戦前の財閥って実際どれくらいお金持ちだったんでしょうか? その疑問からはじめて、長期的な観点から、日本の所得分配の平等/不平等の変化を検討して見ました。
はじめに
三井・三菱・住友・安田ほか、富士・大倉・浅野・古河・渋沢・野村・日産・日窒・理研などなど、戦前の日本には多くの財閥がありました。小さく括れば四大財閥、少し範囲を拡げれば十五大財閥、地方財閥までで入れれば数十ではきかないでしょう。
ここでは、戦前最大の財閥であった三井財閥を例にとって、その富の大きさの一端をビジュアルに例示しながら、回答をお示ししていこうと思います*。
ただ、このご回答をお示しする過程で、いずれにしろ、日本の所得格差を戦前と戦後で比較することが不可避になります。
したがって、このご回答は、長期時系列でみた、日本の所得分配の平等・不平等度の変化を見ていくことでもあることを予めおことわりしておきます。
なお、図表と太字を追っていただくと大意は理解していただけるように構成してありますので、飛ばし飛ばしでもおつきあいくだされば幸甚に存じます。
Ⅰ 戦前の超大金持ちのリッチさってどれくらいだったんだろう?
さて、この地図の中央部の長方形の区画、どこかご存じでしょうか? 地図は今からおよそ100年前のものです。
地図内に小さく記述がありますからお分かりの方も多いのではと思いますが、ここは、三井家のお屋敷でした**。
縮尺が載っていませんから大きさをご想像いただけないのが心苦しいのですが、現在の航空図でお示しすると、その大きさをご想像いただけるのではと思います。
現在では、そのもとの邸内には、中央に品川区立の戸越公園があり、その周囲には文庫の森、区立戸越体育館、区立戸越小学校、都立大崎高等学校などの文教施設が数多く含まれています。
また、そのすぐ南には東急大井町線が走っています。ここは、JR山手線でいうと品川駅の隣駅である大崎駅の郊外になると書くと、何となく位置関係をご理解いただけるかと思います。
そして、実際に戸越公園にお出かけになったことのある方は、実は三井家のお屋敷はあの公園の何倍もの大きさがあったと書くと、いかに三井のお屋敷が大きかったかをご推察いただけるものと思います。
戸越公園は1万8000 ㎡(約5500坪)ですから、三井のお屋敷は1万坪をはるかに超える大きさがあったことになります。
でも、この三井家のお屋敷、実は別宅なんです(むしろ押しつけ気味に買わされてます)。三井家の本宅ではありません。
「別宅? ああ、そうか、三田の綱島にある三井倶楽部が本宅なんだな」。
「ジョサイア・コンドルの設計の建物があるし、庭園がすばらしいし、何より見晴らしがいい」とお考えのあなた。たいへん優れた美意識をお持ちの方です。すばらしい。
私もかつて、三井系の企業に就職した女子学生の結婚式がここで執り行われ、しばらくこの広大な庭園を散策して楽しんだ覚えがあります。確かにすばらしい建物と造園ですよね。
でも、ここも本宅ではないんです。ここは三井家の迎賓館でした。
「別宅だけではなく、迎賓館まであったのか? じゃあ三井の本宅ってどこだったんだ?」というご疑問は当然です。
それは地図ならここにありました。当時の地名だと麻生区今井町、現在の港区六本木です。
そして、今はここには何があるのかというと、アメリカ大使館の大使館員用住宅です。
一等地にドド~~~ンとそびえている、しかし十分に敷地にゆとりのある、サイコロを組み合わせたようなユニークな建物をご存じの方も多いと思います。あそこに三井の本宅(通称 三井今井邸)がありました。
以上のように、別宅、迎賓館、本宅と見ていただいたことで、戦前期最大の財閥一族であった三井の総領家の財力の大きさをお示ししました。
なお、三井家はまだ邸宅跡がわりと残っている方なのです。ほかの財閥一族の邸宅跡で今は住宅地になっており、往事の面影すら偲べない状態になっているのは珍しいことではありません。
Ⅱ 長期的に見ると階層間所得格差はどのように変化したのか?
