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2022年7月後半

あれこれ考えながら、暑さに生活や身体を馴らしてきた時期。
最近は1日予定を考えるとき、気温や天気を考慮して決めている。
感染者数は増加し、一旦落ち着いていた医療現場がひっ迫。
なんとか穀物第一陣は出航したが、東欧での戦争は終わりそうにない。
日本の日常生活は、何となく抑え込まれたような感覚がある。
それでも夏。場所によってはマスクを外し、生活を取り戻そう!

20220716 Sat.

比較的涼しくて助かるなぁと感じる午後。夜24度。
 
曇っている日は、夕方まで待たずに出かけることができるが、暑い日は、午後になっても外へ出る気がしない。東南アジア以上に亜熱帯気候の暑さ・湿度だし、スコールは無いから気温が下がるタイミングがない。これでは身体が休まるときがない。疲労を蓄積させたくないので、夕日がかげるころから外に出たい。涼しい風が吹いてくれると有難いなぁ。
 
風は、気圧・天気によって発生する大気の流れで、目に見えない。人間は、雲の流れ、髪の毛や皮膚に直接当たる流れ、木々の動きなどで風を感じる。風は人間が意図的にコントロールするものではないけれど、同じ大気の流れがあったとき、そこに木があるかないかで、空気の温度・湿度が変わる。そこは人間がある程度工夫できるところだ。

歩道の片側がビルの日陰になっているなら、日陰側を通りたい。もし並木があるなら、並木の木陰を歩きたくなる。木々は地温の高まりを抑え、木々のフィトンチッドで空気を清浄化してくれて心地よい。
ただでさえコンクリートばかりのヒートアイランド化しているのだから、"緑は減らすより増やす”、”大きな木は基本そのままで、新しい場所に若木を植える"

歩道に木が植えてあるほっとする場所
これはマンション建蔽率のため緑地確保の一貫

どう考えても、都会は木が必要だ。


明治神宮外苑の再開発計画について

 明治神宮外苑の再開発計画 老朽化した神宮球場、秩父宮ラグビー場を建て替えて場所を入れ替え。さらにオフィスや商業施設が入る高さ190メートル、185メートル、80メートルのビルなども建設する計画。ビルの建設に合わせて面積約3.4ヘクタール分が公園区域から解除される。青山通りから約300メートル続くイチョウ並木は保存。2022年度中に着工予定で、36年の工事完了を見込む。

東京新聞Web

まだ解決はしていないが、3月以降注目されて良い兆しも見えてきた。
・都民の7割以上が反対(東京新聞)
・ICOMOS国内委員会 提言2/7・提案4/26
・新建築家技術者集団 東京支部 見解と提案7/20
・日本学術会議 提言2017年 2/3 ・・・オリンピック前に出された提言

https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t239-1.pdf?1659449167924

日本学術会議が提案した2017年の内容をみると、神宮再開発はオリンピック開催のための国立競技場建設のときから始まっている。この頃から関係者はいろいろな目論見もくろみを持って動いてきたのだろう。その分、複雑な話になっている。

2021年、山形県羽黒山はぐろさんに風力発電の風車を何機も立てる話が出たときは、SNS上で話題になり、関係する会社へ思いとどまるよう沢山のメールが送られ、ものの2週間で地域全体で解決の方向へ向かった。反対する理由は、羽黒山の鳥居とりいと山の景観を保ちたい、水脈・植生・生態への悪影響を回避したい、それらを含むご神体しんたいの重要性を守りたい、などが主要ポイントだった。

あれは見事だった。コロナの初期だったから、みんなSNSに敏感になっていたことも功を奏した。何より、効果的な投げかけや意見が、全国から集まったことが良かった。そして地域に羽黒山の山伏やまぶしがいたことが大きい。

神宮の森の場合は、ここを愛する人・普段使っている人・文化的価値を大切にしたい人など大勢の人々の願いが中心にある。過去の流れからではなく、30年後、100年後に何を伝えるのかという視点で、いま考え直すチャンス。

20220717 Sun.

7/8起きた銃撃事件について、報道から色々なことが頭をよぎる。

銃撃事件や山上犯人に関する報道は、日本のメディアは銃の作り方や、要人警護の話に終始している。目先のことしか見ていないし、部分しか見ていないと歯がゆく思う。報道されていることがすべてではないと信じたい。この事件を真摯に受けとめた対応があると信じたい。

山上犯人が行った罪を社会が肩代わりする必要はないが、彼にその行為しかないと思わせた社会に一定の要因があるのではないかと思う。彼の成育歴や家族、宗教団体まで広げて考察されているが、さらに広げて、"宗教団体を含む社会" という構図のなかで発生した事件を捉えることに意味があるのではないか。そこまで考えたのち社会は人との関わり方を少し変えることになるのではないか。
 
2011年 東北の地震のとき、
助け合いをした。都心でも声かけあい、アイコンタクトがあった。
2020年 コロナが始まったころ、
近所のご老人宅のこと、医療関係者、をおもんばかっていた。
それらは社会としての機能だと思う。
 
社会としての機能、それはハッキリと目に見えるものではないが人をお互いに支えるもの。その力を日本は軽く見すぎている。その結果、社会機能不全によるしっぺ返しを受けている。そのマイナス面を社会機能不全だと捉えていないから、しっぺ返しを何度も繰り返し、都度、社会の劣化を加速させているように見える。

うまくいっているときは気にかけないが、ひとたび損なわれると甚大なマイナスが出る、そういうタイプの機能。人間の骨格のような、インナーマッスルのような機能。



以下はドイツ新聞2紙からの転載。
社会的機能の観点も含まれるが、それ以外に様々な論点が論じられている。これらを一挙に解決することはできないが、いくつもの要因があることを踏まえて、個人の努力を越えた部分で負担を強いられてしまう社会構造があることを認めて、おもんばかって個人に接することが社会のやさしさではないだろうか。社会のやさしさ=ひとりひとりが隣人に示す人間味ある関わりが必要なのではないか。そのうえで、仕組みとしてセーフティネットが必要だ。孤立化しすぎた社会に決定的に欠けているものだと思う。

