ディランの頭蓋を開ける─ディランの思想、夢を覗く
岡﨑 乾二郎
And if my thought-dreams could be seen? They’d probably put my head in a guillotine? But it’s alright, Ma, it’s life, and life only――It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)
メディア/ディラン/メディウム
多くの人が認めることでしょうが、表現者としてボブ・ディランの存在は、二〇世紀に最も影響を与えた一つの事件であったはずです。ゆえに彼はノーベル文学賞の候補にさえなったけれど、一方でこれは何か悪ふざけのようにも扱われた。所詮はポップ・カルチャーにすぎないものを過剰評価しすぎている、と。作品にふれたことがない人がこういう偏見を持つのは当然かもしれませんが、横光利一の「純粋小説論」ではないけれど、何かを変える力、文化をほんとうに動かしている影響力、感染力はむしろ特定のジャンルに囲い込めず規定できない性格を持つものであって、ゆえに作者も特定の制度内で同定できない。だからアノニマスの民衆芸術にこそ、こうした力が見いだされる、ということは近代芸術という問題群の核心でもあったわけです。僕が日本でもっとも尊敬する芸術家は手塚治虫や楳図かずおであって、彼らには岡本太郎も丹下健三も三島由紀夫も到底、及ばない。そして当の三島由紀夫が生前に、なぜ文学を読む人間が手塚の『火の鳥』を読まないのかという疑問を呈していましたが、これも同じことでしょう? 文化の基盤を動かす力をもったのは手塚や楳図であって文学者ではない。いずれにせよディランも、詩人として戦後最大の言葉の力を発揮した芸術家であったのは間違いない。
第二次大戦後の美術家のなかには、確かにロバート・ラウシェンバーグのような大きな影響力をもった存在がいました。僕も大きな影響を受けましたが、僕にはディランのほうがよほど存在として大きかった。むしろ美術の世界においてディランにあたる仕事そして実践をした人を探し出したとき、ラウシェンバーグ(とジャスパー・ジョーンズの二人組といってもいいですが)が見つかった、これが僕にとっては事実です。映画でいえばゴダールでしょうか。「女と男のいる鋪道」には実際ディランのことが出てきます。つまりディランの方がゴダールに先行しています。僕の考えでは、アメリカの六〇年代文化の位相は3人のボブ=ロバートの登場によって代表され、形成されています。ロバート・フランク(1924~)、ロバート・ラウシェンバーグ(1925~2008)、ロバート・アレン・ジマーマンすなわちボブ・ディラン(1941~)の3人。ロバート・フランクとラウシェンバーグはほぼ同い年ですが、ディランは16歳ほども彼らより若い。けれど文化的には同世代だといえる理由があります。
ディランの出現はアメリカ現代詩の流れにおいて見れば、ある意味、必然だったでしょう。ポー、ホイットマン、ディキンソンから始まって、スタイン、エリオット、パウンドなどのイマジズムそしてこの流れを受け継いだギンズバーグあるいは作家のジャック・ケルアックなどのビートニクに直結しているわけですから。ひとことで言って、この流れのなかで、詩は作者の心情を歌うようなものではない、それは誰だかわからない者が呟いた言葉の断片のようであり、神話的な語り、お告げであり、そしてこれはそれとは矛盾しないのですが、ゆえに、それはアフォリズムや哲学あるいは科学のテーゼでもありうる。つまり特定の誰か=作者が語っているのではなく、言葉自身が語っているのであり、そこで言葉はアノニマスゆえに具体的な客体物として境界を超えて伝播していく。詩人はこの言葉を伝播させる語り部、霊媒(メディウム)、メディアである。この流れでは、もともと伝統的、民衆的なライム、ヴァースという歌謡の形式は排除されるどころかおおいに参照されていたし、またスタインやパウンドがそうしたように市井の人々の声をそのまま作者がメディアとなって書きとめ、さらには、それを編集して舞台やラジオにのせるという方法すら行われていたわけですから。
メッセージか?感覚か?
