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13歳からのアート思考

■書籍名 13歳からのアート思考
■著者  末永幸歩
■所感
 アートとはいったい何かという問い自体は、僕が10代からずっと抱いてきた問いである。岡本太郎の「芸術と青春」を読んで芸術に触発されたところから始まり、20代の頃は芸術とは何かということをずっと考えてきた。当然にして、突き詰めるほど謎の深まる「ゲイジツ」である。掘れば掘るほど、自分の表現したいという理想的なイメージとの乖離を感じ、いつの間にか表現すること自体に疲弊し、トラウマ的な恐怖を感じてしまうノイローゼ状態に陥ったのを覚えている。そんな感じで追い込まれた僕が取った解決方法は、とても倒錯的なロジックであった。つまり、自分は芸術に飲み込まれている。ということは自分が芸術を飲み込めばよい。芸術に飲み込まれた自分の人生を回復するため、芸術を自分の人生で包含してしまうことが必要であるという発想により解決を図ることにして、芸術と「休戦協定」を結んだのである。芸術に人生を振り回されるとは何事かと。僕は芸術にしか向き合えない人間ではなかったはずだと。スポーツや山登りや料理や読書、そしてごく普通の家庭を築くという幸せ、もっと他にも人生を充実させることのできるものがあるではないかと。そもそもなんで芸術に向かったかと言えば、自分の人生を豊かにすることができると思ったからではないか。それなのに全く楽しめなくなっているではないか。むしろ辛くなっているではないか!芸術に包含されることが人生ではない。僕自身が芸術を包含し、僕の管理下に置くことが喫緊の課題なのである。ということで、芸術との闘いに蹴りをつけたわけではないことを自覚していながらも、崖っぷちに追い込まれた自分の身体性を回復するため、緊急避難的に「休戦」という形で芸術との距離を置くこととしたのである。
 本書におけるアート思考の旅は、アートに留まらない「ものの見方」が提示されている。正解のない現代の世の中において、自分なりに答えを見出していくためにはとても示唆的である。いわゆるVUCAワールド(Volatility=変動、Uncertainty=不確実、 Complexity=複雑、Ambiguity=曖昧)に言われるように、世界の見通しがきかなくなった社会においては、正解を見つけることの価値よりも、「自分の内側にある興味をもとに、自分のものの見方で世界をとらえ、自分なりの探求をし続けること」に価値が見出されるのである。本書では冒頭で強烈な表現をして正解を追い求める現代社会の大人達を批判している。つまり、「じっと動かない1枚の絵画を前にしてすら『自分なりの答え』をつくれない人が、激動する複雑な現実世界の中で、果たしてなにかを生み出したりできるでしょうか?」と。
 そして本書では、『「自分の興味・好奇心・疑問」を皮切りに、「自分のものの見方」で世界を見つめ、好奇心に従って探究を進めることで「自分なりの答え」を生み出すことができれば、誰でもアーティストであると言える』と締め括っている。
 しかし、このような「アート思考」に対して、「論理」や「理屈」は至って雄弁に敵対してくる。得てして僕たちは自分の感性よりも、あまりにも雄弁に語る「論理」に支配されがちである。論理に当てはめた方が、淀みのない語り口でなにも考えずに雄弁に語ることができて、非常にストレスがなくて身体に負荷がかからない。だからどうしても僕たちは身体の感性ではなく、脳の論理にしたがって因果を結論づけしてしまいがちである。でも、僕たちは「論理モード」に支配されないように、自分の身体に耳を傾け、脳ではなくて身体がどのように反応しているかに意図的に集中しなければいけない。論理バイアスがかかっていることを前提に、身体の反応に耳を傾けなければならない。そうしないとアート思考による自分なりのふに落ちた答えに辿り着くことができないのである。
 身体の反応に耳を傾け、その暗黙知を形式知にまで引き上げることはとても難易度の高い作業である。実際、僕はその訓練のためにこうして書評をコツコツと書くことを始めたのである。本書においては、その言語化の作業の一助として、観察したものを一つ一つ言葉に「アウトプット」することを第一ステップとして提案している。観察により発見した「事実」に対しては、その事実に対して自分はどういう意見を持つか、逆に、観察から自分の意見が直接出た場合は、どのような事実からその意見が派生したのかを探る。「事実と意見との疎通」によって身体で感じ取った「自分のものの見方」を言語にしていくことが自分なりの答えを見つけ出すためのプロセスとなるのである。
 たぶん現代社会の僕たちは、正解を性急に求めすぎているのだと思う。そのほうが楽だから。正解を手に入れたいという方向に流れてしまうのは、根本的には、正解を手に入れておかないと自信が持てないからなのだと思う。すぐにインターネットの検索により、取り繕ったような答え探しに没頭してしまうのである。僕たちは、「とりあえずの答え」を持っていない時間を許容することができなくなっている。答えを探している時間を「非効率」なものだと片付けてしまっている。答えのないことに対する極めて不寛容な価値観は、短期間の間に確実な成果が求められる新自由主義的な資本主義社会で培われてしまった、学校教育や組織の人材育成の「成果」なんだと思う。
 アートとな何か。休戦協定によりしばらく考えることのなかった問いに対して、本書を通してまた向き合うこととなったと思う。僕はこれまで、アートに対する「答え」を探し求めていたのだと思う。アートの「答え」は探せばどこかに転がっていたり、隠れていたりするものだと考えていたのだと思う。アートとは様式美であったり、感情表現であったり、人間性であったり、人間そのものであったりと。とにかく一つの、どこかにころがっている「答え」を性急に追い求めていた。「たぶん現代社会の僕たちは、正解を性急に求めすぎているのだと思う。そのほうが楽だから。」
 でも本書を読んだことで、今は「答え」を追い求める必要がなくなった。なぜなら、アートとはアート自体の「答え」を見つけるのためのものではなく、アートという思考プロセスによって「答え」を自分でつくり出すものであるから。そう考えられるようになったことで、芸術と休戦協定などではなく、平和条約でも結んだ気分となった次第である。 

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