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父の日によせて

私ら兄弟は幼いころ、
たまーにだけど、ほっぺを父に"れろーん"と舐められた。
それが嫌だった妹は幼稚園の入園試験で
「パパは"れろ"ってするからイヤ。」って答えたらしい。
パパとママどっちが好き?というありえない問いにね。
「そんな質問どうかしてるよね!!そして
"れろ"を先生方に説明するのすごく恥ずかしかった。」
と母は後日語っている。

父がほっぺたを舐めてきたのがいつまで続いたかは覚えていないが、
こんなことで止めにする人じゃないのでしばらく続いたと思う。

私は父を好きも嫌いもなく、特別甘やかされたわけでもない。
くそ真面目な父だ。
話は盛り上がらない。
そのくせふざけたテンションは持っている。
変なテンションを出すタイミングを常に狙っているところがある。
だからくだらない親父ギャグをかましてきたときは笑ってあげた。
思いっきり笑ってあげた。
母は呆れるだけなので。
父親とは可哀そうな存在だと
私はもうどこかで哀れんでいたのかもしれない。
父を必要以上に近くに感じたくはなかったが、
ご機嫌でいてほしいとも思っていた。
父と話すにしても
「どうしたらこの人が喜ぶか」って視点で話題を探した気がする。
父親が可哀そうなんて可哀そうだもの。
ややこし。

酒好きな父はOLになった私をときどき食事や飲みに誘った。
待ち合わせ場所がわからないと言うと手描きの地図をFAXで
私の職場に送って来た。

私が結婚するまでに何度か2人で外で飲んだり、歌ったりした。

なんの話をするでもない。
「好きなの頼め」
「じゃ皮と砂肝」
「なんか歌うか?」
「ん、欧陽菲菲」
それぞれが好きなの食べて好きなの歌って
勝手に盛り上がってた。
ふざけたテンションはお互い様。
父と2人で一緒に盛り上がるというより、
周りのお客さんを巻き込むことが多かったな。
そんなときでも必要以上に近くに父を感じたくない、という
変な「逃げ」があったんだ。
どこかに「父と一緒にいてあげる私」ってのがいて、上手にそれを
演じてた。

1度だけ若い愛人を連れたオヤジだと思われたことがあった。
娘だとわかるとびっくりされた。
「父親とサシで飲みに来るお嬢さん、なかなかいませんよ。」
周囲のおじさんたちは羨ましそうだった。
世の父親ってのはやはりどこか哀れなのだと思いながらそれを見ていた。
父はそんなおじさんたちとは違うってことが嬉しかっただろうか。
焼き鳥屋のカウンターでその晩父は間違いなく脚光を浴びていた。
得意の演歌を気持ちよさそうに歌っていた。
私は調子よく揉み手でリアクションする。
父は上機嫌だった。
それでいい。

お父さん似だね、と言われるのはそれほど嫌じゃなかった。
「父親に似ると女の子は幸せになる」と都合よく考えていたから。
40過ぎた頃、自分の寝起きの顔が父そっくりでうぎゃっとなった。
「ここまで似てたっけ??」と今までの自覚のなさに笑いが出た。

孫のほっぺにぶっちゅぅとキスをしてソッコーぬぐわれたとき、
「私、父とやってる事一緒じゃん・・・」と青ざめた。
自分無意識にやっていることが
ことごとく父と同じです、ともう認めざるを得なかった。

コロナ禍の最中に倒れ施設に入ったままの父とは
年に何度も会えない。

やっと今年になって月に1度ほどだが外泊できるようになった。
それはコロナ対策の軽減やリハビリの成果だ。
その日にあわせて実家に何度か行ってきた。

父が帰ってくる日だろうと家族全員が父につきっきりという
わけにはいかない。
掃除や買い物に洗濯。
家にいる者には家にいる者の日常がある。

誰もがせわしない中、父と私だけがぼけら~~っとしている。
耳が遠くなり、麻痺の残った父は余計口が重い。
(しゃべることはできる)
私は父の近くにいるようにはしているが、
やっぱり何を話そうか探してるだけ。
2人だまーーって、ただ時間が過ぎる。

それでも弟は
「姉ちゃんが来てくれるとすごく助かる。」と言う。
いや、私いるだけだし。
でも、父の様子が全然違うんだって。
私がゲラゲラ母と笑ってるだけでもいいみたい。
そうか、父はご機嫌なんだ。
それならいい。

親父ギャグの波状攻撃はもう繰り出してはこない。
それでも父にはふざけたテンションを維持していてもらいたい。
それをフォローし煽るのは私の役目なんだろう。


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愛、というより思い出です。

#レオン父の愛


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