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生徒・教育者の多様性と異なる価値観を受け入れるアメリカの学校

 日本では、学習指導要領の改訂では、「主体的、対話的で深い学び」を実現するために、アクティブ・ラーニングによる授業改善を行うとしている。そして、「社会や世界とかかわり、よりよい人生を送るため」には、生涯にわたって能動的に学び続けることが大切だとしている。

 文部科学省の論理で言えば、主体的、対話的な学びを実践した結果、よりよい人生が送れることとなるが、私は、個を生み出し、多様な価値観を認めることになるのではないかと思う。主体的な学びは、個がなければできないことであり、自己と他者が異なることを認識し、相手を尊重した上で初めて対話が可能になるからだ。アメリカの教育現場で働いて感じるのは、一貫して個性を尊重し、多様な価値観を受け入れる姿勢である。日本も同じような方向へ進むのだろうか。だとしたら、今、私がアメリカの教育現場で見て考えることを発信することも意味あることかもしれない。

 個性とは、自身が内包する人間性のことである。自分はいったい何者なのか。アメリカの場合、その中に独自性も含まれ、それは他者との優劣で決まるものではない。試験で何点取り、順位が何番だったかは関係ない。年齢や性別、人種も関係ない。自身の個性を認識し、見つめるために、英語教育カリキュラム内に、自分の生い立ち、家族、コミュニティ、グループなど、自身のアイデンティティを見つめ、クラスで発表したりエッセイを書いたりする授業が、毎学年組み込まれているのだ。個々の個性を見つめることで、他者の個性も認識する。そしてそのことは、他者とは違うことを認識し、尊重することにつながるのだ。そして、学校では、お互いをRespect(尊重)することを教育している。

 それは、多様な価値観を受け入れることにつながる。頭で考える、ただそれだけではない。多様な人が周りにいるということも大切なのではないか。アメリカの学校は、日本と比べ、多種多様な職歴や背景を持った先生が、多様な雇用形態で出入りし、教育を行っているように思う。そうすることで、生徒に対して、多様なものの見方や考え方、学校内外の世界やつながりを教えることができる。余談になるが、学校教育という現場において、こうした風通しのよさが、生徒間や教師間のいじめを減らすことにもつながるのではないだろうか。

 また、生徒の多様性もそうである。アメリカの公立高校では、車椅子に乗り、食事の介助が必要で、アルファベットや数字の理解に乏しい、そんな身体に障がいを抱える生徒も、できるかぎり健常な生徒と同じ教室で交わっている。たとえば選択科目の美術や音楽、演劇などは、障がいを抱える生徒も同じ教室に行き、空間を共にしている。共同作業はできないにしても、同じ教室にいるということ自体が意義あることである。公立高校のカリキュラム内に、特殊教育のインターンシップが用意され、そのコースを選択した生徒は、教員と共に数学や英語、体育などの時間に、障がいを持つ生徒の補助を行っている。こうした形でインクルーシブ教育がなされている。

 学習指導要領の改訂で求められる「主体的、対話的で深い学び」を実現させるためには、アクティブ・ラーニングを実践することに特化して考えるだけでなく、学校や生徒、教育者の多様性と異なる価値観を受け入れる必要もあるのではないか。今日のグローバル社会において、必然であると考える。しかし、一元的で集団性を重んじ、そして同調圧力が働くこれまでの日本の教育と真逆なだけに、その課題は大きい。


参考資料
・NIT独立行政法人教職員支援機構 國學院大學教授 田村学「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けて:校内研修シリーズ №25 
https://www.youtube.com/watch?v=63KUompcHU0

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