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新興宗教「霊友会」釈迦殿に行ってみた


1 はじめに

 タイトルの「霊友会」とは全く違う話題から始めさせてもらいたい。私はタイトルに「新興宗教」という言葉を使っているが実はこれは適切ではない。というのもこの表現には蔑視するニュアンスがあるからだ。一般に研究者やジャーナリストは19世紀半ばに立教した新しい宗教に対しては「新宗教」という言葉を使用している。しかしながら「新宗教」という言葉は人口に膾炙していないため、あえて私のnoteでは「新興宗教」という言葉を使用している。特定の宗教法人を侮蔑する意図はないということをご理解いただきたい。
 さて「霊友会」を知らない読者にとってこの名前は随分オカルティックな響きを伴って聞こえると思うが、法華経系の宗教である。幽霊とかは出てこない…
 相変わらず本記事の記述については不正確である蓋然性が高いので誤りがあればご指摘いただきたい。また非常に下品な表現があるが、芥川賞受賞作品からの引用であるのでご容赦ください。

2 霊友会とは

概 要

 「霊友会」は1920年に仏教思想家であった西田無学の影響を受けた久保角太郎によって立教された。法華経系の新興宗教である。正式な発会は1930年。国内信者数は約1150000人(宗教年鑑令和4年版)。現在の会長は末吉将祠。

沿 革

 「霊友会」は1920年、教祖である久保角太郎西田無学の仏教思想に触れたことをきっかけに法華経の研究と在家による実践方法の模索を始めたのが起源とされている。時代背景としては第一次大戦後の好景気が退き、米騒動、関東大震災そして世界恐慌といった社会が打撃を受けるような出来事が起こっている時代である。1924年になると久保はいわゆる霊能者の若月チセ、戸次貞夫らと共に第一次「霊友会(南千住霊友会)」を結成。しかし第一次「霊友会」は振るわず立ち消えとなったようである。1927年、久保は兄夫婦の小谷安吉・小谷喜美らと共に「赤坂霊友会」として活動を開始。このころから悩み相談座談会である「つどい」を催していたようである。1930年には喜美を名誉会長とし、貴族院議員で男爵の永山武敏を会長に迎え、久保は理事長として「霊友会」として発会式を実施。しかし、永山はわずか3月で辞任。喜美が会長に復帰することとなった。このような経緯から「霊友会」では久保と喜美を「恩師」と呼称している。以降、「霊友会」は在家による法華経の菩薩行を実践する団体として発展していくことになる。1936年には政府による宗教弾圧への配慮から、公爵九条道実の養女である九条日浄を総裁に迎える。というのも前年に第二次大本事件が生起しており、神道系新興宗教である「大本」の教団本部は破壊、特高の拷問で起訴された61人のうち16人が死亡している…(「大本」については今後記事にする予定)。治安維持法が宗教団体にも適用された初めての事件であり、こうした弾圧を恐れるのは当然なことだろう。1944年、久保が死亡。その後、喜美を中心に教勢を大きく伸長するが、その一方で霊友会からの分派を増やした。1949年になると教団の不祥事が露呈し、教団のさらなる分裂を促すことになる。1952年、宗教法人法に基づく宗教法人に認定。1953年ごろにはヒロポンの撲滅運動などの社会運動にも努めていたようである。1964年には伊豆に青年の修練道場として「昭和の戒壇・弥勒山」を建立。1971年に喜美が死亡すると久保の実子である継成が会長に就任した。1975年には釈迦殿が完成。1993年、継成は集団合議制を確立するために会長職を辞任し、理事長に就任。ところが1996年、月例行事「在家のつどい」で継成が会長職に復帰する旨の宣言を一方的に発表。これにより継成とその支持者と他の霊友会幹部・役員・会員との間で内紛状態に至った。その結果、1996年に濱口八重が後継会長に就任。一方で継成は継成支持の別グループを形成し、国際団体「Inner Trip REIYUKAI International」として活動を開始した。日本国内では「ITRI日本センター」という団体名を使用している。内紛以降は久保の血縁者が会長職に就くことはなく現在に至る。

