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世界を切り取るということ〜さくさんに写真を撮ってもらって考えたこと

最後に持ち物モロバレの写真を載せているため、趣旨は「制服化の記録」とはちょいとずれますが有料マガジンに格納させていただきます。顔出しはしていません。

2月のある日。肌寒い曇り空の都内にて、念願叶ってさくさんにお会いできた。

プロ並み(※プロでした)のお写真の腕前もさることながら、さくさんのTLの振り幅には以前から強く興味を引かれていた。ご自作のゆるくてかわいいイラストにほんわかしていたらキリリとハンサムな自撮りが上がり、きゃっ😍と思っていたら次は大人っぽシックなお姉さんの写真が上がる。このお方は一体どういう…?!

お会いしてみたら、想像していたよりずっと柔らかな雰囲気の、気配りの細やかな優しいお姉さんだった!てっきり「シカク」だと思っていたら「まる」だった、みたいな(注:造形ではなく雰囲気の話)。待ち合わせ場所で目が合った瞬間「この人いける(?)気がする…!」と直感し、実際一瞬で打ち解けたのだった。嬉。

撮っていただいた写真を眺めていると色々ふわふわ思いつくのだが、全然まとまらない。書くのを諦めて寝かせているうち3月になり、迎えたのは世にも楽しい別会合。さくさんおすすめのムレスナティーにて、さくさん撮影OGのもち子さんアヅマさんtotonoさんと集まって、互いの写真を見せ合いっこしたのだ😋

春の花咲き乱れるお庭を愛で、絶品ミルクティーと昇天ホットケーキに悶え、わんこのごとくひっきりなしに運ばれてくる紅茶に溺れ、目的を今にも忘れそうでヒヤヒヤしつつもどうにかミッションコンプリート。大量のさくさんフォトを拝見する中でまたふわふわと浮かんできた考えを、今度こそ徒然に綴ってみようと思う。


世界を平面で捉える私、空間で捉えるさくさん

さくさんにお会いした当日は、まずはペニンシュラホテルでヌンとしゃれ込んだ。2月のメニューはテンションもぶち上がるいちごヌン。運ばれて来た瞬間、思わず2人でカメラを構えた(撮影OKでした!)。こちらは、写真ヘタクソ芸人こと私が撮ったもの。いちご🍓!わー🍰!きゃー😍!とか言ってる。

フツー以下の写真である

ペニンシュラのクマだ!かわよ!!とか言ってる。たぶん。

もうちょっとどうにかならんのか

同じ瞬間をさくさんが捉えると、こうである。

何この落差。すごい…よね…。

金属やガラスのひんやりツルリとした感触と、食べ物のしっとりふわふわした印象がくっきりコントラストを描いている。パッと赤が目に飛び込んでくるから、いちご!春!という情報が一瞬で入ってくるし、全体像がわかりつつも自然とクマに目が行ってしまう構図。背景をぼかすと綺麗に見えるよね〜、とかそういうレベルの話ではない(書いてて自分のヘタクソさにちょっと泣けてきた😂)。

こちらは、フレッシュないちごが運ばれてきた瞬間をさくさんが切り取った1枚。

(写真どヘタクソの分際で寝言を言って申し訳ないのだが)フレームの中で一番見せたいものが、一瞬で絞り込まれているなと思う。しかも、トングや腕時計にペンのツヤっとしたシルバーの無機質な光沢が、いちごや木箱という天然素材の醸し出す温もりといい感じに対象を成している。

これを見て、思った。

私が見ているのは多分、すごく2次元的な世界。人やモノをぺったりとした平面でしか捉えられていないし、ピントもどこか漠然としている。でもさくさんは、焦点を瞬時に絞り込み、なおかつ3次元で捉えている気がする。人やモノが「立体」として見えている、というか。対象の目に入らない角度の形までなんとなくわかっていて、光の当たり方と影の形が掴めているんじゃないだろうか。多分、無意識に。

そういえば私は、超ド級の方向音痴である。空間認知能力が恐ろしく低く、地図は回転させないと読めないし、方角で説明されると慌てふためくタイプ。しかもつい最近、色の話の中で「色を(リズムのある)面で捉える」ことを課題に据えたばかりである。自分の心地よい奥行きが知りたい、と。

もしかしてこれも、世界を平面で捉えてきたことと関係あるのでは…?

同じものを見ていても、人それぞれ見え方が違うというのを初めてまざまざと意識した。今ふと思ったけど、どヘタクソな写真に今後挑戦してみたら、世界の見え方が少しは変わって行くかもしれないね?自分の見方の癖を意識してちょいと特訓してみたら、今までとは違った角度で世界が見えるようになったりして、ね??

ないものは写らない

思い返せば、今回の会合の引き金になったのはもち子さんのツイート(ポスト)。(※急な引用すみません!ご不快でしたら消すので言ってください!!)