ラウシェンバーグたちに先行する世代は、一九三〇年代の公共芸術にみな関わっていました。大恐慌以降のいわゆるニューディール政策に連動した公共事業。写真でいえばFSA(農業保障局)による貧困記録プロジェクトであり、美術でいえばFAP(連邦美術計画)。写真家のウォーカー・エバンス、画家のベン・シャーン。そしてディランが大きく影響されたウディ・ガスリーもまさに同時代一九三〇年代に現れ,一世風靡したのです。
ロバート・ラウシェンバーグはブラックマウンテン・カレッジで、一般に抽象表現主義(むしろアクション・ペインティングと呼ぶべきですが)を代表する一人であるデ・クーニング、そしてもう一方で社会派のベン・シャーンも絵画の先生でした。この二人は様式的には対立しているようですがWPAになんらかのかたちで関わった共通の世代でもある。ロバート・フランクにとっての先行世代にあたる、エバンスも同じですね。エバンスもシャーンもたとえば貧困を描いたし、その表現には強い社会的メッセージがあった。いわば芸術の回路に内閉しない表現だったとはいえるでしょう。
けれど、ゆえに、それはあらかじめコード化されたメッセージであることは超えられなかった。そこに示されているのはいわばステレオタイプの貧困の像、マイノリティの像です。公的認可を受けるがゆえに「一般」に理解させなければいけない締め付けがある。つまり、政府あるいは公的機関という公準=「一般性」で規定される民衆芸術であった。あるいはそれに対抗しても同じく、 対抗する特定の立場からの視点に固定される点では同じで、プロパガンダとして同型に収まってしまう。メッセージには原理的に誰が誰に向けて伝えたのか、という話し手と受け手のポジションこそを前提としてしまう、あるいは要請してしまうという問題があるのです。
一方の抽象表現主義はこうした状況への批判そして反動として生み出されたとはいえるでしょう(グリンバーグの『アヴァンギャルドとキッチュ』に語られているのはこういう状況です)。一般に抽象芸術は固定された意味をもたない、感覚の純粋化として語られます。絵画でいえば視覚(的効果)の純粋化。けれどこれは貧富、人種、階級など現実に存在する様々な差異を止揚するのでも消去するのでもなく、ただ忘却させる効果でしかなかった。ひとことでいえば、感覚に快楽のみを与える装飾物として享受されうる。その意味では、自己の社会的な地位、階層の違いもふくめて、現世的な問題、不平等を忘却したいと求めるある特定の階層(自称リベラルな上層階層、富裕層)にこそ好んで消費されてしまうともいえないこともない。
ラウシェンバーグにしてもロバート・フランクにしても、この対立を超えることこそが課題でした。いわばメッセージか/感覚か、の二項対立があり、この不毛な対立を乗りこえる方法として選ばれたのが、 アッサンブラージュだったのです。異なる生産過程、形式による表現の並列、衝突、そしてそこに生み出されるズレをそのまま作品に持ち込むことですね。視点が安定せず、いわば文化の異なる階層が地滑りをおこし、ずれていく。こうした運動を起すこと自体が重要でした。このズレ、移動にこそ彼らの表現の特徴がありました。文学でいえば、当然『路上』のジャック・ケルアック(1922~)が対応します。
さて、そのケルアックの影響も強かったといわれる、ディランはそもそも全盛だったロックンロールの強い影響から出発していた。ハイスクールでプレスリーのコピーなどやっていたロック少年が、にもかかわらずエレキを捨て、ウディ・ガスリーを発見し、フォークでデビューしたのはなぜか? ここに最初にひとひねりがある。
ロックの論争史を見直してみると黒人/白人、プラグド/アンプラグド、ハード/ソフトなどの二項対立が繰り返し現れます。よくいわれるように抽象表現主義に音楽で対応するのはチャーリー・パーカーなどのビ・バップから、モードに至るジャズの流れですね。いうまでもなくジャズにせよロックにせよ、すべての起源はブルースです。そして白人にはブルースはできない、少なくともアメリカの白人には(イギリスであれば平然とコピーできる)。しかしジャズはこの溝をのりこえる力をもっていた。それは高度に組織化された感覚、いや感情の形式でした。通常、感情とは理性で了解できないズレ、隔たり、ギャップを受け入れる受け皿です。そしてこの受け皿は、かならずそれが帰属する(共感できる)ところの特定の階層、共同体を組織してしまうものです。しかし、ジャズはこの感情的ズレを音階に組み入れ(ブルーノート)、感覚的秩序を作りだす運動のモチーフに昇華してしまった。パーカーはこの感情→感覚の回路を単なる娯楽の対象ではない、崇高な次元にまで高めた。だから白人のスノッブたちにもおおいに歓迎されたのです。ロカビリー、ロックンロールもある意味では、ジャズ以上に、感覚の強度(その単純化された感覚)によって、メッセージそして感情の帰属性、その帰属意識を解消してしまう=忘却させてしまうものだったといわざるをえません。だから白人に受け入れられプレスリーも生まれた。おそらくディランにはこの仕組みがわかっていた。そして、このように感覚的に享受されてしまうかぎり(いくら崇高などといっても)抽象表現主義がそうだったように容易に商品化され、消費されてしまうということも。この意味で、感覚的な強度、快楽を強調するかぎり、ロックは、ブルースという起源から考えると欺瞞的でもあった。おそろしく美しい旋律を作曲しながら、ディランがあのダミ声で旋律そのものを壊すように歌ったのは確信犯でした(バエズはなぜ、ああも美しく歌うのか?とディランが、ジョーン・バエズに疑義を唱えた=からかったのは有名な話です)。
