自由遊びという言葉の落とし穴
保育士になりたてのころ、活動の中で自由遊びの時間を難しいと感じた。
最初は、自由遊びであるから、子どもたちが自由に遊べばそれでいいのだと考えていた。
だから、自由遊びの時間の時は、子どもがおままごとや電車で遊んでいるところを、ただ見ているだけだったり、子どもたちに求められたときのみ遊んでいるという、かなり受身な態度であったと思う。
そんな私に、子どもたちは遊びに誘うけれど、その遊びがすぐに途切れてしまったり、違う遊びになってしまったりと、いった姿が多かった。
だから、自由遊びの時のノートはいつも同じようになってしまう。
「Aくんは今日はお部屋で過ごしました。電車のおもちゃを動かして楽しんでいました」
そして、自分が楽しくなかった。同じことの繰り返しのような時間。お着替えや食事の方がやることが決まっているだけに、早くお着替えの時間にならないだろうかとさえ考えていた。
自然と、子どもたちが自分を遊びに誘うことが少なくなってきた。
何かが違うのではないか。
そう思って先輩を見ていたとき、ふと気がついた。
先輩から、子どもに関わっているということに。
例えば、Aくんが電車で遊んでいるときのこと。
当時の私であったら、Aくんの様子をただ見守っているだけか、Aくんが電車を差し出したら一緒に電車遊びをするか、のようなことをしただろう。
だが、先輩は違った。
「Aくん電車さん、いいね! じゃあ、線路を作ってみようかな!」
なんていって、マスキングテープを床に貼って線路にしてみたり。
「もっと電車さん走らせてみる? じゃあ、電車さん持ってくるね!」
そう言って、他のクラスから電車のおもちゃを持ってきたり。
このように、先輩はAくんの電車遊びに働きかけ、関わっていたのだ。
そうなるとAくんの反応も違ってくる。じっくりと電車遊びをしたり、先輩とやりとりを重ねたり。より遊びこんでいる姿になっているのだ。
そんな先輩の姿を見て、私は一つ理解した。
「自由遊びは放任遊びではない」
一見すると、自由遊びは子どもが自由にただ遊んでいるだけに見えるかもしれない。
でも、それは違う。
子どもたちが自由に遊びを選べるという意味では、自由で間違っていない。
でもその先、その遊びを「遊びこめる」ものにすること。それができて、初めて「自由遊び」というものが成り立つのではないかと思う。
そして、その自由遊びを作ること、これこそが保育士の仕事なのではないかと思うのだ。
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