会 費

 「霊友会」の会費は中学生以上で月額500円である。したがって年会費は6000円、コストコより若干高い程度である。とはいえ弥勒山、七面山での研修費用や仏具の購入などを考慮すれば明示されている金額よりは高くなるだろう。信憑性の高い情報ではないが空会員の会費の立替え等もあるようで、人によっては多額の費用が掛かっている可能性がある。
 一方で布施といった類いのものは存在しないと明言されている。布施はないとはいえ500円×1150000人(公称信者数)で教団は少なくとも一か月に6億円弱の収入が見込まれる。うらやましい。

不祥事

 教団は久保の死亡後、戦後間もなくから1950年代半ばにかけて重大なスキャンダルが露見している。1949年に教団本部がGHQの捜索を受け、金塊とコカインが押収された。翌年には小谷が脱税の容疑で捜査を受け、麻薬所持で摘発。1953年には小谷が赤い羽根共同募金へ寄せられた信者からの義援金110万円の横領闇ドル入手、宗教法人認証の便宜を図るための文部省宗務課長への贈賄などの容疑で検挙。小谷は業務上横領では無罪となったものの、贈収賄と外国為替および外国貿易管理法違反で懲役1年罰金200万円執行猶予2年の有罪判決が下された。殺人以外の悪事のオンパレードである。ヒロポン禍撲滅運動を実施している団体の長が麻薬を所持しているというのは高度なギャグとしか言いようがない。庭野日敬が喜美に反発し独立したのも頷ける…。
 現在ではあまり悪評を聞かないものの「やや日刊カルト新聞」によれば旅行等と偽り静岡県伊豆の山中の隔離された研修施設(おそらく弥勒山)で宗教合宿に参加させる事例が確認されている。現在でもトラブルが全くないとは言い切れないようである。

派生団体

 「霊友会」から派生した宗教団体は多い。主な分派として、「立正佼成会」、「思親会」、「佛所護念会教団」、「妙智会教団」、「妙道会教団」、「大慧會教団」、「正義会教団」、「法師宗」などの宗教団体が挙げられる。これらを総称して霊友会系教団と呼称されている。
 宗教学者の島田裕巳によれば、こういった派生は順調な信者獲得により幹部が自信をつけたこと、喜美の激烈な性格および法華経の軽視、上述した不祥事が原因とされている。
 教団職員によると「霊友会」と「立正佼成会」は全く交流がないようである。身延の七面山へ参拝するときに期せずして顔を合わせることがあるとか。「霊友会」と「立正佼成会」では装着する「南無妙法蓮華経」と書かれた襷のつくりが異なる。なお「立正佼成会」については下記の記事を参照されたい(いいねしてくださると嬉しいです)。


3 霊友会の教義

西田無学

 西田無学自身は「霊友会」とは無関係であるが、法華経系教団の基本的思想を構築した人物であるため簡単に紹介する。日本仏教は「葬式仏教」とも言われることもあるように僧侶による葬式や先祖供養が寺院の大きな役割であった。しかし西田は人の平等性を謳う法華経に帰依していたため、既成仏教において布施の金額によって戒名の格付けまでなされている事に強く反発した。そのため西田は僧侶に依らない先祖供養を重視した「在家主義仏教」という特異な形態を生み出した。西田自身の教団はさほど静養することはなかったが、その考えを引き継いだ久保は組織化に成功する。

総戒名

 「霊友会」では入信すると「総戒名」を家の中に飾る。「総戒名」とはその家の先祖全体を祀るための戒名で、夫の家だけではなく妻の家の先祖も供養するものである。双方の家の先祖と個々の縁のある死者たちをできるだけ祀ることで社会の乱れが収まり家族が幸せになるという点で西田無学の思想をくんでいると言える。なお「霊友会」の総戒名には必ず「生徳院」の文字が入る。
 ジェンダーギャップの激しい我が国において夫の家系のみでなく両家の先祖を祀るというのは「法華経」の平等主義に由来するのではないかと推察する。この点、女性の信者獲得に大きく寄与したのではないだろうか。また霊友会が勢力を伸ばしたのは高度成長期であり、家督を継ぐことのない農家の次男、三男が都市部に流出した時代である。「霊友会」は仏壇を持たない家庭に先祖供養をする機会をもたらした。