こういう水準の議論が日常的に交わされる国と、社会が示すバイタルサインを無視し続ける国では、特に今のような危機の時代に対するレジリエンスが大きく変わってくることは明白。

1.南ドイツ新聞
「絶望的な状況に陥った人が、復讐のために刃物で人を殺傷したり放火したりする事件がここ最近多発しているが、その理由は公の場で議論されていない」「日本の集団社会は全員が自分の責務を果たすことで社会全体が機能するもので、比較的スムーズに生活できる。ところが、日本の多くの人は、実は集団社会のためになる営みのみに関心があり、社会的な議論、マイノリティ、自分の身の回りの人などには関心がない。そのため、人と違ったり、成功できなかったり、ルールやヒエラルキーに適応できない人は、このシステムのなかでは急速に、かなり孤独な状態に陥ってしまう」「そして、政治もこの問題の解決のためにほとんど動いていない。自民党が率いる与党は伝統的に、社会問題や分断をほとんど気にかけていない。そのため、社会的な冷たさが生じ、生きる意味を見失ってしまう人が少なからず出てくるし、そのなかから危険な思想を持つ人が出てくることもある」「政府は安倍元首相の殺害を機に自国民のことを省みるべき。それは、国民が何を求めているのかを見極めるということだ。そしてこれは、国際社会と付き合う際にも同様だ。自民党政権は長年、第二次世界大戦において日本が侵略者の役割を果たしたことを総括しようという印象を与えてこなかった。本当に憲法改正を行うならば、こうした姿勢を改めなければ、近隣諸国を挑発することになってしまう」

2.シュピーゲル誌
「安倍元首相が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の宗派にビデオメッセージを送っていたことには、日本の民主主義の構造的な問題が垣間見られる」「日本では政治家は主に業界団体や宗教などの強力な組織に支えられており、そうした組織が支持者をまとめて動員することもよくある。その一方で、有権者ひとりひとりのことや、その関心事は、あまり真剣に受け止められていない」「今回の参議院議員選挙の投票率も52.05%という過去4番目の低さであった。そのため、日本の民主主義が機能しているのかという深刻な問いも投げかけられている」「日本が一度も憲法を変えなかったのは、皮肉にもその憲法に一番反対していた安倍元首相のせいでもある。安倍元首相はその強硬姿勢ゆえに、民主主義を逆手に取ってかつての大日本帝国のような権威主義的な体制に置き換えようとするのではないかと疑われ、そこには戦時内閣で軍備を担当していた祖父の岸信介の影もちらついていた」「現首相の岸田には、そのような心配はない。岸田の選挙区は被爆地の広島であるし、伝統的に経済成長を重視し、軍備拡張には力を入れない党内の穏健派に属しているからだ。」「ところが、よりによってこの岸田こそが、安倍の遺志を実行に移せるようになった。それは、安倍の死によって党内の保守的な最大派閥がリーダー不在の状態になったことと関係する。岸田はリベラルだが安倍の支持者に配慮しなければならない。憲法改正は、岸田が強硬派を制御するためのいわばイデオロギー的な鎮静剤となる」「しかし同時に、今回の選挙での勝利が必ず憲法改正につながるわけではない。国会での草案の合意の後に、国民投票が行われなければならない。それまでに1年か2年、あるいはそれ以上の時間がかかる。そのときに、世界第3の経済大国の雰囲気がどうなっているかは、誰にもわからない」「日本はほかのどの先進国よりも高齢化が劇的に進んでいる。賃金や給料は何十年も停滞している。ますます長く働かなくてはならなくなっている。それに、膨らむ社会的支出を賄うために、国の総生産の260%以上の借金を背負うことになった。そして物価の上昇とインフレ抑制手段も欠如している。「特に、インフレの抑制手段の欠如に関しては、いわゆる「アベノミクス」のツケが回った結果だ。アベノミクスにおける中央銀行による国債の買い上げで、株式市場は人為的に押し上げられた。しかしインフレに直面したことで、日本は窮地に立たされている。もしアメリカの連邦準備制度にならって金利を上げれば、国の借金返済のコストも自動的に上がる。そして、通貨価値の下落を恐れて投資家は日本円から逃避している。そのため、すでに専門家はハイパーインフレの警告を発している。」「岸田は、安倍から引き継いだこのような経済的な負い目については認識しており、「新しい資本主義」への転換を約束した。しかしその具体的な意味についてはまだ説明されていないし、岸田が国会でいつも発するのはお気に入りの「検討する」という言葉だけだ」「喪に服す期間が過ぎたら、亡くなった元首相の亡霊から自分自身と国を解放できるのか、岸田は示さなければならない」。

政治・経済・産業の目指す方向性。具体策に乏しいだけでなく、理念が欠けてしまっている。理念がないから方向性・具体策が出ないともいえるのでは?
社会的機能については、昭和40年代くらいまで育った神奈川県では、見聞きした風景のなかに、それなりに気遣ってそれとなく援助する人がいた。地方ではもう少し長く、そういう人がいたかもしれない。そのような余裕というか、のりしろが無く、核家族化・孤立化が進みすぎているのではないか。昔のように地域や近所が行動のしばりになることは避けたいけれど、人への気遣いもなくなってしまった。縛りと気遣い。ここを使い分ける智恵がいま必要なのではないか。他に何があるだろう? 

