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【映画感想文】君たちはどう生きるか

7/15(土)鑑賞

全く情報が無いままに公開されたことで話題になったこの映画。情報が出回る前に早速観に行ってきた。とは言っても基本的に私が映画を観に行くときには事前の情報を入れることは殆ど無いので、通常営業といえば通常営業ではあるのだが。

まあそんな話はさておき、色々と思うところのあるこの映画についての感想をエネルギーが残っている内につらつらと書き留めて行きたい。

私たちは何を見せられたのか

「なんだこれは…」

とにもかくにもこれが最初の正直な感想だ。岡本太郎が頭の中で永遠とぐるぐると駆け巡っているような感覚に襲われたようである。宮崎駿式タローマンと言っても良いかもしれない。

或いは「私たちは何を見せられてしまったのか」といった所だろうか。本当に意味の分からないものを見せられたら人間乾いた笑いが出るらしい。少なくとも第一印象はそういったものだった。

話自体はシンプル

物語は戦時中、火事で病院が焼け落ち母親を失った主人公の眞人が父親と共に田舎へと疎開するところから始まる。母親の妹(叔母)でもあり、父親の再婚相手でもある継母夏子との出会い。新たな生活への戸惑いと、夏子に対する複雑な感情が描かれる。

そんな中大叔父様の作った不思議な塔の中へと消えた夏子を追いかけ、自らも謎の青鷺に導かれるようにして「下の世界」へと足を踏み入れる。そこで眞人はどのような冒険を繰り広げるのか……といった具合だ。異世界に行った後は千と千尋をベースに、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』のエッセンスを練り込んだ様なストーリー展開だ。

良い言い方をすればセルフオマージュだが……

この作品で特に目を引くのは、とにかく過去の作品を思い起こさせるシーンが多く登場する所だろう。ラピュタ、千と千尋、ハウル、果てはカリオストロの城まで、至る所に過去の様々なジブリ作品の面影をジブリならではの映像美とともに見て取ることができる。

それらは良く言えばセルフオマージュだが、如何せんストーリーが凡庸であるが故に寒々しく映ってしまう。本来オマージュは、本筋とは関係のないものだからだ。まず本筋の魅力を感じたいのに、オマージュが目的で作った話に見えてくる。こっちは元ネタがわかって楽しいどころかノイズでしかない。こうした要素は核となる物語がしっかりとあって初めて上積みとして機能するものであって、そうでなければ逆効果だ。

結局何が言いたかったのか?


帰宅後、特に大叔父様のセリフなどを中心に物語を反芻してみた。「この世界は限界にきている」「自らの子孫である眞人に世界の管理を引き継いで欲しい」等の大叔父様の心情の吐露を改めて考え直してみて、なるほど大叔父様は宮崎駿自身だったのかとようやくそこで理解することが出来た。

しかしそれならそれで今度は怒りがこみあげてくる。大叔父様の言動や塔の中の世界観にはおそらくジブリやそれを取り巻く人達に対するメッセージのようなものも込められているのだろう。

一々何が何のメタファーだのという考察をする気は無いが、結局それらはジブリという身内、或いはクリエイターに対するメッセージであって鑑賞する私達は置いてけぼりだ。少なくとも私自身はこの作品からそれ以外で何かしらの観客に対するメッセージ性などを読み取るということはできなかった。

宮﨑駿の生前葬

そのような作品ならジブリ美術館やジブリパークの片隅でひっそりとやれば良い話であって映画館で大々的にやるものではない

早い話がこの作品は宮﨑駿自身の回顧録であり、遺書であり、生前葬であり、お別れの会といったものである。そう考えればセルフオマージュの多さにも合点がいく。Twitterに流れてきた感想で「宮崎駿のエッセンスの原液が詰まった作品」というものを見かけたが、私に言わせれば真逆だ。「宮﨑駿お別れの会」で、在りし日の思い出をスライドパネルで流しているようなものである。

そこにアニメ監督宮崎駿としての作家性はもはや存在しない。辛うじてこの作品オリジナルの作家性があるとすれば、少女の姿にした実の母親をヒロインとして宛がったという駄々洩れ全開の性癖ぐらいのものだ。

いずれにせよジブリフリークとして宮﨑駿の生き様、最後の作品(多分)を看取りたいという人、つまり生前葬・お別れの会に参加したいという人にとっては良いだろうが、私を含めそれ以外の単にジブリの映画を観に来たという人にとってはただの退屈で凡庸な訳の分からない映画でしかないだろう。

だからこそプロデューサーの鈴木敏夫氏も全く宣伝することなく公開という対応にならざるを得なかったのかもしれない。鈴木Pの苦労も分からないではない。しかし詐欺的行為とまで言うつもりは無いが、ある意味それに近いものはあるだろう、青鷺だけに。

いつかこの作品を観たということが

そんな作品の性質を鑑みれば、この作品が賛否真っ二つとなるのはある意味自然の成り行きだったのかもしれない。私自身はそうした生前葬に図らずも参加してしまった、映画を観に来ただけのつもりのただの一般客なので賛否で言えば後者の方だ。

しかし恐らくこの作品は後々まで語り継がれる様な作品ではないと思う。少なくとも生前葬という状況に参加することが出来るのは今だけであって、後からでは公開直後の今と同じレベルの熱量をもってこの作品を語ることはできないだろう。こうしたライブ感を味わうことができたという意味では多少は観る意義があったと思う。そう自分に言い聞かせるようにしよう。

このような作品に出会うのもまた人生、ということで。

……かもしれない

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