●戦前の日本は超格差社会だった
さて、三井家という戦前屈指のスーパーリッチファミリーの財力に象徴されるように、戦前の日本はたいへんな格差社会でした。
実際、ジニ係数をグラフ化してお目に掛けます。
20年以上もの作業の結果求められた戦前期のジニ係数は0.5を超える数値であり、しかも傾向的に上昇していました**。
そのジニ係数は――あえて国際比較を行うと――大土地所有者と彼ら以外の間に大きな所得格差があることに知られるブラジルや、少数の人びとが豊富な地下資源を握っている、世界で最も貧富の格差の大きい国 ナミビアに匹敵する高さでした。
当時もこうした大きな格差――むろんジニ係数が分かっていたわけではないので当時の人びとの「体感的な格差」ですが――には社会的関心が強かったようで、実際、「富者と貧者がどれくらいいるのか」「どれくらいの世帯所得があると標準的なのか」などについて、ラフな推計が行われていました***。これに、昭和戦前期のサラリーマンの夢であった「月給百円」という事実を組み合わせて****、屋上屋を重ねる推計をおこなった結果を、ご参考程度にしかならないのですが、以下にお示しします。
これによると、推計がラフなものなので、かなり限定的にならざるをえませんが、おおよそ以下の点は指摘できるでしょう。
(1)最も上級ランクの「上流階級の富者」の世帯年収は2万円以上ですが、この層は、当時の東京市(現在の23区にほぼ相当)には400世帯ほどしかいませんでした(1930年の東京市の全世帯は41万4000世帯ほどです)。比率だと0.1%にすぎません。
(2)つぎに、「これくらいはほしいという夢」というか「当時の標準的」とみなされていた日本標準にある世帯ですら、5500世帯(1.3%)しかいませんでした。そして、もう少しで1200円に届く層が4500世帯(1.1%)ほどいますから、標準的およびややその下の階層にいた世帯は合計でもやっと1万世帯(2.4%)ほどにすぎませんでした。
(3)一方、下流階級に属する世帯年収400円未満世帯は東京市の全世帯の97%を占めるほどぶ厚い層を形成していました。
確かに、こうした所得階層分布だと、最下層の人びとから見れば、「最上級富者」である財閥家族の富の大きさはまさに「殿上人」のそれであったことになりますね。
昭和戦前期の社会が、近現代史の中でも、とくに不安定化したのも無理からぬところです。
●財閥家族の富の蓄積の到達点
彼らの富の蓄積は戦前にどれほどのレベルに達していたのでしょうか? それが分かる数値があります。
ご存じのように、終戦後、財閥解体が行われました。それに際して事前調査が行われて、その数値が残っているので、彼らの富の蓄積の到達点が分かるのです。
財閥解体の際、財閥家族として指定された人は56名でした。彼らが差配する財閥本社が所有していた株式数はおよそ1億6700万株でしたが、これは当時の国内の総株式のほぼ40%に相当しました。
「わずか数十人で日本の発行済株式の40%を握る」。これが戦前の財閥の富の蓄積の到達点だったわけです***。
●峻烈に行われた財閥解体
ご存じのとおり、財閥は解体されました。
その結果、彼らの持株数は、1億6700万株から200万株へとほぼ完全に没収され、売却されました。
それにくわえて彼らを待っていたのは公職追放であり、事実上の財産没収税の適用でした。
Ⅲ 戦後日本は大幅に平等な社会になった
財閥解体と、今回の投稿では触れませんが、農地改革と労働民主化で、日本にいた「最上級富者」は姿を消しました。その結果、戦後の日本に訪れたのは、大きく所得格差の縮小した社会でした。戦前と戦後のジニ係数を繋ぐと以下のようなグラフになります。
ジニ係数はやっかいな数値で、依拠する資料によって大きく数値が異なるという困った性質があります。
近年においては「格差拡大が進んでいる」という認識が広がり、そういった研究もありますが、それは短期で見た場合のことです。近年の動向も重要であることは、私も十分に認識しております。ただし、近年の格差の動向については、別稿を期させていただきたいと思います。
私が今回お示ししたのは、100年ほどの期間でみると、戦後日本は大きく所得配分の平等化した社会になったという事実です。
現代日本は戦前に比べて大きく平等化しており、これが大衆消費社会を招来しました。「一億総中流化」などと否定的な意味合いで語られる事態は、実は世界的に見れば稀有な例です。中国や韓国の例を持ち出すまでもなく、中間層が薄く(つまり内需が小さく)、それが経済発展の足枷になっている国も多いのに。
長文におつきあいくださいまして、ありがとうございました。
------------------------------
【註記】
* なお、現在では、日本において、グループ系企業というものは存在しますが、財閥自体は、財閥本社にあたる持株会社が存在しないため、消滅していますし、制度的に復活もできません。
財閥は過度経済力集中排除法によって解体が行われ、また、独占禁止法によって持株会社の設立や既存会社の持株会社化が禁止されました。それゆえ、実質的に、現在は、戦前の財閥に相当するものはありませんし、復活もできません。
ただし、その後、金融ビッグバンの一環でとして、1997年に、企業連合体の安定化を図る目的で、純粋持株会社が解禁されましたが、これとても戦前の財閥復活の手段になるわけではありません。
** 地図は明治40年ごろの実測地図を復元したものです。『江戸明治東京重ね地図』(エーピーピーカンパニー、2009年)より抜粋。以下同様の地図についても同じ出典です。
*** Google Earth の航空図に、投稿者が、おおまかに旧三井邸のあった場所に水色で線を引いています。
** 南亮進『日本の経済発展と所得分布』(岩波書店、1996年);ここに採録されているジニ係数は、戸数割という地方税のデータを長年にわたって丹念に集めて計算したものです。
*** 森本厚吉『生存より生活へ』(文化生活研究会出版部、1923年)がその代表例でしょう。
** 岩瀬 彰『「月給百円」のサラリーマン――戦前日本の「平和」な生活――』(講談社現代新書、2006年)を参照しました。
*** 日本の財閥には「総有」という概念があって、持ってはいても好き勝手に個人が使えるという類いの富ではありませんでした。この点については、財閥研究の泰斗である安岡重明教授の『財閥形成史の研究 増補版』(ミネルバ書房、1998年)を参照しました。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?