20220718 Mon.

知人ご夫妻のリサイタルへ。
炎天下、15時開演を目指して西永福駅から歩くこと15分。汗と湿気と日射でへばりました。面白い、住宅地のとある民家、半地下の防音室がリサイタル会場として使われている。

< Aya Matsudaさん バイオリン演奏会 ピアノ伴奏 向田成人さん>

ブダペスト在住のお二人。以前、知人から誘われて向田さんのピアノを聴かせてもらい、素敵なピアノだなと2,3度聴いてきた。今回は昨年ご結婚後初のデュエット。
(プログラム)
  Bach 無伴奏ヴァイオリンソナタ BWV1001 アダージョ、フーガ
  Brahms ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 第2番 A-dur 作品100
  Beethoven ヴァイオリン協奏曲 D-dur 作品61
(アンコール)
  Piazzolla ボルデル1900  / Violentango  (2曲)

ソリストAyaさんは高い技術をお持ちでソロで聞かせる・・・
協奏曲ではそれぞれの”らしさ”代わる代わるに出てくる感じ・・・
最後のピアソラからはpassionateなご夫婦らしさが溢れる・・・

いや~、二人の培ってきた音楽がそれぞれに鳴り、徐々に重なり合ってお二人の音楽が生み出されていく場面に出会ったかのよう。
 
ブダペストに留学したのちそのまま在住し、現地での音楽活動や最近音楽学校での先生として仕事も始まった様子。日本に年に数回帰国し、その都度、東京・地元などで演奏会をしている。ソロだけでなく、チェロとピアノ、ピアノ連弾、バイオリンとピアノなど。こういうキャリアの伸ばし方もあるのだなぁ。

音楽家としての骨格は留学およびその後も先生との間で研鑽し、もちろんこの3年近くの間は演奏会も開けないし日本にも来られない苦しい期間が続いたけれど。演奏は尻上がりに聴きごたえが増した感じだった。

ブダペストで生活しているわけだから、湿気の多い日本に来て、バイオリンも人間も調整が大変だっただろうな。
 
そういえば午前中に、映画『パレスチナのピアニスト』を観たので、今日はいい演奏を聴いた一日になった。この映画は、パレスチナのラマッラから国境を越えてイスラエルのエルサレムへレッスンに通うピアニスト モハメド・“ミシャ”・アーシェイクのドキュメンタリー。
 

20220719 Tue.

夕方、銀座で待ち合わせして4人会食。
銀座で会食なんて何年ぶりだろう。感染数増加を意識して、あえて大型百貨店の広いレストランスペース内にあるトラットリアでお手頃なイタリアン。

スマホを忘れて家を出たことに気づいたが、まあ大丈夫だろうとそのまま銀座へ到着した。そのことを話したら、スマホを持たずに来るとはかなりの勇気だと評されてしまった。無責任ではあるかと思うが、待ち合わせした一人がかなり確実に来てくれそうだったので大丈夫だと踏んだのだが。。。非常識に近いらしい。
 
ピザやチーズをつまみながら、最近の自分たちの動向、日本の話、世界の話など縦横無尽じゅうおうむじんに話が展開した。場所は広く開放的で空調がきいており、この時期、ありがたい場所。心地よい時間だった。
 
お会計しようとしたら、持ち合わせが想定より5000円少なかった・・・あら。。。カードで代表して払い、3人がまとめた紙幣を受け取って、皆で店を出た。
 
ふたりはまだ飲み足りない・食べたりない・話足りないらしく、2軒目へ。
 
家に帰りお財布を開けてマズッと思った。想定より多く受け取ってしまっていた。これでは私が一番少ない出費になってしまう。ああ、そうだ、私は割り勘や驕りなど会計が苦手なのだった。料理のとりわけは褒めてもらうんだけどなぁ。
恥ずかしながら、今度お会いするときに返金しよう。
 

20220720 Wed.

朝から暑い1日。ここ数日涼しい日が続いていたので、再び35度を目指すような熱気に構えてしまう。
 
まさに、まさに。
社会の現実はこの記述通り、という文章に読書会で出会った。

発達過程における理解は、民主的国家の合理的構造が、下位ホロンに寛容でありながら、教会と国家の分離を通じて、下位ホロンがもつ世界観を除去することだった。分離され国家・軍事的な手段を通じた拡大力は奪われたが、原理主義的な方向へ扇動することは妨害されていない。

『進化の構造1』ケン・ウィルバー

この記述では、上位ホロンとして合理的判断・客観的事実の尊重があり、下位ホロンとして教義・宗教・ルールなどの盲目的従属を位置づけている。

アメリカは合理的判断・客観的事実に基づいて運営されるが、一方で教会の力は強く、最近では中絶法が取りざたされていた(下位ホロンの世界観)。
日本では戦前(第二次世界大戦以前)のしがらみを解いてきた1970年代までがあり、1980年代あたりからかなり囚われなく、家柄や教養や常識といったものから以前より自由になり、合理的で論理的に社会や組織が運営されることが増えてきた。一方で、1980年代には統一教会が勢力を広げ、1990年代半ばにはオウム真理教事件があり、人々の不安に付け込んでいた。そして最近の事件から政治と宗教(統一教会、創価学会、日本会議など)が長年深い関わりを持ち続けていたことが明るみに出た。
 
大きな流れは確かに “分離され国家・軍事的な手段を通じた拡大力は奪われたが、原理主義的な方向へ扇動することは続いて” いる。
 
ウクライナが民主主義的でSNSを使い世界の共感を得る一方で、強い民族主義や根深い汚職がある現実も、同じ構図だと言えそうだ。
 

20220721 Thu.

古武術の歩き方ワークショップ。
北鎌倉駅から源氏山公園まで、切通しのワイルドな道もあるハイキングコースを、古武術の身体の使い方を井上欣也さんという方に教えてもらいながら歩いた。

歩くことは好きだが、私にとって少しきついコース、例えば、段差が大きい岩場などで膝が痛くなったり、太もも前面の筋肉痛が翌日残る。うまく歩く人は、サクサクと当たり前のように歩いて速い。私は大きな段差があるとペースが落ち、苦手意識のある下りは特にノロノロ歩くことになる。これをもう少し何とかしたいと思って参加した。