いずれにせよディランには、ロックがやがて迎えるだろう、限界があらかじめ、はっきり見抜かれていた。そんな時に白人や黒人というポジションを超えているモデルとして再発見されたのがウディ・ガスリーだったわけです。たとえば有名な“THIS LAND IS YOUR LAND”(『この国はあなたたちの国』) 、この曲は、合衆国と呼ばれる土地を放浪しながら、その同じ国としてひとつに呼ばれる土地—LANDがさまざまな境界線で非対称的に分断されているのを見いだす――たとえば「歩いていたら看板があって、誰もこの先に入るなと。ところが反対側からはなにも書いていない」という有名な一節。そして最後は「ぼくら民衆の中で、誰かがぶつぶつ、それでも、この国はあなたとわたしのためにつくられたのかな?と訝しがって(wonder)いる」、つまりガスリーにとって歌うことは放浪すること(wander)であり、それは疑うこと(wonder)でもあった。さきほどいったような、ロバート・フランク、ロバート・ラウシェンバーグ、ケルアックの方法を見事に先取りしていたわけですね。そしてディランの詩には最後まで、このガスリーのヴィジョン――異なる場所と場所がすれ違い、それぞれ訝しがりつつも、挨拶をし、罵倒し殴り合い、ときには悲鳴あるいは歓喜をあげ、また別れていく――こうしたヴィジョンがこだましています。詩とはさまざまな異なる言葉、文化を交差し横断し、葛藤衝突させ、分裂し、道が生まれ途絶え、休息しまた殺到する、そういうメディアである。
こうしてウディ・ガスリーは白人でも黒人でもない表現をした。ディランはそもそもブレイクからエリオット、イマジズムからケルアックのようなビートニクまでの詩を熟知してもいたわけですから、話し手、受け手のパフォーマティヴな関係にもとづくメッセージから、いかに主体の位置を外すか、いわば誰にも属さない言語のふるまい、パフォーマンスをいかに解放するか、という問題意識を鮮明に持っていた。ゆえにロックの長所も弱点も見抜いていたわけですが、そのディランにとって、ガスリーはロックンロールの長所であり弱点でもあった感覚的強度の覆いを、突破するメッセージの強度、声=言葉をもっていたということです。
パフォーマンスとしてのレコード
ところでポップ・ミュージックにおいてパフォーマンスという概念は往々にして誤解されています。録音か/ライブかという対立が、いまだあるかのように信じられている。ポップ・ミュージックはレコード、ラジオなどの複製技術、正確に絞りこめば録音技術を前提としています。それがあってはじめて成立する。レコード化されれば、なんでもポップ・ミュージックになりうる、とさえいえる。一方で「にもかかわらず」ではなく「ゆえに」ですが、ポップ・ミュージックがポップ・ミュージックである最大の特徴は、どれほど抽象化された音楽であっても、かならず感情的な負荷を帯び、いわばイメージを持ってしまうことにあります。ここでイメージとは、何かが行われた場所、その情景全体を想起させるものといっておいていいでしょう。それは「確かにあった」どこか特定の場を思い起こさせる。なぜ、こういうことが起こるのか。それは録音技術が作りだす事実に関わっています。録音は楽音のみならず周囲のノイズも息づかいも等価に録音してしまう。いいかえればノイズは録音されることでノイズでなく確定された楽音のひとつになってしまうわけです。録音はいわば場の全体を記録し、そのことで音楽それ自体はむしろ遠ざけられる。録音することは写真でスナップショットを撮るのとほとんど同じだということです。
実際、これは写真にベンヤミンが見いだした問題と同じでした。ベンヤミンはこう分析したわけでした。言葉の意味が、それを発した話し手とそれが向けられた受け手の関係として確定するように、写真も見る者と見られる者との間のまなざしの交換によってはじめて意味を成立させる、ひとつの言葉である。つまり写真はもともとは言葉同様、見る者、見られるモノの関係の上でなりたつパフォーマティヴなメッセージである(あった)、けれど、そのパフォーマティヴなメッセージを成立させた場所はもはや失われている。ベンヤミンは話し手と受け手の関係が成り立つ場を、アウラ(ギリシャ語で「風」の意味)―いわば、話し手と語り手のあいだに吹いている風と呼んだわけです。写真にはこの風がもう吹いていない。いや吹いているのを感じても、実際にはそれが吹く場はいまやどこにもない非在の場である。そこに写された人物の視線が本来向けられていた人は、もうここにはおらず、そもそもこちらにまなざしを投げかける、被写体としてそこに映っている当の人物がもうここにはいない。にもかかわらず写真の上には、まだ誰かに向けて何かを訴えかける視線のみが残っている。視線は宛先を失った「風として、まさに宙をさまよっている」。
写真はこうして、行き先のないパフォーマティヴなメッセージとなる。いいかえればそれはコードを持たないメッセージというより、コードを位置づける場所なきメッセージである。写真を見る人はゆえに、この非在の場所を想起してしまう。写真のイメージとは、この非在の場所そのものの想起である。どこか、いつか、きっと見たことがある、見たかもしれない、見ただろう、確実性と非在性がイメージとして重ね合わせられる。
ポップ・ミュージックも同じです。録音を通して聞くのは、確かにそれがあった、行われた、そういう場があったという、ある場所全体、その出来事全体への追憶です。そしてそれは聞くたびに繰り返される。言い換えるならば、古くから歌が持っている機能――歌うたびにその場が再生される――がそこには確かに保持されている。つまりレコードに録音された楽曲はすべてパフォーマンス、パフォーマティヴな上演として受け取られる。
