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母と私とコンセプト〜何者かになりたかった私

自問自答ファッションの要、コンセプト。それは私にとってパンドラの箱だった。「なりたい」自分を設定する、というのがどうしてもザワザワするのだ。「なりたい」って、今現在の自分以外の何者かになるってこと?じゃあ、今ここにいる私は一体どう扱ったらいいの?

一度は「なりたい」など考えなくてもいい、今の私のままで「似合う」はわかるし「好き」にたどり着くこともできる、と思った。

決着がついたと思っていた「なりたい」問題に、けれど私はまた帰ってきた。まだ、心の奥で何かがザワザワしている。このポイントはきっと、私自身を知るための鉱脈だ。掘れば必ず何かある。そう思っていたら、思いもよらない角度から問題が見えてきた。母のことだ。

私は40年余りありのままの自分を認めたことがない、筋金入りの「べき・ねば人間」だった。努力しないことは怠慢だと思っていたし、全ての物事には必ず、自分以外の誰かが決めた「正解」があると信じていた。最近になってようやくそれを自覚したところだ。

もしかしたら、私の母も、私と全く同じだったんじゃないか。

ある日突然、そんな考えが頭の中に閃いた。その瞬間、今まで全く見えていなかった角度から、私は母親について考えることになった。

***

私の母は、私の故郷でもあるとある田舎町に生まれた。小さなころから品行方正、学業優秀。順風満帆な少女時代を過ごした後、東京の大学に通うため上京。優秀な成績を収め大学院進学の誘いを受けるも、断って帰郷。実家に帰り、TVアナウンサーとして地方局に就職した。

時は1970年代。当時、女が仕事を全うするということは、言葉にできないほどの苦難の連続だっただろう。まして彼女の戦場は、田舎に特有の情と縁が蛇のように絡み合う小さな世界。閉ざされた共同体の人間関係は、SNSの繋がりよりも良くも悪くも遥かにウエットだ。

母は頭が良く、仕事ができた。と同時に、学級委員長のように実直だった。正攻法以外を良しとせず、常に高い理想と正論を掲げ、長いものには食ってかかる母は、とにかく男たちに煙たがられた。先輩や同輩女性たちからも距離を置かれた(後年、うんと年の離れた後輩からは慕われたらしいが)。

私が生まれた1980年、男女雇用機会均等法など影も形もなかった。

母は実家の両親によるフルサポートの下、産後8週で職場復帰。歯を食いしばって働き続けるも、会社から一切の配慮はなく、あったのはひたすらな理不尽のみ。働いても働いても評価されないどころか、成果が出るほど閑職に追いやられていく。母の持ち場はTVからラジオへ、キャスターから制作サイドへと移っていった。

しかし母は、腐らなかった。

彼女はやがてラジオ番組の制作に心血を注ぐようになり、ライフワークとも呼べるものに育て上げていった。地方局の強みを存分に生かし、山間の小さな村や漁港の裏寂れた町に暮らす「普通の人たち」の声を丁寧に掬い取り、彼らのささやかな日常を番組を通して紹介し続けた。

職場でどんなに冷遇されようと、母はより良い番組を作るべく、自分の足でひたすらに人脈を築いた。おそらくそれは、彼女自身の人生における好奇心を満たすためでもあったのだろう。少しでも時間ができれば人を訪ね、自腹で大阪や東京にもよく足を延ばし、あちこちで顔を繋いで情報を仕入れた。


こんな風に客観的に母の半生を考えたのは、初めてだ。書いてみて思う。

超人かよ。

もしこれが友人・知人の母親の話だとしたら、私はきっと心から感嘆する。なんて努力家で、誠実で、芯が通っていて、タフで魅力的な人だろう。どんな環境に置かれても自分の仕事に価値を見出し、ひたすらにそれを高め続けようとするなんて、私には到底真似できない。

だけど、実の娘である私は、どうしても素直にそう思えない。だって、家で見る母はちっとも幸せそうじゃなかったから。もちろん、本人が幸せと感じていたかどうかなんて、私には知る由もないけれど。

***

母の帰宅は、早くて21時過ぎ。朝は私の方が先に家を出る。だから平日に母と顔を合わせることはなかった。週末は週末で、死んだように寝ているか、取材や趣味で外出しているか。母に遊んでもらった記憶は全くないし、スーパーに一緒に買い物に行ったことすら一度もない。

記憶にある母は、カサカサの肌にボサボサの頭でゴロリと寝そべっては、半径5メートル内にある物すらいつも祖母に取らせていた。口から出るのは「疲れた、だるい、しんどい」のみ。内容はよくわからなかったけれど、祖父母相手に会社や仕事の愚痴を言っているのはわかった。

父との仲も最悪だった。そもそも父もほとんど家におらず、2人は月に1回か2回顔を合わせるだけなのだけれど、父の帰宅が憂鬱に思えるほどに、毎回必ずヒステリックな喧嘩が繰り広げられた。近所中に響き渡る罵詈雑言と、力いっぱい叩きつけられるドア。ドアが壊れないのが心底不思議だった。


ストレスのはけ口を買い物に向けていたせいか、母は無類の買い物好きで、しかし片付けや掃除はさっぱりできなかった。見かねた家族(主に私)がこっそり片付けようとすると、「勝手に捨てるな!」と烈火のごとく怒る。

家のそこかしこから賞味期限の切れたお菓子や調味料が出てきて、ストックの全貌は一向に把握できない。ひどいときはネズミも出たけれど、その姿を捉えることすらできないほどモノが散らかっていた。

