弱聴の逃亡日記「夜旅の瞑想」

  11月27日 旅5日目

 温泉施設で疲れを癒した弱聴は、今夜は野宿せず夜通し歩こうと決めていた。 
 風呂から上がると、施設内の座敷で食事し、閉店ギリギリまで仮眠をとって温泉施設を出た。
 時刻は深夜二時。夜の宇都宮の街へ出る。

 夜の宇都宮の街は店のネオンやLEⅮ看板がカラフルで視界は賑やかだが、辺りは静かでそのギャップが幻想的だった。

 温泉に入り仮眠もとった後なので、体が軽い。足がスッスッと前に進む。こんなに気持ちよく楽に歩けたのはおそらく出発直後以来だろう。
 どんどん宇都宮の中心部から離れ、ビル街から住宅街、工業地帯、山道と景色が次々と変わっていく。

 夜道を歩くのは楽しかった。暗く人気のない道を歩いていると、自分だけがこの景色や空気を味わっている優越感に浸れる。静まり返る町も、真っ暗な山道も、昼間とは違った雰囲気があり魅力的だ。

 田んぼが広がる平野は特に良かった。
 周りに明かりが無いので、たくさんの星が見られた。おまけに視界を遮る建物も無い。星空の大パノラマを独り占めするなんて、もうこんな機会は一生無いだろう。弱聴はこの星空をしっかり脳裏に焼き付けた。

 静かな夜道を歩くのは瞑想に耽るのにうってつけだ。そう思ったのが後か先か、弱聴はいつの間にか旅に出る前のあの苦汁の生活を振り返っていた。

 私があんな風になったのは、つまり食べては吐いてのいわゆる過食症になったのは、きっと体調不良だけが原因ではないのだろう。

 入社したての頃は仕事を覚えるのに必死で、毎日が緊張の連続だった。周りが見えなくなるほど集中して、それでも出来ないことが沢山あって、悔しい思いもしてきた。だからこそ褒められた時の喜びも大きくて、早く一人前になろうと励んでいた。
 人並に仕事が出来るようになって、今度は新しいことを覚えるのが楽しくなった。暇な時間を見つけては自主研修に勤しんだ。自分で得た知識が仕事でそのまま活かせたり、先輩に教わることで縦関係が築けたり、やってみたかった仕事を任されるようになったりと、どんどん仕事が楽しくなった。

 暗雲が漂うようになったのは、すっかり仕事にも慣れ、会社の内部事情もある程度分かるようになった頃だ。
 人員不足のため、私はやりたい仕事を減らされ、別の仕事に入ることが多くなった。不満ではあったが、内部事情が見えてきてシフトを作る上司の苦労が分かるようになったこともあり、文句も言い出せなかった。
 その後も雇用改正などでさらに人が減り、見る見るうちに仕事の比率が変わり、やりたい仕事に入れるのは一か月に一日有るか無いかというほど減らされた。
 それまで身に着けたスキルは使う機会がほとんど無くなり、自主研修をする時間も激減した。自ずと仕事への意識も低くなっていった。
 やりがいを感じていたはずなのに、いつしか仕事が楽しいと思えなくなり、ひたすら耐え忍ぶ時間になっていった。

 そこに追い打ちをかけるように二交代制が始まった。勤務時間は減ったが仕事量は変わらない。スピードが要求されるようになり、毎日が時間との戦いになった。
 社内では雇用改正と勤務改正が立て続いたこともあり、社員からは不平不満の声が上がり、上司はそれを抑え込むように圧を掛けるという良くない雰囲気に包まれた。
 私は波風を立てないよう、先輩や同僚と陰で愚痴を吐き、上司の前では誠実で理解のある社員を装った。

時間に追われるように仕事して、
それでも特にやりがいや達成感はなく――。
時間が空けば誰かと愚痴をこぼして、
上司とすれ違えば笑顔で「はいはい」と耳タコの話を聞く――。

 そんな日々の中でめまいや頭痛、動悸といった症状が出始めた。
 生活習慣も乱れてはいたが、あながちそれだけが原因とも言い切れないだろう。精神的なストレスも相当感じていた。

 症状をもとにネットで調べてみたところ、自律神経失調症という病名にたどり着いた。
 弱聴は、悩んだ。病院に行くべきか…。
 行くなら精神科か心療内科に診てもらうことになる。
 その二つの科にはどうしても抵抗を感じてしまう。出口の見えないトンネルに入るような不安と、世間一般が抱いている負のイメージがつきまとう。

 結局、病院には行かないことにした。その代わり上司に症状を伝え、休みを貰えないか、あるいはシフトを考慮してもらえないか相談してみることにした。
 上司は親身に話を聞いてくれ、私が切り出す前に「休むか?」と静養を提案してくれた。
 しかし、いざそう聞かれると「いえ、働きます」と応えている自分がいた。

「周りに迷惑を掛けたくないから」と言ったが、あれは嘘だ。
 本当は怖かったのだ。静養を取った私を先輩や同僚はどう思うか。休んでいる間に自分の居場所が無くなるのではないか。復帰後、何のわだかまりも無く働けるだろうか。

結局私は、周りの目が怖くて病院にも行けず、静養も取れず、自ら進んで苦悩の日々に戻った。

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