昨年アヅマさんにお会いした時にコッソリ見せていただいたもち子さんのお写真は、見事に音が消えて時が止まっていた。リアルですれ違っていたら、振り返って二度見する類の感覚。それをまざまざと思い出したものだから、「なってみたいっていうか、『ソレ』ですよ!!」とリプをせずにはいられなかった。

今回改めてお写真を拝見したが、やっぱりそうだった。たぶんこの空いてるスペースに「ポカリ、のまなきゃ。」って書くやつよね。そのくらいの透明感と清涼感。ブルーのシャツ(アヅマさんによりもち子ブルーと命名)が本当にピッタリだし、耳に手を添えたカットなんかは手首の白さ華奢さが際立って悶えんばかりだった。

アヅマさんのお写真は、少し緊張されているであろうショットに始まって、それから場面が進むにつれて空気が次第に解けていく様子が伝わってくる。そして後半、安心された様子でふわりと笑ったお写真は、本当に誇張なしに光っていた。背景の木漏れ日と一緒にキラキラしていて、柔らかくてやさしくて、美しかった。

夏の昼下がり、光降り注ぐ開放的な空間で、みんなが思い思いにくつろいでいる。その温かなざわめきまでもがフレームに収まっているようで、それがまた見ていてものすごく心地よい。写っているのはきっとご本人が書かれていた通り、大好きなものと大好きな人に囲まれている安心感、なのだと思う。

お二人(と私)は六本木の国立新美術館で撮影していただいたのだが、totonoさんの撮影場所は銀座の歩行者天国。全く違うスタイリッシュな雰囲気で、プロのグラビアのようだった。ご自身でも撮影をされるtotonoさんは、どの角度でどういう動きをしたらどう見えるかをご存知で、ご本人の解説も勉強になることばかり。

白い人工的な光の走る地下道で、その光を背景に真ん中に立ったtotonoさんがロングスカートをブワッ!とさせた瞬間の1枚が最高にドラマティックだった。車のヘッドライトに照らし出されたような切迫感がある一方で、スカートのテラっとしたツヤが人工的に時間感覚を引き伸ばしているようで、都会的で刹那的で面白い。

それにしても写真のtotonoさんは、目の前にいるtotonoさんと同一人物かな?と疑うくらい雰囲気が違う。人ってこんなに振り幅を秘めてるものなの?…振り幅と言えば、さくさんもそうだな。もしかして写真を撮る人って、世界のことも自分のことも多面的に捉えることができるのかもしれない。

こうして見てくると当然ながら、いかに凄腕カメラマンでもないものは写せないのだな、と思わされる。もち子さんにしてもアヅマさんにしても、本質的な部分だったり心のあり方がそのまま切り取られているような気がする。totonoさんはご自分で「ここまで生きてきたこの瞬間の私を収めていただいた」とおっしゃっていた。

そう思うと「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに」といういつかのキャッチコピーの通りで(知らない方も多いかな?)、あるものは増幅されても、ないものは写らない。そういうものなのかもしれない。

私の写真に写っているものは

じゃあ、私はどうなんだろう。

自分の写真を客観的に捉えることは難しいからどうしても過去の自分像との比較になるけれど、ここに写っている私は少なくとも以前より落ち着いてるな、と思う。目の色が穏やかになったというか。

20代から30代半ばまでの私は、「地に足がついていない」と人に言われることが多かった。頭でっかちでやりたいこともわからなくて、漠然とした夢想をしては「人のことを幸せにしたい」なんて本気で口にしていた。自分の幸せが何かもわかっていないくせに。周りが見えていなかったし、それ以上に自分を知らなかった。

だけど40代を迎えた今は、自分の足で自分の人生を歩いているという、ある種生々しい感触がある。それは間違いなく、自問自答ファッションのおかげだ。

さくさんにお会いする予定が決まったのは8月のこと。だから秋冬の気合の入った買い物(ショートブーツコートカシシル、あとリング!)は言うなれば、さくさんに撮っていただくために頑張って手に入れた、という側面がある。どれも、自問自答を知る前の自分ならとても手が出せなかった価格帯のものだ。

高いものを買ったから自分も価値のある人間になれた、と言いたいわけではない。上辺だけ着飾ることで、素の自分から目を逸らしているつもりもない。

私が経験したのは全く逆だ。モノに対して見たこともない金額を自分の懐から本当に出すと決断することは、自分自身との真っ向タイマン勝負そのものだった。悩んで迷って考え抜いた結果、やっぱりどうしてもこれが自分の人生には必要だと思えたから、震えながらも身銭を切った。

その結果、間違いがないわけではない。やらかしちまったこともある。人から見たら「え?」という選択だって、多分ある。でもこの1年はとにかく自分で考えて、自分で決めてきた。そのことが今、買い物以外にも影響を及ぼしている気がする。だって生きることはすなわち、選択の連続だから。

不完全で不恰好で子にはしょっちゅうイライラし、仕事でもプライベートでもうっかりが多すぎる私だけれど、テメエの人生くらい自分で決める。様々な選択を重ねてきた末に、そんな気持ちになっている自分に気がついた。そして今、どんな自分だっていいじゃない、という諦めにも似た境地がぽっかりと広がっている。

もしかしたらこれが、「自信」というやつなのだろうか。私は自問自答の末に、そいつに出会えたのだろうか。もしそうだとしたら、そしてそれがこの写真にわずかでも写っているのだとしたら、とてもとても嬉しい。

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2024年から、有料マガジンとして制服化の記録をつけていきます。と言っても有料なのは写真部分のみで、文章自体はすべて無料でお楽しみいただけ…

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