増えすぎた洋服はクリーニング店のカバーがついたまま、家中に所狭しとかけられている。長押を占拠するから引き戸は全部開けっ放し。とうに満杯のクローゼットは開かずの間だし、神棚にも針金ハンガーがかかりっぱなし。

郵便物は請求書からDMに至るまで、要不要の判断がつかず捨てられない。ダイニングテーブルにうず高く積み上げられて、雪崩を起こしては占有面積を広げるので、食事のたびに皿を置くスペースを確保する必要があった。

本が大好きで、書斎には哲学書や文芸全集、美術展で買い集めた図録が溢れている。書架をはみ出して床にうず高く積み上げられたそれらは、すっかりカビと埃にまみれ、ハウスダストアレルギーの私はくしゃみが止まらない。


私はずっと、こうした母の態度や散らかり放題の家が大嫌いだった。でも初めて、一社会人としての母に思いを巡らせてみて、率直に思った。

そりゃそうなるわ、しゃーないやん。

心身ともにとっくにゲージを振り切って疲労困憊した人間にとって、家なんてただ寝に帰るための巣に過ぎない。なお巣作りする気力なんて、ある方がおかしい。

それにしても、どうしてそんなに働けたんだろう。

「自分には、人生を捧げるべき仕事がある。世の中には、自分にしか伝えられない真実がある。今自分が動かなければ、市井の人の暮らしに眠るささやかな真実はきっと、誰からも忘れ去られてしまう」

きっと母は、そう思っていたに違いない。それはとても素晴らしい気概だし、私だって彼女の信念や血のにじむ努力を否定する気は全くない。

だけど、仕事以外の生活すべてを犠牲にしていた母は、「大義」とか「生きがい」とか、一見すると美しく壮大なもののために動いているようでいて、その実私と全く同じ「べき・ねば」で生きていたんじゃないか?

自分には果たすべき使命があるのだから、全力を尽くすべき。それは裏を返せば、働いていない自分には価値がない、ということにならないか?

ああ、それはかなり、苦しいな。初めてそんな風に思った。

そして、母の言うことは誰に対してもいつだってど正論なのだけど、私はずっと心のどこかで、この人の言葉ってなんか上っ面なんだよな、と思っていた(もちろん口にしたことはない)。

この違和感の元は、母が家の外にばかり目を向けて、「自分自身の小さな暮らし」を大切に生きていなかったことにあるんじゃないか。「べき・ねば」に囚われていただろう母は、家の外に真実を求めて走り回っていたけれど、家の中を整えたり、夫や娘とじっくり話をすることはなかったから。

この気づきは、ずしんと重みをもって、私の胸に迫ってきた。

***

何を隠そう、私自身が幼いころからずっと、何者かにならなければならないと思い込んで生きてきた。

仕事とはすなわち生きがいでなければならないし、人生を捧げられるくらい高尚な仕事に就かなければ、私が生きている意味などないんじゃないかと思っていた。たとえば紛争解決とか、国際協力とか。

でも実際には、思い描いていたような世界規模の仕事には就けなかった。

紛争地域や途上国に足を運んで実情を知ることも、国際機関の職員の採用試験を受けることも、怖くてできなかった。私はちんまりと手の届く範囲内で勉強し、インフラの整った先進国に留学し、帰国して、普通に就職した。

そして、ものの見事に挫折した。大手メーカーで働くこと10年、適応障害で休職したのだ。私は、何者にもなれなかった。

じゃあ、今私は不幸なのか?

いいえ、全く。

時短で仕事をし、家事をし、子どもの面倒を見て、ごはんを食べて、子どもと遊び、お風呂に入り、寝る。家族と語らい、たまに友達と会う。泣きたいくらい落ち込むこともあるし、クスっと笑えることもある。それを時折こうして文字にする。ごくごく当たり前の、どこにでもある日常。

それを生きている私は、今までの人生の中で一番満たされている。

私はずっと、何者かにならなければ自分の人生は満たされないと思い込んでいたけれど、そうじゃなかった。大事なのは何者であるかじゃない。逆だ。心が満たされていれば、何者であったとしても全く関係ない。

仕事と家庭、どっちが大事?とかそういう話ではない。生きる喜びや意味は、いつだって自分自身の中にあるということだ。

たとえば、三食きちんと食べること。住まいを心地よく整えること。愛着の持てるものを管理できる量だけ持つこと。気に入った服を身に着けること。ほどよく動いて、体と心の滞りをなくすこと。縁あって一緒に暮らす家族と、小さな出来事を分かち合って、一緒に泣いたり笑ったりすること。

そういう一つ一つをないがしろにしていくら自分の外に大義を求めても、見つけたものは単なる蜃気楼だ。どれだけ追いかけたって永遠に追いつけやしないし、自分が心から満たされることは決してない。

そうか。「なりたい」問題の奥で言語化されるのを待っていたのは、これだ。

自分の外を見るんじゃない、中を見ろ。お前は何者になるべきかを考える前に、当たり前の暮らしを丁寧に生きてみろ。

***

結局まだできていないけれど、コンセプトには何か言葉を置いてみようと思う。「なりたい」というよりも、「あり方」「生き方」かもしれない。私が人生で一番大切にしたい大方針を、一度言葉にしてみたい。迷ったときに立ち返るための、道標のようなもの。

それはきっとファッションだけじゃなくて、衣食住の全てに関わるキーワードになる。私の生き方において「装う」というのはどういうことか。それを考えると、服の選び方もまた深まっていく気がする。


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