努力の清算
これまでの人生、わたしはどちらかといえばよく努力してきた方だと思っている。中学高校時代は、苦手科目は克服するようにしたし、得意科目は学年の枠を超えて学んだ。部活も1年生からレギュラーになった。生徒会も務め、今でも続く学校ぐるみの国際支援ボランティア(と言っても簡単なものだが)を立ち上げたりもした。大学も似たような形で勉学やそれ以外の活動に睡眠時間を削りながら取り組んできた。
社会人になってからも変わらず、昼夜を問わず働いて、途中自律神経を壊して休んだこともあったが、まるで「頑張らなければ生きてはならない」とでもいうべき意識で走り続けてきた。
頑張った分だけ、何かが掴めると思っていた。
だが、果たして本当にそうなのか。周りを見渡せば、そんなに全力疾走しなくても地に足のついた、それでいて確かな(そう見える)幸せを築いている(ように見える)人に溢れているような気がして、自分の人生はなんなのだろうか。という気持ちがタールのように心のあらゆるところにこびりついてきている。
少し話は変わるが、
「人はそれぞれにみえない地獄を抱えている。」
私はどんなに幸せに見える人と接するときも、そう思い接するようにしてきた。そうすることで、他者を妬んだり羨んだり、時には心無い言葉をかけられたときにも、見えない部分を慮り不必要に負の感情に支配されないようにしてきた。
そして負の感情に飲み込まれないようにすることで、いつも前向きに、明るく、周囲を照らす存在になろうとしていた。
だが、ほんとうに周りを照らすことは必要なのか?誰にとって良いことなのか?負の感情を持つことは悪なのか?等身大の自分に素直になり、感じるままを感じ、振る舞うことの何がいけないことなのだろうか?
せっかく生まれたからには、良き人になりたい。そんな茫漠とした、まったくもって具体的でない、空虚な善意のラッピング的意識で行動してきたのではないか?
頑張るものは報われる。そうであってほしい。だが、これまで頑張った結果はどうだったか?ただ、もっと頑張らなければならないフィールドに進んだり、用意されたりしただけではないか?
頑張ることの報酬はどこにあったのか?振り返ってもそんなものなかったのではないかと思う。
学業では、受験を生き抜いてより頭のいい高校に行き、良い成績を取り、良い大学に行く。そこにはもちろん私の希望(ここでは学びたい分野など)は織り込まれるものの、けっきょくそこでも背伸びをして届くところにどうにかたどり着くだけで、さらにそこでも努力をして希望する仕事につく。そんな繰り返しだった。
頑張った分だけ、次に待つのは「さらに頑張る環境」だった。
私の努力は、私の人生にその報酬として「さらに頑張ること」を渡してきた。
は?
いや、ちげえよ。
努力ばっかりしたいわけじゃねえんだよ。
甘い蜜吸いてえのよ。
あー。うめー!って言って、味わいたいのよ。
努力が実らせたなにかを。
やってもやっても終わらないって、賽の河原の石積みかて。
努力してる姿見て親は喜んでたよ。五逆罪犯してないのよ。
そろそろ、無意味に頑張るのをやめよう。
そろそろ、無意味にいい人であろうとすることをやめよう。
そろそろ、無意味に周囲を照らそうとするのをやめよう。
多分人生は、やらなくていいことが沢山ある。
やるべきこと、やりたいことも沢山ある。
これまで頑張った分、いい思いもしていいはずだ。
努力を清算するんだ。積み立ててきた努力を自分がいい思いをするために使うんだ。
そう決めて、何をしようか。となる。
したいことの優先度を下げすぎて、したいことがわからなくなっている。そんな気持ちがぼんやりと心を覆っている。
まずは、ゆっくり自分を取り戻そう。
それがきっと、努力を清算する第一歩だ。
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