以下、教えて貰ったこと4つ。

1)膝を支点にしないで、腰を落として股関節を使う
少し腰を落とした能のすり足のように。
そうすると、重心を左右に揺らしながら、力を下へ下へと押すのではなく、重心を揺らさずに、踏み込んだ時に地面からの反発力を感じて、その力を推進力としてスイスイ歩けるようになる。

2)重心を肚のあたり、もしくは腸から胃のあたりに置く
これは1)の結果でもあり、足をどこから動かすかという意識の結果でもある。体幹を使うという状態をつくる。

3)脇を締める
肘を体幹へ寄せる。そのときに手のひらを前へ向けた位置で肘を寄せると、胸が開き、かつ背筋の下の方(広背筋)が締まる。これも体幹を使うことになる。

4)目線や意識を、普段のより2-3cm高く置く
背筋や首を少し伸ばすような感覚で、肩から下が自由に動きやすくなる。でも無理に力んで伸ばすのではなく、意識するという感じ。頭頂を引っ張られるという感覚。

講師の井上さんは、身体の使い方はひとつの正解があるわけでなく、個人差があるため、実際にやって、身体に馴染ませるようにしてくださいとのことを強調していた。聴いた説明・意味することと、自分の身体を動かしたときの感覚を確認して、微調整しながら 実践していくとよいそうだ。

帰り道、1)~4)を意識して横浜駅の20-30段ある階段を下りてみた。いつもより軽い足取りになり、ワクワクした。引き続き日常でやってみよう。今度長野へいくときにも実践しよう。


二日遅れで、羽生結弦選手のプロ転向会見を視聴。
常に謙虚で、常に努力し続ける。高みに向かい続けるイカロスのような人。でも羽が溶けるようなことはせず、自分の心を大切にすることも、今後、より大事にしていくとの話。
 
この人がすごいのは「羽生結弦」を客体化していること。彼を最高にするために、自分は惜しみなく工夫と努力をすると。その客体化した状態かつ当事者としてインタビューに答えるものだから、甘えや他者への転嫁がなく清々しい。
 
昔は宗教や、偉人伝などが道徳的なあり方として生き方のお手本を示す役割をしていたが、その古臭さや現代にフィットしない感覚から遠ざけられ、それに代わるものがない。
 
人の在り方としての理想を見せてくれて、多くの人にとって光を与えてくれている。彼自身はそんなことは考えてもいないだろうけれど、いま現在を生きる人にとって、道しるべだったり、遠くの北極星のような役割を彼の生きる姿が果たしているように感じた。スケーティングの魅力以上のメッセージを彼はもたらしているのではないだろうか。
 
これまで追ってこなかったので、遅ればせながら彼の一旦に触れた。
スケートファンはどのようにこの会見を観たのだろうか。惚れ惚れして、これからのプロスケーターとしての活躍を応援したくなっただろうな。終わりではなく新しい始まり。

羽生選手の論文。これも読み合せると、決断に至った背景がよりわかるような気がする。『無線・慣性センサー式モーションキャプチャシステムのフィギュアスケートでの利活用に関するフィージビリティスタディ』


20220722 Fri.

ゆうべの読書会。
3人の対話から気づきが生まれて嬉しくなった。
 
「理性だけを発揮したときに、何か物事がおかしいことになっていく」
 
 例)サイコパス、超頭がよいが非人間的なことを躊躇なくやれる
   理屈で決断したが肚落ちしないまま行うと|大概<たいがい>失敗する

 
何かおかしい、間違っていると思うのだけれど、サイコパス的人間と出会ったときに感じる "してやられる感" が気持ち悪い。
知能が高いこと・理性に徹していることが「正しい」と思ってしまう認知が、記憶のどこかにこびりついているからだろうか。「なんか居心地悪い」「間違っている」と思うのに、理性的には「優れている」「正しい」と思ってしまう脳内変換がおきている。
 
つまり、
理性だけ使おうとすることが、そもそもの偏りである。人間には感情があり、体感があり、さまざまなことを知覚しているのに、それを脇へ置いて理性だけ使うことは不自然で、何かバランスの悪い判断につながってしまう。それは理性を適切に使えていないといえる。
理性を適切に使うためには、感情も体感も使う必要がある。
 
脳だけを使っている人間はいないだろう、心臓も腸も目も耳も動いている。
 
上記は書いてみれば当たり前に見えるかもしれないけれど、意識してはいないが、身体を通した自分自身もキャッチしていない判断が自分の行動に影響を与えているということなのだ。頭で考えたことだけを拠り所にしたら、うまくいかない。

合理的に物事を進めているようで、一部分しか使っていない/対象としていないと偏りが出る。
「合理的」とか「マニュアルに書いてある」ことをベストなことだと位置づけると、そこから偏りが出た部分を切り捨てようとしてしまう。その方が適切なときがあるかもしれないが、不適切なときもある。
単にマニュアル通りにやってしまう底の浅さ。本当にそれをするか、頭にきき、身体にきいて、判断することが大事なんだ。現代人は頭に偏りすぎている。
 

昼間、家族がやっている畑から完熟トマトを貰ってきた。
 
売り物は終わりなので、残っている割れたトマトを貰ってもよいと許可をもらい、残り物を貰ってきてトマトソースを作った。
 
割れたトマトというのは、水分を急に吸うとトマトの皮が割けてしまったもの。その状態でまだ形を保っているので食べる分には問題ない。畑へ行ってみると、割れて形を成していなくて茎にブル下がっているトマトが沢山あり、カナブンの楽園として、かぶりつきトマト状態になっているトマトも沢山あった。それらをよけて、かつ青いものも避けて、割れているが食べられるトマトを探して取らせてもらった。生っているうちの1/10にもならないと思うが、それでも家に戻って計ったら9.5kgあった。小型トランク(コロコロ)が8割くらい埋まる量。数は数えていない。
 