コードがあったとしても、そのコードが位置づけられる場はすでにない、バルトはこれを「コードのないメッセージ」と呼びました。しかし、単にコードがないだけであれば、各々が好きなコードを当てはめて、好きに読み解けばいいということになってしまう。抽象表現主義がいわば表象秩序を、崇高やら感覚的視野の拡張など感覚の強度で強引に超えようとしたことは、先ほどもいいました。ポップ・ミュージックにそれを当てはめればそのまま音響の強調ということになり、これを徹底すれば自動的に環境音楽という処に行き着く。録音さえすれば、現代音楽も容易に非在の場所への追想、情感を帯びた嗜好品に変わってしまう。
余談ですが、こうした感覚的享受に抵抗するために、アクション・ペインティングのように、作品自身がメッセージを持った身振りであるという思想も生まれたわけです。つまり作品自身を仕事(ワーク)として捉えようとする。つまり、ここには感覚重視の芸術至上主義に対する嫌悪が存在していたということです。活動や場という考え方には当時アメリカにいたハンナ・アーレントの影響があったのかもしれません。いずれにせよ作品をパフォーマティヴな過程としてとらえる発想があった。
ポップ・ミュージックに話を戻しましょう。レコードは、コードではなく、そこに聞こえる音が生き生きと息づき、位置づけられるはずの非在の場所こそを喚起させる。その場所の不在に充填されるのがセンチメント=感情です。写真もレコードも誰かにライブで語りかけているように見えるけれども、そのライブはもはやどこにもない。ポップ・ミュージックが帯びる感情的な負荷とは、このような録音と想起が連結される体制にこそ関わります。
話す/語る/歌う
ロックンロールの流行はいうまでもなくレコードのマスプロ化、ラジオ、ジュークボックスというメディアの発展と連動していました。音響、声だけを聞いて、それとは切断された形で写真などを見ているわけですから、実際に誰が歌っているのか確かめようがない、ここで人種の差など実は意味をもたない。黒人は白人のように歌い、白人は黒人のように歌った。つまり事のすべての真偽は音響上の出来事に吸収される。ところがご存知のように一九六〇年代初期に逆転が起こる。まずレコードが売れ、そこで喚起された虚構のライブ感情を補強する販売促進興行としてコンサートが開かれるようになる。レコードを出す前にクラブでやっていた牧歌的なライブとは本質的に異なる状況です。レコードそしてメディアで喚起させられたイメージを確かめに、ライブにやってくる観客の質はまったく異なるものであった。それはフォークでも同じでした。レコード録音された以上、フォークだって、はじめからエレクトリック化されていたわけですから。
こうして、知られるように一九六五年あたりで、ロックは大きく変質しはじめます。ディランが「Bringing It All Back Home」を発表し、エレキギターをもちロックに転向したといわれたのは、むしろこの時期です。ディランの転向はフォークからの転向ではなく、むしろはじめから彼が先見していた通りに、壁に直面していたロックへの批判として機能し、同時にロックにそこから抜け出す道を示すものだった。
もはや販促のためのライブツアーの虚構性に誰もが耐えられなくなり、六十六年あたりでビートルズを含めて多くの人気バンドがツアーを中止しスタジオにこもるようになります。こうした状況の、この時期にディランが矢継ぎ早に発表した「Highway 61 Revisted」「Blonde on Blonde」という展開が与えた影響力ははかりしれません。一言でいえばディランは音響、感覚的快楽の壁を突き破るヴィジョン=コンセプトというものがあることをはっきり示したのです。「Bringing It All Back Home 」(1965)収録の「It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)」─ディランはこの曲でアコースティックギターを弾いていますが、歌詞、曲想の複雑さ、洗練はすでに極限に達しています。この曲の鋭利さはジミ・ヘンドリックスさえも嫉妬させるようなものだった。「銀の匙」「正午の霹靂での暗黒」などの語句がちりばめられ、矢継ぎ早に「理解するにはあんたは早く知りすぎる」「生まれるのに忙しくなく死ぬのに忙しい」などの警句が打ち込まれる。いかなることがあろうと問題も答えもそこにはない。人間としての目的など「ため息をつく」こと「血が流れること」だけで、すでに充分である。あげく「OKだ。もうたくさんだ。何か他に見せるものがある? もし俺の考えが夢見るところのものを見られるなら、やつらは俺の頭をギロチンに置くだろう、けれどそれでいい、おっかさん、それが人生、たんなる人生」と唐突に終えてしまいます。
「Highway 61 Revisted」収録の「Like A Rolling Stone」はガスリーを経由してディランがつかんだブルースの核心がなんであるかを示しています。この歌詞はかつて一流の学校に通い、贅沢な暮らしをしていた男が没落し、いまや誰にも知られなくなったことをあざけっているような歌詞に一見、聞こえますが、「転がる石のように、完全に誰からも知られず、帰る家もなく、存在しているってのは、いったいどんな気持ちだい?」(How does it feel ?)。これこそロックの精神的核心をついています。How does it feel ?は決してあざけっているわけではない、むしろ、よかったねえ、ようやく君も解脱したと祝福しているわけでしょう。マディ・ウォーターズの歌った「ローリング・ストーン」の核心がはるかに遠くまで押し進められているわけですね。もはや彼は白人でも黒人でもない、ただの石ころです!