つどい 法座

 「つどい」、「法座」は霊友会の活動形態の一つであり、これは地域のリーダーの家などに集まり教えの勉強のなかで様々な悩みを話すものである。「創価学会」や「立正佼成会」でも同様の活動をしている。主に語られるのは神と自らの苦悩や信仰の体験であるが法華経に基づき内省をすることで幸せを目指す。
 「霊友会」においては自ら信仰体験を得ることを重視し、さらにその体験を語ることを「発露懺悔」と呼んで勧めている。

導き

 「霊友会」では信徒になると同時に布教することが求められる。これを「導き」と呼び、布教自体が信仰を深めるための宗教的実践となっている。「霊友会」では「導き」により多くの仲間ができると「法座主」となり、さらに大きくなると「支部長」と呼ばれるようになる。こうしたリーダーへの成長も信徒にとって信仰のモチベーションの一つとなっているのだろう。

青経巻

 「霊友会」においては法華経の読誦を通じて教義がおのずから身につくものとされている。もちろん法華経の読誦は勧められているものの、法華経の教えについて詳しい解説を受けることはないようである。
 「青経巻」は法華三部経(「無量義経」「妙法蓮華経」「仏説観普賢菩薩行法経」を合わせたもの)からの抜粋を主体に久保により編纂された経典である。信者は先祖供養のためにこれを毎日読誦する。なお読誦には30分ほどかかるようである。

いんなあ・とりっぷ

 教団のキャッチコピーは「いんなあ・とりっぷの霊友会」である。ヤバい響きだ。「Myおせっかい運動」も同様、教団にはネーミングセンスが著しく欠落していると言わざるをえない。
 これは二代目会長の継成が若年層を取り込むために「INNERTRIP 人間の心にかえろう」キャンペーンを実施したことが起源である。これはあくまで私の推測に過ぎないが「人間の心にかえる」以上の意味はないと思われる。とはいえ継成は東大で博士号を取得するほどのインテリである。実際、若年信者の獲得に寄与したようである。頭のいい奴の考えていることはよくわからないものだ…。

4 石原慎太郎との関係性

 「霊友会」は東京都知事を務めた作家・石原慎太郎の支持母体でもあった。石原は1956年に「太陽の季節」で芥川賞を最年少で受賞(なお実弟、裕次郎も同年俳優としてデビューしている)、その後1968年に参議院議員に当選した。石原の参院選挙を支援していたのが「霊友会」であった。産経新聞の社主であった水野成夫から喜美を紹介される。そこで喜美から「(20万票を出す)代わり、あんた私の弟子になりなさい」と言われた石原は快諾したという。なお石原は晩年まで霊友会の信者であると明言したことは無いようではあるが「弟子」であったということは間違いない。また「法華経を生きる」という法華経についての書籍を著している。石原が法華経を精読していたのは間違いない。
 前述したように当時の「霊友会」は反社会的な不祥事を多数生起させており、このような団体から政治的な支援を受けるのは「勃起した陰茎を外から障子に突き立てる」くらい理解に苦しむ。なお石原は1976年の統一教会による「希望の日晩餐会」に出席、あいさつもしている。 
 詳細は後述するが教団施設内には「石原慎太郎の部屋 la chambre de Sin」という石原の書斎を模した展示が存在する。教団と石原の関係の深さがうかがえる。また教団職員によると彼の実子のうちの一人(教団職員は個人名を挙げていたがプライバシーのためここでは伏せる)が時折お忍びでやってきては読経しているという。
 「霊友会」は「創価学会」のように政党こそ擁していないものの、石原以外にも第79代内閣総理大臣の細川護熙などの支援も行っている。また右派系政治団体の「日本会議」とも深い繋がりがあるとされている。