家についたら、洗ってヘタや傷んだ部分をカットして、取れる薄皮は取り、小口切りにして鍋に入れる。本当はすべてのトマトを湯むきしたら美しいだろうけれど、半分壊れかけているトマトもあるし、量が多すぎて、そこまで頑張る気になれない。
 
カットするだけで疲れる。暑くて汗をかく。鍋に入りきらず、大きなタッパーへ一旦カットしたトマトを入れる。鍋に山盛り入れたものが2/3。あとタッパーに1/3。それらをニンニクの香りを移したオリーブオイルと炒め合わせ、オレガノ、塩を入れて煮詰めていく。本当は玉ねぎも入れたいけれど、この量だし、玉ねぎ高いので今回はカット。料理するときに入れることにする。
 
最終的に鍋八分目まで煮詰めた。味見するとトマトの酸味が凝縮されて甘酸っぱい。途中、休み休み行い、オンラインをやったりもしたので、出来上がったのは深夜1時くらい。冷まして明日ジップロックへ分けて冷凍しよう。

トマトソースづくり
水は一滴も入れず、トマト・オリーブオイル・にんにく・オレガノ・塩


夜はトマトソースの傍らで「ストレングスファインダー」のおかわり勉強会に参加。人事オタク・組織開発オタクの集まりで会話がはずみ楽しかった。

20220723 Sat.

ふたたび整形外科へ。久々にマイクロ波を当ててもらった。
骨折した部分が、神経がビリッと瞬間的にこわばることが最近続いた。
月曜朝、寝起きに2回。水曜昼間に2回。水分の問題だろうか。
さらに今日は、尺骨しゃっこつ(小指側)のあたりに違和感があり、手首の回旋がスムーズにいかない。以前にもあった症状に逆戻りしている。
 
骨はきれいについていることはわかっている。だから整形外科の先生には、何が問題なのかよくわからないようだった。とりあえず、マイクロ波を当てて温めることになった。やった~気休めかもしれないけれど私としては気が済む。理学療法士の方は「そういうことありますよね、おかしいときは、どんどん先生におっしゃってくださいね」と言ってくれる。
 
一度切れた神経や筋は、つながるけれど、生まれるときに出来上がったような状態とは違いあくまでも修復された状態。そのため何かがきっかけになり、不調をきたすことがあるそうだ。冬の冷えは痛くなるだろうなと覚悟していたけれど、夏にも不調が出るのか。
 
神経質なようだけれど人生100年時代といわれるなか、後々痛い思いや不自由に至らないよう、効果的な手当を知って実践したい。古傷の手当、けっこうニーズが高いかもしれない。
 

本当は午後早い時間に実家へ到着して、夕方芝刈りをすればよかったが、どうにも動き出せなかった。16時半ごろ家を出たので、実家に着いたのは18時半近く。日の入りまで30分ほどで、涼しくなってきたけれど芝刈りするには遅すぎる。あと1時間でも早く出かけたらよかったのになぁと思うが、やはり無理だった。
 
少し夏バテ気味の母との夕飯に、うなぎ1尾を持参して半分づつ食べた。
明日は元気が出るかな。
 

20220724 Sun.

10時から芝刈り。慣れてきたのか、2時間足らずで一通り電動芝刈り機をかけ終わり、30分ほど刈り取れない周囲をはさみで刈り込んでスッキリ。真上から見ると、雑草を取ったときに芝生を剝がしてしまった穴があったり、ピコンと伸びた雑草を発見するけれど、斜め上から見れば夏の緑は生き生きしていて美しい。
秋から冬にかけては、土をいれて凸凹を減らそう。
 
母から「大きな鉢を一緒に動かしてほしい」というリクエストがあった。
植え込みの奥、垣根の間にある大きな鉢。こういうことは一人で取りかかるには誰しも難儀だなぁ。もちろん、やろう!
 
ひとりで動かすのは難儀だが、奥まった場所は二人で入ることが難しそう。|蜘蛛くもの巣は沢山あるし。一人で鉢を転がしながら動かした方がよさそう。しかしどこに置きたいのだろう? それによってどの方向へ転がしていくかルートが違う。
 
聞くと、どこに置きたいのか余りはっきりしない。要は、今の場所は「垣根ごしに見えて汚くて嫌」だが、道路から見える広けた場所に置こうかと思うが、鉢の色合いがきれいでないので、本当は嫌だともいう。動かしている間にも、いうことが変わるので、「うーん、それならこっちのルート通したのに~」と文句を言ってしまった。
ちょっとそこで母は黙って「じゃぁ、ここに置いてちょうだい」と今までより日の当たる場所に置いて、まずは一見落着。
 
その後ランチを食べながら、母からご近所とこんなことがあったという話を聞いた。「モロッコインゲンを貰って、Aさんは[これどうやって食べるの?お店で見ないわ~]と。母が[え~、よく売ってますよぉ]と反射的に言ったらAさんはちょっと機嫌が悪くなったのか、その後お喋りを切り上げて家に入ってしまって。気を悪くさせてしまったようだけど、モロッコインゲンは珍しくないわよねー」と母。
私は「そうねぇ、でもAさんには珍しかったみたいだから、当然知ってるでしょと言われた感じがして、いい気分しなかったんじゃないの? モロッコインゲン、昔はなかったですねぇ、八百屋の片隅にありますよ~。ぐらいにしておけば良かったんじゃない?」などと返した。モロッコインゲン、ひらべったくて少し太った感じのいんげん。茹でて細切りにして胡麻和えやポン酢和え、大きな斜め切りにして炒める、スープの具に入れる。豆そのものというより、さやの部分を野菜として食べるアレ。
 