また余談ですがブルースが興隆した1930年代に、宮沢賢治はそれに呼応して「雨ニモマケズ」を書いている。そのオロオロ歩くだけのデクノボウの像が転がる石=ローリング・ストーンの賢治流のいいかえ、つまりブルースだったことに気づいたのは加藤和彦だけでした。
さて、ディランはロックが、世界に生起するすべての事象を扱えることを教えてくれました。「Highway 61 Revisted」は、有名なクロスロード神話の拡張ですが、政治的な陰謀、世界破壊、あらゆる時代を越えて起りうる事件のおおよそが決定される場所としてハイウェイ61が措定されている。ストーンズの有名な「Sympathy for the Devil」――宗教戦争もロシア革命もケネディ暗殺もすべての歴史上の残虐な破壊行為を 俺がやったと告白する「悪魔に共感する」歌――はディランの「Highway 61 Revisted」がなければ発想もされず作られることもなかったでしょう。
そして「Blonde on Blonde」というロック史上最初の2枚組アルバム。そういわれることはないけれど、これは、おそらく最初のコンセプトアルバムといってもいいでしょう。ビーチ・ボーイズの「Pet Sounds」、ビートルズの「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」、ヴァン・ダイク・パークスの「Song Cycle」にももちろん先行している。「Like A Rolling Stone」のStoneは「 Blonde on Blonde」の一曲目「Rainy Day Women # 12 & 35」の「誰もが石で打たれるべきだ」(Everybody must get stoned)のstoned(=ドラッグをキメて)人間でなくなるべきだ。というフレーズに連なり、それはジェンダーも含めて、すべてのアイデンティティ、過去を冷たくぬぐい去る「Just Like A Woman」の曲想にも連結している、そこに唯一残るリアルなもの―女であるか/男であるか、友達なのか/恋人なのか、そのすべての属性が抜け落ちても―は「けれど、小さな女の子のように、壊れやすい」という不安定な性質だけです。2枚組最後の片面すべて十二分近くを費やした長大な一曲「Sad-Eyed Lady Of The Lowlands」(名曲です、何千回聞いたことでしょう)はディランによる「掟の門」(カフカ)であるとさえいえる。「悲しい目の予言者はだれも来ないよ、といった」。「わたしの倉庫のような目とアラビアの太鼓をあなたの門に置いていくべきか、悲しい目の御夫人、それともここで待つべきか?」。押し寄せる波のように、スタンザがつぎつぎ現れ、6/8拍子の終わりなき行進曲のリズムが畳み込むように繰り返され、決して終わらない=決して、門を通過することができない。麻薬的な切迫感が押し寄せる行進曲です。(これになんとか対抗できているのは、曲想ははるかに柔らかくなっていますが、Cat powerの十八分十八秒の名曲「Willie Dead wilder」くらいでしょうか。この曲では、 どこからきたのか、どこに行くのか、わたしたちはあまりにやることがたくさんある、急がなければ、行かなければ、と繰り返される)。かつてプロテストソングなどが立脚していた人間などという観念立場はなんて甘いものだったのでしょうか。このアルバムでディランは浮ついたヒューマニズムを破壊しつくし、いわば、それでもなお人間が人間でありうる根底の条件こそを示したのだといえるでしょう。
しかし、先ほどいったように、ディランがロックに与えたのは単なる言葉によるメッセージではありません。言葉を超えたイメージだというべきでしょう。たとえばさきほどのstonedという語、「誰もが石で打たれるべきだ」という語句の無限の反復のように、あるいはこの「門を通過できない」、足踏みするリズムのように、ここでイメージは身体的な行為にそのまま移しかえられる。それは世界に向かう態度、構え方、精神のある状態を構成する。イメージは、ここで思考が生みだされる場所そのものを示し、作り出しているといえるでしょう、誰でも、そこでは石で打たれ、根底から自らの立つ場、主体そのものが問われなおされなければいけない。それが当為として与えられる。ディランの言葉はこうした場所=行為を規定する場を産出する、それこそが場所=命令です。言葉がオーダーである。イマジズムが考えたイメージとは、すべてをひとつの運動としての場、行為する場へ巻き込み、運動として憑依させる力ではなかったでしょうか?
