演出意図も知りたいものだ。

〇 ホラー作品を実話風に見せる手法

『怪談新耳袋 開けちゃだめ編』に収録されている高橋洋さん監督の『庭』を例にして解説。この『庭』は5分ほどしかないドラマなのに、その空気感の禍々しさがエゲつない作品だ。

①通常の語り方を否定する

通常の導入部分は幸せな家庭だったり、ごく普通の日常を伝えるシーンからはじまり、途中から「あれ?なにかおかしいぞ?」と展開していく。だが、それはフィクションの伝え方で、視聴者に安心して物語を楽しませる手法。

この作品は、とある一軒家に住む主婦が自分の家に何かいるんじゃないか?と思い電話で相談しているところからはじまる。起こっている事柄に視聴者をすぐ誘い、いきなり確信にフォーカスすることで「物語を楽しみますよ」というプロローグを排除させる。こういう、すでに「何事か起きている」ことからはじめるのは、実録本などに近い独特の緊張感を演出できる。

②因縁話にしない

原作の『新耳袋』で蒐集されている心霊実話にはオチが無い、ストーリーの前後が無い話なんかがあり、そんなものが面白かったりする。不可解な事柄に対して誰かが説明し、理屈が付いてしまうと「なんだそういうことか」と安心できてしまう。

だからこそ、そういう部分を排除することで恐怖感を掻き立てる。

有名な『四谷怪談』が凄いところは、物語の半分を使ってお岩が幽霊になる過程を見せ、たっぷりと因果を語っている部分だ。観客と一緒に呪いを生み出すまでを体験させる臨場感なんだろう。追体験ではなく、進行形でバケモノになっていくのを丁寧に描くのは難しいと高橋さんは語る。たぶん、塩梅が難しいんだろう。過不足がバランス悪いと中途半端に説明不足になったり、説明過多で冗長化してしまうのだろう。

『四谷怪談』で一番怖いところは、中盤のまだお岩が人間の状態で鏡に向かって髪をすいていると、次第にボロボロと髪が抜けていくシーンだ。醜く崩れていくお岩の、その「いま、人間が幽霊になる瞬間を見ている」という臨場感が『四谷怪談』の凄さであり、日本の怪談の凄さ。

だが、心霊実話風のものを作る時にはそういう因縁話を語るよりも、不可解な断片を繋げていく方が良い。ついつい説明をしてしまいがちだし、観客も説明を求めるが、映画は(特に心霊実話風のは)説明をしないほうがいい。

ここの塩梅は本当に難しそうだ。

『リング』でも貞子がバケモノとなる過程、理由が描かれている。だが、そこも原作と映画で微妙に変えた部分がある。事件によって貞子はバケモノになるのではなく、最初から貞子はバケモノのような能力があり、そしてそんな貞子が死ぬことで怨念と化したらとんでもないことになるぞと思わせるように変更された。

普通の母親が虐げられて怒るのではただの人情噺の範囲だが、その物事を逆にすると思いがけない真実(貞子は最初からバケモノ)に出会えるというのは面白い発想だと思った。

■ 感想

40分に渡る高橋洋さんの講義は「本当にこれ無料でいいの?」といいたくなるくらいだった。特に恐怖表現の技術論では、具体的な作品例などを出しながら解説してくれるので、映像がイメージできて分かりやすかった。この動画を観る時には、登場する作品群を予習しておくか、講義の後に復習として鑑賞することをオススメしたい。

第二回でも様々な作品を元に「Jホラー史」が語られている。こちらも面白い内容なので、また別途まとめていきたいと思う。特に僕が大好きな『残穢 住んではいけない部屋』についても話されているのが嬉しかった。

『残穢』は原作も映画も本当に好き。

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