夕方自分の家へ帰る途上、ふと、母にしたり顔でアドバイスなんかしちゃったけれど、私こそ反射的に文句言ったなぁと頭をよぎった。鉢を動かすとき「え~、だったら早く言ってよ、こっちのルートにしたのに」という言葉を投げてしまったなぁと思い至って、反省した。ランチの時の母の話には、自分はわかってる風な気持ちを幾分かでも持っていたけど、自分も同じことを母にしてたことに、気づいていなかったじゃないか。なんて無自覚なのだ。
もしかして母は、意識してか無意識か、私が反射的に文句を言ったことに刺激を受けて、自分の出来事を話したのではないだろうか。
 
家について帰宅報告電話をしたときに、「ちょっと反射的に言ってしまってごめんね」と母に伝えたら、「でも、そのとおりだから」と言う。さらに申し訳ない気持ちになった。こちらが強い調子でパンッと言ったのと同じ強さで、パンッと返ってくる時期は過ぎてしまった。母は以前の母より弱っているのかな。そのことも悲しい。
 
でも相手のことを、老いている・以前より劣ってきた、と思って付き合うのは、間違っているように思う。智恵に驚くことだってある。だから対等に接したい。人と人として。
 
子供だった頃、当たり前のことを叱られたときに悲しい気持ちになったことを思い出した。そんなつもりで母に言ったわけではない。だけど、もしかすると正論を吐いて、母には力が無いかのようなメッセージを伝えているのかもしれない。それは間違っている。母は、80年以上生きてきた実績をもつ人間なのだ。
 
丁寧に言葉を交わしたい。自分の側に余裕がないと丁寧さが欠けて、親子の遠慮のなさが出てくるから、変な無理をせずに、かつ、おちついて、きっとうまい着地点にいくよ、と思って行動しよう。
 
大きな鉢には、母がジューンベリーを植えた。木陰で適度に日差しが当たるので来年はいい実がつくだろう。気がかりがひとつ片付いたと言ってくれた。
 

ロシアはオデーサの港を攻撃した。
トルコ・ロシア・ウクライナ・国連が苦労して至った小麦輸出合意の翌日に再び危機にさらしている。
 

日本の政治は、今回あらわになった統一教会だけでなく、日本会議、創価学会と密接につながっている。それは無償で票集めをしてくれるからのようだ。

政治家はその政策や議論を通じて、有権者の賛同を集めて政治家としての立場をつくるものだったはず。

どうやら宗教団体に票集めを外注し、本来やるべきこともやっていないことがあらわになった。
 

桜島の噴火が激しく、警報も出ているそうだ。しかし地元の人からすれば、日常的な範囲だときく。木曾御嶽山おんたけさんの噴火で大勢亡くなった事例から学びを得て、いまの警報になっていると聞く。地元用と登山者用と使い分ける必要があるのだろうか。
 

20220725 Mon.

意外な人、Bさんからお茶しましょうとの連絡。最近、お互いの興味が近く会話が盛り上がるので嬉しいお声かけだけれど、なぜ?と疑問がわく。
 
ふふ、きっとそうだ。
先日の会食で費用負担を見誤り、私が確実に1000円多く受け取ってしまったので、BさんかCさん、最初にあった人に返金しますよ、という話をCさんとしていた。きっとその話を前提に、CさんがBさんに何か言ったんだな。
 
 

朝日川柳に突っ込む人。100分de名著に突っ込む人。
共通しているように思う。
 
前提として、演説中に背中から銃撃されることはあるまじきこと/本人や家族、周囲の人の無念さは悲しいこと/政教分離の原則から、特定の宗教団体と政治のつながりは排すべき、という立場に私はいます。
 
1)朝日川柳~

15日には「銃弾が全て闇へと葬るか」「これでまたヤジの警備も強化され」など、16日には「疑惑あった人が国葬そんな国」「死してなお税金使う野辺送り」など、安倍氏の事件や国葬を行う政府方針を揶揄するような複数の川柳が選出されている。16日は選ばれた7本すべてが安倍氏を題材にしたとみられる作品だった。

https://www.j-cast.com/2022/07/19442054.html?p=all

私は川柳記事切り抜きをSNSでみて、そうか、そういう人も結構いるんだなと笑えた。炎上したのち、これを見て喜んでいるような人は人間のクズだという論調を読み、私はクズだと自覚しなくてはならないかとも思った。しかし・・・声なき声にスポットを当てるのは、新聞の役割のひとつではないか。ただ朝日が恣意的にこの立場だけを主張しているのであれば、それは攻撃されるスキをつくっている。最近、朝日は叩かれやすいポジションにいるし。翌日は国葬を歓迎したものや、安倍さんの無念をうたった川柳を選ぶなど、多様な選定をすれば様々な見方があると読者に伝わったのではないか。 

2)100分de名著~

スタジオに文氏の自叙伝『平和を愛する世界人として』がカメラに映るように配置されていたというもの。『やや日刊カルト新聞』によると、2013年4月~2014年8月まで、当時のMCの伊集院光と武内陶子アナウンサーの間に1冊、伊集院の正面から見て左に1冊の計2箇所に陳列されていたという。当時、『やや日刊カルト新聞』はNHKに取材。NHK側は、美術担当者が業者を通じて購入した古本の中に入っていたと回答していた。

https://npn.co.jp/article/detail/200022960

スタジオセットの本棚に旧統一教会指導者「文鮮明」の著書があることを指摘し「公共放送のNHKが特定の宗教である統一教会を取り上げるとは何事か」ただしこれは2013年のこと。
 
いやいや、
いろいろな本が並んでいるではないか。この本だけを見せてくるわけでない。白黒グレー色々あることを見せているだけだ。スタジオセットのセレクションに問題はない、ともいえる。
 
「多様な意見があることを見える化する」「それを許容する」ことは大事なのではないか。それを許さない意見は許容範囲が狭すぎるように感じた。

20220726 Tue.

今日は14年前、秋葉原殺傷事件の加藤死刑囚が死刑執行されたというニュースが入った。
なぜ今日なの?
安倍元首相銃撃事件。人々の得体のしれない不安を抑えるため?
6年前相模原やまゆり園の殺傷事件と同じ日、とは関係ないよね。
6年前のオウム死刑囚 6人死刑執行の日。だから?
 