そして歌うことは、このイメージを呼び起こし、その場へ繰り返し、立ち戻らせることだった。イメージはこうした、特異な行為、特異な場所をよみがえらせる力=情動そのものに与えられた像であるともいえるでしょう。ゆえにイメージは感情的な負荷を帯びている。こうしてイメージは、感覚か/メッセージか、音響か/言語か、という仮設された対立をのり超える力をもつのです。(はるかに単純な言葉を使って、こうした運動的なイメージの強度を引き起こす力をもっていたのは、実はディラン以上に、「I Walk the Line」を歌ったジョニー・キャッシュでした。ミニマル・アーティストのone thing after anotherというアイデアはほとんどキャッシュから来ていて、ミニマル・アーティストは例外なくキャッシュを好むのです、ディランがキャッシュを尊敬していたのも了解できます)。
二つのパフォーマンス=コンセプトアルバム
コンセプトアルバムの最大の特徴は、アルバム内の世界と日常的に現実とされる外部世界を切り離すことにあったといえるでしょう。当然のように、その作者も作品の外にいるのではなく、作者すら作品の効果として、つまり虚構として作り出されてしまうものとなった。簡単にいえば、アルバムとは一つのフィクション、物語を形成することになったのです。アルバムに登場するバンド名、ミュージシャンの名は映画に登場する主人公同様、そのアルバムの中での役割にすぎません。対して、その全体を実際に作った人間つまりミュージシャンは、アノニマスな裏方、背景として姿を隠すことになります。典型的なのはCaptain Beefheartの「Trout Mask Replica」ですが、これはビートルズの「Sgt. pepper's lonely hearts club band」にも受け継がれた共通する性質です。レコードによって作り出される「ライブ演奏」という幻影、虚像を演じさせられることに疲れたミュージシャンたちが、それを逆手に取ったようなアルバムを作りはじめるのはある意味必然でした。ロック・ミュージシャンのみならず、グレン・グールドなどもこの時期にリサイタルを開かなくなりました。グールドがいったように、コンサートこそが作為が支配するヤラセである。つまりライヴではない(笑)。人為的、恣意的なのはむしろコンサート会場で実演してみせる演奏行為だということです。
ところでドイツの言語学者ヴァインリッヒは「話す」ことと「語る」ことをまったく異なる時間秩序をもつものとして区別しました。「話す」はそのメッセージの意図が話者と聞き手の関係に還元される(その特定した場に位置づけられる)から、話し手も聞き手も緊張を強いられる、と彼は言います。すなわち、そのとき聞き手は――この言葉によって彼は私に何をいおうとしているのだろう――と身構えている。対して「語る」というのは、そこで、語りとして組織された文は、こうした話し手/聞き手の関係から解放されている。つまりその文の主語はその話し手自身ではないし、その文は直接、聞き手に向けられているわけでもない。語りは「だったそうな」という文の終わり方に示されるように、そこで語られる事実は「そうだったらしいよ」「そうだったかもかも、ありえるかも」と現実の事実として曖昧性を帯びる。一方で、誰であれ、この話を語るとき、その話の主語になり代わってしまえる、つまり語り手を、その語りのもつ場所へと憑依させることのできる普遍性をもつ。これが物語というものの効果、構造です。ヴァインリッヒのこの論を坂部恵は藤井貞和の論とつなげ、語ることは騙ることであり歌うことにつながる、と書きました。「話す」という行為は、そこで発話される文を、外的な参照枠として特定の人間関係に位置づけ帰属させますが、反対に「語り」は、外的な参照枠から切断され、その文自体の内部にそれ固有の場所つまり別の自律的な時間空間を備えている。ですから「語る」(または、それを聞く)という行為は、その行為を遂行する主体をその文自体がもつ別の場へ移行させる働きをもつ。
よく知られているように、ヴァインリッヒは、「話す」と「語る」の違いは端的に時制の区別で示されると指摘しました。普通、パフォーマティヴな言語行為として考えられがちなのは前者の「話す」であり、重要だとされるのは、話す行為が前提として要請するコンテキストつまり話し手、聞き手の関係です。一般的な意味でのパフォーマンスという行為もそのライブな聞き手と話し手の関係、コンテキストこそが重大なものとして考えられている。
けれど前者の「話す」つまりそのパフォーマンスとしてのライブ性は、ゆえにすでに指摘したように外的な枠としてのこのコンテキストにあらかじめ規定され、その関係を超えることは容易にはできない。それを崩すと、聞き手がルール違反だと怒りだすわけですね。一九六五年のニューポート・フォーク・フェスティバルでディランが観客たちにブーイングされたように、あるいは一九六六年、フィリピンでビートルズの一行がそうされたように。ところが本来、古代より芸能者たちが行ってきたものは後者の「語る」ほうのパフォーマンスだったはずでした。パフォーマンスはそこではじめて自身が属す、社会化された現実とは別にありえるだろう固有のコンテキスト、場をみずから提示できる。芸能者はその可能性に身を投じて見せる、つまり憑依することができる。
すなわち本来の「語り=騙り」のパフォーマンス性、別の場所への憑依、トランス可能性はレコードによってこそ復活し、そしてその特性を展開したコンセプトアルバムという装置によって成就されたのです。