5 釈迦殿に行ってみた

釈迦殿

 釈迦殿は東京都港区に所在。東京メトロ神谷町駅から徒歩5分ほど。最高の立地である(地価いくら?)。竣工は1975年。基本的に内部大ホールは自由に見学ができる。大ホール内部の写真撮影は禁止。 
 新興宗教の建築物をたくさん見て私の感覚が狂ってしまったという可能性も否定できないが、「釈迦殿」はスターウォーズに登場する宇宙戦艦(駆逐艦?)スター・デストロイヤーを彷彿とさせる荘厳な佇まいである。外観は「合掌」をイメージしているとのこと。正面玄関の扉も重厚なつくりとなっており惑星コルサントのジェダイ・テンプルのようであった。

 内部の大ホールは幅50m、奥行き100mで2500人ほどを収容できる。また法華経二十八品にちなんだ28本のV字型柱で支えられ、境内・廻廊の上に宙に浮いている構造となっている。石材が多用されており落ち着いた雰囲気であった。小さな市町村の文化会館のホールより立派であった。教団職員によると海外のアーティストからも大ホール内で演奏したいという連絡が来るという。基本的には教団関係者しか使用できないためお断りしたとのこと。 私が行ったときには何人か読経をしている信者がいた。
 地下には「小谷ホール」と呼ばれるホールも存在するようである。教団職員によれば中で球技をすることもあるとかないとか…。大ホールと違って使い勝手が良い部屋のようだ。
 設計施工は竹中工務店である。なお立正佼成会の大聖堂も竹中工務店が手掛けており、我が国の宗教建築は竹中工務店に支えられていると言っても過言ではない。以下のリンクは竹中工務店が携わった宗教建築のリストである。

https://www.takenaka.co.jp/majorworks/purpose/traditional/index.html

東京タワーからは全貌を拝める。

石原慎太郎の部屋 la chambre de Sin

 「石原慎太郎の部屋」は3つの部屋で構成されおり、石原の著作紹介コーナー、書斎の再現スペース、石原が喜美と対談した場所の紹介、エピソードなどを展示している。書斎の再現スペースには石原宅にあった調度品、書籍をそのまま設置している。書斎の再現には四男の画家、石原延啓が監修をしたそうだ。
 石原の机には古いワープロがあり、これは晩年まで大事に使っていた実物だそうだ。また本人の名前タグがつけられていたボストンバッグやヴィトンのスーツケースなど実際に使用していたものがそのまま設置されている。石原は描絵が好きだったようで彼の絵画も飾られている。個人的には作家のイメージが強かったので意外であった。
 また教団と石原の接点を強調するような写真や映像資料(教団行事での石原による挨拶など)も多く展示されており教団との深い関係を十分に理解することができる。
 「石原慎太郎の部屋」は作家、政治家としての石原について学べる非常に意義のある展示であると言える。石原のファン、支持者はもちろん、石原について理解するという意味でいわゆるアンチにとっても非常に参考になる施設であるといえよう。なお常駐している教団職員から解説を受けることができる。

石原の作業机
石原の蔵書
岩崎弥太郎に関する書籍が多かった。

6 おわりに

 幸運なことに、これまで私は多くの西ヨーロッパの教会、中東や東南アジアのモスク、我が国の奇抜な新興宗教施設を訪れ、様々な宗教建築を目にしてきた(海外の仏教建築は観に行くことができていないが…)。「霊友会」の釈迦殿は海外の由緒正しい宗教建築と比較してもチープさがなく負けず劣らず壮麗な印象を受けた。釈迦殿のSFチックな佇まいが私の琴線に触れただけかもしれないが…私の感性が狂っていなければ東京観光の名所の一つとなっても不思議ではない。もちろん勧誘等は一切なかった。ぜひ一度、見学に行ってはいかがだろうか。

 
 

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