 
理由はわからないが、これだけ並べると、社会不安が背景に絡む事件が並んでいるなぁと感じる。加藤死刑囚について、本当に常軌を逸した犯罪を起こし、まったく関係ない人生を歩んできて加藤死刑囚に何のゆかりもなかった人達が死んでしまった悲劇に戦慄せんりつを覚える。
一方で、加藤死刑囚は、当日現場へ来て身体がひるんだが、これしかないと思って実行したというコメントがある。これは彼の身体は誤っていることだと反応したが、思考がこれしかない、他に道はないと言ったということだ。
 
社会が彼を追いこんだともいえる。
 
その後、監視カメラの設置が進んだけれど、それは根本原因に対する対策ではなく対症療法だ。根本原因は"人を孤立化させていること"だと思う。
 
社会が、彼のような(どこにでもいる真面目で、いま不幸で、将来にも希望が持てない)人と対話し、今日の一歩、明日の一歩をともに歩む営みを軽んじているのではないだろうか。
 
“大きな変化”と”今日の一歩・明日の一歩”はどちらも大事だが、どちらが先かといえば目の前の一歩だと、若松英輔さんがどこかで話していた。
 
もうひとつ。一人がひとつの顔しか持っていない限界を感じる。ひとつの物差しで見られる感覚を取り払うために、いくつか顔を持てるよう役割を広げたらどうだろうか。地域自治会の係、勤め先の真面目な社員、地域公園のゴミ拾いするいい人など。
 
バーチャルにはアカウントを複数持つとか、noteを書くとか、顔を持つことはできるけれど、リアルな関わりを持つことが大切だと思う。
 
社会の不安・行先のみえなさに対して、誰も何も有効な手を打てず、ひたすら個人へリスクを負わせる社会になっているのではないか。変化の大きさ、読めなささをだれか個人が払しょくすることはできないけれど、ちょっとした一言を交わし、隣にいる人間として、意識を向け合うことが大切で、誰にもできることだと思う。
 
色々な方がこの件についてコメントをしている。
被害者の方々にとっては、彼の刑が執行されたことで一区切りをつけることが出来たかもしれない。亡くなった人へ報告することができる。それでも生きていたら味わえたこと、一緒に経験できたことが失われた喪失は埋められることがない。改めて突然の死を迎えた被害者の方々や家族に思いをはせよう。
 
無力感、行き場のない不安・不満が増す社会構造・経済状況。
社会はどう変化したのか、しなかったのか。

20220727 Wed.

岩波ブックカフェにて友人とお喋り。
この人は、先日銀座で会食したメンバーの一人である。さっそく、私の不徳で割り勘勝ちしてしまった分を、お渡しして、バランスよい状態にすることが出来た。事情もお話し、期待していなかったお金として喜んでいただけた。
あぁ、もっとスマートなふるまいを適切なタイミングに出来るようになりたい。


先日集まったメンバーがなぜ話しやすいのだろうか。
年齢、育ち方や仕事はばらばらだ。しかし関心をもつことが似ていて、同じ本を読む体験をしたため、思いや考えをストレートに話せる。そして考えが違うとしても、拒否せず興味を持った言葉が返ってくる。それが4人の間にまんべんなく起きる。役割が固定されたりせず、その場その場で自由。
 

『トップガン マーヴェリック』 鑑賞。
トム・クルーズ頑張ってるなぁ。それなりに年齢を重ねつつ精悍さを残している。撮影したのは今から3年前らしい。
シンプルなストーリーだが、スリルとヒューマンドラマがちりばめられていた。ところどころ笑えるポイントもあった。
航空母艦に止まるジェット機は、あんなふうな古典的力学により急停車させるのか。。。『トップガン』にもある場面だが面白い。
映画サウンドトラックのTop Gun Anthemはカッコいいギターだなぁ 


私が座った席は、年齢様々な女性のお一人様ばかりが4人並んでいて、笑うポイントが重なることも何度かあり面白かった。お互い知らない同士、直接会話するわけでないけれど、映画の間だけのご縁。こういうのも楽しい。

20220728 Thu.

noteに書いているこのジャーナルは、私が受けた刺激と、私の頭の中に浮かんだことを並べている。備忘録のように跡から何を考えていたか追えるようにしたいという目的だ。

正直、読み手のことを十分考えた文章とは言えない。できればわかりやすく書きたいけれど、なかなかそこまで達しない。
私はユングのタイプ論でいう内向だ。あえていえばとても内向だ[タイプ論はAかBかという捉え方をするので、そこに程度はない(とってもAという言い方をしてはいけない)]。読み手のことを考えているつもりでも、なかなかそこまで到達できずもどかしい。きっと読んでくださる方は、わかりにくいなぁと思っていらっしゃるだろう。
感覚的には、自分が思っていることを外へ出し、それをまた客観的に外へ出す、と2回か3回引っ張り出している。
 
本当は、内向とは関係ないかもしれない。
自分の視点でみているか、相手の視点から見るか。その違いなのかもしれない。私は相手の視点から見ることが苦手だ。そこに自分に見えているものが混ざってしまう。純粋に相手の視点になれない。
 
読みやすい文章は、もっと異なるプロセスで書くのかもしれない。読み手の立場からスタートして。私には雲の上の神様、あるいは異星人のように感じるが、もう少し自分の経験値を上げたら、読みやすい文章を書くプロセスに入れるだろうか。
 
いま頭の中にあることを外へ出す作業をしているけれど、出さないより、はるかにマシだと思っている。それは考えたことをもう一歩考えるきっかけになるからだ。
読んでくださる方がいらっしゃることは励みになる。私にとっては誰もいないよりか、誰かいるほうが伝えている感覚が増す。もしかしたら書いたことの一部が読み手のなかで共鳴して、なにかが実現化したら嬉しい。カウンターの数字として見えている読者のなかで、何が起きているだろうか。
 