一九六七年以降もロックのライブ興行は拡大する一方であり、観客とパフォーマーとの緊張関係、分裂は収拾がつかないものになっていきました。モントレー・ロックフェスティバル、ウッドストック、そして警備に雇った(なんと)ヘルス・エンジェルスが観客を殺すという、ストーンズの悪名高きオルタモントの悲劇を迎えることになる。こういう過程の中、ディランの親友でもあったブライアン・ジョーンズが死に、七十年にはジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリンと次々とこの世を去ります。その死の直接的原因は多くドラッグだったとしても、非対称的な関係を強制する「ライブ」パフォーマンスという虚構が与える過大なプレッシャー、ストレスが彼らの死に影響していたことはまちがいありません。
「 Blonde on Blonde」制作直後、ディランは一九六六年七月にモーターサイクル事故を起こし、首の骨を折る瀕死の重傷を負いました。しかしこのお陰でディランはモントレー・ロックフェスティバル に出ないですんだ。そして「John Wesley Harding」を完成させます。「John Wesley Harding」こそ、もっとも完成度の高いコンセプトアルバムだと僕は思います。このアルバムの構造は、レコード・ジャケットに印刷されたディラン自身による奇妙な話に示されている。(あえて、その粗筋を述べれば、──三人の王がFLANKという人物のところにやってきて、「Mr. Dylanの今度のアルバムは彼自身の歌しかないが、その秘密を解く鍵はFLANK、君がもっているんだ、だからそれで開けてくれ」とFLANKに頼む。すると二人の王の不自由だった身体は元通りになり、一人は金持ちになる。一方フランク自身は怪我をしたのではないかと、友が聞くと、フランクは"I don't believe so,"と答える。──という話です)。ディランがライナーノーツに、長大な詩とも散文ともつかない不思議なテキストをのせるのは「The Times They Are A-Changin' 」(「時代は変わる」1964)以来の慣例でした(ディランのこうした所作が他のミュージシャンたちに与えた影響は見逃せません)。
「John Wesley Harding」の制作と平行して、ディランは、ガートルード・スタインの影響も顕著な「Tarantula」という長編詩あるいは小説を執筆しています。ここには筋がない言葉の流れがあるだけです。だがここには確実に意味がある。言葉の奔流がそのつど形成される規則や連想に従って、その規則や連想が自ら破れ、溢れ出すまで続けられ、溢れることで次の方向、規則が発生し、そこへ言葉の流れは乗り移っていく。ここで意味とはこの言葉の流れ、その連続を貫くもの、つまりイメージ=情動そのものです。
「John Wesley Harding」はもはやロックでもフォークでもない。音楽でも文学でも映画でも美術でもなく、そのすべてである。つまりこのアルバムは古典としての芸術作品の特性をそのまま備えている。ひとことでいえば、このアルバムに詰まっているのは、規範そして法というものがどのように立ち現れ、その存在論的な矛盾によって、出来事を起こすか。という物語です。法のすべて。だからこれは王の物語であり、国のはじまりとおわり、ある土地(制度)の内側と外側の物語である。朝の逃亡からはじまって、夜の帰宅まで、移民、地主、漂流する者、すべてはこの法の内側と外側で起る事柄を物語っています。
なかでも僕がもっとも好きなのは「I Dreamed I Saw St.Augustine」(「聖アウグスチヌスの夢を見た」)でした。――夢のなかで彼はわたしたちと同じように息をし、そして惨めだった。~わたしは彼を殺した民衆のひとりだった。わたしは頭を垂れ泣いていた」。――この曲をはじめて聞いたのは中学いや発売から数年遅れて、確か高校の時でしたが、その後、この強力なイメージなしにアウグスチヌスを読めなくなった。とくに“Arise, arise,”(起きよ、起きよ),“he cried so loud, ”という声はいまでも耳に聞こえてくる。けれど、であれば「All Along the Watchtower」はなおさらです。これは同時期にフーコーが書いた「言葉と物」のエッセンス。その後の著作までも先取りし、圧縮しているとさえいいたくなる。無関係かも知れないけれど、後にフーコーをはじめて読んで以来、僕にはフーコーはこの曲に迫ろうとして、その著作を書いたのではないか、という思いが頭から離れません。
コンセプト とはなにか
「All Along the Watchtower」は六十年代の(通常六八年にピークを置く)思考をすべて集約している。これ一曲だけで六八年に何が明確になったかがはっきりわかる。この曲、そしてこのアルバムをもっときちっと理解していれば、デニス・ホッパーたちは彼らの映画「イージー・ライダー」(1969)をあんな終わり方(唐突な無駄死をし、そこに方丈記のようなバラードが流れる)にしなかったはずです。ディランがその筋に不快を示し参加を断ったのは当然だった。代わりにディランが「 It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)」の使用を許し、BYRDSのロジャー・マッギンに歌わせたのも適切すぎる選択でした。いや「イージー・ライダー」は 「 It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)」の歌詞通りに組み立てられている、細かく点検すれば、すべてのシーンがこの歌詞に対応しているのがよくわかるはずです。
