弱聴の逃亡日記「過食症になった理由」
周りの目がある時は元気で健康なフリが出来たが、一人になるとそうは行かない。空虚感に襲われ、いつも同じ疑問が何度も何度も繰り返された。
何の為に働いているのだろう?
どうしてこんなに頑張るのだろう?
自分が招いた結果なのに、どうして理不尽だと感じるのだろう?
生きるってこんなに辛いものなのだろうか?
少し前まではあんなに楽しかったのに。
この辛い日々はいつまで続くのだろう。
出口はあるのだろうか?
そんな折、私は尊敬する養老孟子先生の本を読んだ。その本にこんな言葉があった。
「都会は機械だけで機能できる。人は人件費と見ている」
人は人件費
その言葉を見た瞬間、電気ショックを受けたような、はたまたずっと探していた物が意外なところからポロっと出てきたような、そんな感覚に陥った。
頭の中をぐるぐる巡っていた疑問符の全てが、この一言で一蹴されたのだ。
これだったのか。私の探していた答えは。
作者の意図とは全く的外れの解釈をしている。そう分かってはいたが、修正できなかった。その言葉が私の抱いていた不満や疑問にあまりにもピッタリとハマったから。まるでパズルのピースみたいに。
そのパズルのピースは期待していた希望の色ではなく絶望の色であったが、だからこそ不条理な日々の答えとしてピッタリはまったのかもしれない。
私は、こう解釈した。
人は人件費。働いた分だけお金がもらえる。
人は人件費。誰がどんな能力を発揮して、誰がどんな活躍をしているか
そういうのは関係ない。
人は人件費。皆同じ単価の決まったコマ。
人は人件費。そうか、私はお金なんだ。
私はお金。体の不調とか関係ない。だってお金に調子いい悪いなんて無いのだから。
私はお金。仕事のやりがいとか意義とか、不満とか不安とか、必要ない。
だって私はお金だから。お金に感情は無いのだから。
次の日から私は家を出た瞬間からお金になることに徹した。そうすれば無心で仕事が出来た。思うようにいかなくてイライラすることも、周りの人の言葉に振り回されて一喜一憂することも無くなった。
めまいや頭痛があっても気にしなくなった。一人になった時の空虚感も少しは軽くなった。
それと同時に仕事のスキルアップも、より良い未来も望まなくなった。
大好きで毎日聴いていた音楽も聴かなくなった。
「私はお金」と言い聞かせて働くようなになったある日、会社帰りに食料の買い出しをしていて、ふと思った。
さっきまで会社にいてお金になっていた自分が、今はお金を使って買い物をしている。お金だった自分が生活していくためにお金を使っている。
「何だよ、これ。これじゃまるで自分が生きるために自分を食う怪物みたいじゃないか」
自分が自分を蝕んでいく――何のために?――生きるために…?
そこで何か歯止めのようなものがプツンと切れた音がした。
何かに憑りつかれたかのようにパンや菓子、カップラーメンなどを次々と買い物かごに入れていく。会計はいくらだったか…。レジを通す時の「ピッピッ」という音と、手に持っていた財布がやけに他人行儀だったのは鮮明に覚えている。
次の日から毎日のようにスーパーに寄っては大量に食料を買うようになった。
別に好きなわけでも食べたいわけでも無い。ただ、お金の自分がお金を使っているのが可笑しかった。そして、お金の自分がお金を支払って得た食べ物だから、全て自分の体に取り込まなければという使命感が生まれた。
目の前に大量の食べ物を並べ、手や口元が汚れるのも構わず、ひっきりなしに口に物を詰め込む。
その姿は正に怪物。
味や見た目は関係ない。腹に入れば何でもいい。今感じている空虚感や脱力感は空腹からくるものなんだ。満たされない感覚が無くなるまで胃をいっぱいにしなければ…。
しかし満腹感は一向にやってこない。ただ目の前に空っぽになった器やゴミが増えていくだけ。
そしてお決まりの儀式。便器の前に跪き、胃に詰め込んだものを吐き出す。胃を空にし、爽快感と心地よい睡眠を誘発する、欠かせない儀式。
そうやって私は過食症になってしまった。
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