20220729 Fri.

事前にいろいろと検討した結果の、友人2人と一緒に長野で3泊。
茅野駅からレンタカーを借りて、1日目は諏訪大社めぐり・買い出し・温泉・宿で自炊。2日目以降はお天気次第だが、自然の中を散歩したり、景色を求めてドライブすることになりそう。

諏訪大社は四社ある。正式な参拝順序があるのかもしれないが、上社前宮まえみや → 上社本社ほんしゃ → 下社春宮はるみや→ 下社秋宮あきみや とお参りした。

今年は御柱祭おんばしらまつりの年にあたり新しい御柱が立っている。上社前宮では、四本の御柱を順番にまわって見た。本殿の周囲をたどり、ふかふかした土の感触に嬉しくなる。山で切り出したモミの木は、白くて触るとすべすべしている。

前宮一之御柱

「御柱祭は7年に一度のお祭り」というフレーズが定番だ。これは、前回開催年を1として、そこから数えて7番目の年に行うということ。つまり6年ごとの開催となる。これはとても賢い間隔だなと思う。

・干支でいう、|寅<とら>と|申<さる>の年に行う。わかりやすい。
・沢山ある大がかりなお祭りのノウハウを引き継ぐ機会は、6年毎、下の世代へ引き継ぐことになる。これだけの大きな祭りは、毎年だとやってられないが、時々しかないと思うと緊張感を持って取り組める。
・御柱として建てるモミの木を育てるためには、ある程度間隔を空けないと適切な立派なモミの木が育たない。(この地域は諏訪大社だけでなく、地域の各神社も四本づつ御柱を立てている)

1人の引き継ぐ側からすると、一生の間に何度か経験ができて、その都度、立場を変えて参加することになる。幼少期、10代、成年して若手の時代、壮年期30代、40代、50代を越えて祭りの責任やノウハウを担う世代。長い時間軸で、地域への愛着も責任も湧いてくるだろうな、

下諏訪市のマンホール

全国へ目を向けると、コロナのために地域の祭りが中止されてから、今年が3回目の夏。今年行なえた場所ではノウハウ継承ができただろう。今年も中止したところは来年こそ行いたいだろうなぁ。

同行者3人とも気になっているのは、墨田川花火大会。毎回、人混みでごった返すイベントだった。この先、行えるのだろうか。花火は無観客という技を行使できないし、大がかりであるほどサプライズ開催もできない。江戸と花火、粋な組み合わせを復活したいものだ。

あちこち歩いて汗をかいて、縄文の湯に浸かりさっぱり。八ヶ岳牛乳は美味しい。知人は「これ懐かしいっ」とフルーツ牛乳を飲んでいた。

縄文の湯 湯上りの一服


20220730 Sat.

前の晩、雨が降ったので一日雨かもしれないと思っていたが、朝になると空は陰りなく青空が広がっている。明日以降天気が悪くなるかもしれないので、景色を堪能しておこうと北八ヶ岳ロープウェイへ行き、八ヶ岳・南アルプス・中央アルプス・北アルプスの山並みを眺め、足元の高山植物を沢山目にとどめてきた。案外空いていて、順調だったのでもう1か所、車山高原のリフトにも乗ることにした。ここもそれほど混雑していない。夏休み中の土日だが、広大な自然のなかでは人々が分散している。

車山高原 山頂から下る遊歩道

こんな素晴らしい景色を見ていられるなんて、素敵な時間だ。
八ヶ岳中信高原国定公園。歩行路を整備してくださる方々に感謝。


夜は長々とお喋り。3人だと一番話しやすいのかもしれないし、テレビがないので、おしゃべりするしかない。それが楽しい。

20220731 Sun.

昨夜は激しい雷雨で、窓から雨が降りこみそうだった。それでも朝はまた快晴に戻っている。事前の天気予報が見事に覆るとは、なんて恵まれているんだ。どうやら同行者のひとりが晴れ女。長野のイメージにしては、気温が高いけれど、空気が清々しい。

昨日はお金をかけて山へ上がったので、今日はドライブと遊歩道散策で行ける場所へ。御射鹿池、オシドリ隠れの滝、大滝、蓼科湖。

2か所の滝は、滝と名前がついているけれど、川の流れが急で階段状の段差を落ちるさまが見える場所。登山ほどではないが、足元に気を配って歩く必要のある自然道。木々の間を抜ける風や水のせせらぎが心地よい。先日古武術の先生に習った歩き方を実践して歩く。

おしどりの隠しの滝

蓼科湖は、昭和の開発時期に作られた遊具施設などが数年前に撤去され、いまは木陰にテーブルとイスが散在している。そこに座って景色を眺めながら、うたたねしたりお喋りをした。

八ヶ岳の峰は、くっきり明瞭に見える。素晴らしい!

蓼科湖畔からみる八ヶ岳の山々



翌日8/1には、製麺所直売店・野菜直売所・土産物店をまわり、中央線 特急あずさで新宿へ戻った。一緒に行った友人2人には蓼科の自然を満喫してもらえたようだ。

各地の猛暑ニュースが並び、現実に戻ってきた感覚が如実に立ち上がる。英気を養ったきたから、8月何とか乗り切ろう。実家の母は猛暑の中、ひとりで生活している。食べたり、本を読んだりしているようだが、暑さの疲れは避けられない。8月は、母にこそ蓼科へいってもらわなければ!

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読んでくださりありがとうございました。
失望と希望、不安と安心、怠惰とやる気の間を行き来する毎日。
それでも今日の幸せ、美味しい一品、そんな一歩を大切にして、
たゆまず進んでいきたいと願っています。
猛暑が続く日本全国・北半球各地、みんなが健康でありますように。


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