コンセプチュアリズムというものは、既存の対象像=複数の記述体系、表現体系をひとつに束ねていたところの対象(その対象の像=イメージ)を破壊し、それらを交わらない並行状態にばらしてしまうことを、まず特徴とします。ここで賭け金はまず自分がもっとも自明としていた自分が立つ場、その存在根拠をまず捨ててしまうことです。それはガスリーにとっては「THIS LAND」だった。フーコーであれば、タブローとそれを呼ぶでしょう。同じ大地であると思っているが、そうではない。それらはその地で出会うようでいて、永遠に出会わない。そんな土地は、実はどこにもなかったとわかる、併置されているわけでも重なっているわけでもない、それは階層が異なる、決して交わらない別の土地なのです。
コンセプトアルバムは音楽だけで作られるわけではない。ジャケットのヴィジュアル表現があり、詩があり、そして事物としてのジャケットがある。このすべてが出会うところとして、それが生みだされただろう想像上の場所、生産地、故郷が構想、想像される。けれど、これらはすべて作品の効果として作り出されたフィクションです。が、むしろこの虚構を作ることで、われわれが現実と思っているこの世界も同様に作品効果として作られていたことを意識させる。「国がある」のも「空が青い」のも、そもそも「空がある」のさえ、もしかしたら夢であるかもしれない。それが確かに存在するという証明を言語によって示すことはできない。言葉にできるのは、それが青いとか曇っているとかの記述だけ。ゆえに反対にいえば、この条件であえて「それでも空がある」と断言するのは一種の政治的選択、賭けともなりうるわけです。コンセプトアルバムというのは、こういう断定を行なうのです。つまり、そのアルバムが選択した公理として「空がある」という断定が選ばれる。それはアルバム(一つの公理系)の外から見れば虚構でしょう。が、このアルバムの中ではabsolutely(断固として)空はある。
現代美術の文脈で、六十年代後期にコンセプチュアルアートというものが現れます。ジャスパー・ジョーンズあたりがその先駆とみなされていますがジョーンズの発想はもとより「All Along the Watchtower」と瓜二つでした。そして複数の表現系列を並列させることで、それを束ねていた概念像をぶれさせるという、コンセプチュアルアートの手法は、そもそもポップミュージックにおけるコンセプトアルバムの手法そのままだったということです。事実、リチャード・ハミルトンをはじめとするアーティストの多くがアルバム作りに関与していたわけですから。ちなみにディランは四十一年生まれですから、世代でいえばリチャード・セラやリチャード・タトル、ブルース・ナウマンと同じです。彼らがディランを意識していたのは当然でしょう。フランク・ザッパはディランがいたから現代音楽からポップミュージックへ転身した。
繰り返せば、コンセプトは閉じた完結した世界にあるのではない。両立しえない公理、命題を選ぶことで浮かびあがるものです。つまり複数の共立しえない世界を分ける境界線を引き直すことで現れる、その間にある断層、その間のズレていく運動、その線として現れる。この線の内側にも外側にコンセプトはありません。断固として、この断層線を描くという行為にこそ、コンセプトは現れる。
七十年代になってもディランは活動をやめることはなかったし、むしろ前以上に積極的に、ローリング・サンダー・レビューのような、全米を縦断する自力ツアーを行いました。 彼はこのツアー自体をアルバムに代わるコンセプト提示の方法、つまり別の公理系を提示し、別の運動を引き起こす、そういう新しい活動として組織した。ウッドストックのように(ユートピアであるどころか)場所を占拠するだけのコンサートではない、地滑り、稲妻のように異なる土地、異なる位相をすべり、そして転がり続けていくことに本質があった。
ここからさらに三十五年も時が流れている。初来日の武道館からだって三十年以上です。ディランはあまりにキャリアが長いので話はエンドレスになりますが、思考の型はおおよそ変わっていないといえるでしょう。ディランの思想が、ポジションを選ぶという意味での思想ではなく、むしろあらゆるポジションの間を通過し、すり抜けていく運動の型であったという意味で。むしろ思考に形を与える手がかりとしてありつづけたという点において、変わることはなかった。事実、僕にとってディランの音楽そして言葉はずっと、地滑りしつづける世界を飛びうつっていくための手がかり、ハーケンのようなものでした。もとより大地自体が、決して安定せず移動しつづけているわけですから、その上に生じる意味も位置も安定するはずはありません。が、そこに、いつも目印があった、ディランの活動は確かな目印でした。身体の構え、頭の方向、運動の起点となりうる合図。
『現代思想2010年5月臨時増刊号 特集=ボブ・ディラン』初出(初出時タイトルは『ディランの「思想=夢」を開ける』)
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