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オッペンハイマー

昨夜、公開初日のオッペンハイマーを見てきた。
ノーランの新作、そして日本の歴史と大きくかかわる原爆、これ等が絡みついた作品を見ないわけにはいかなかった。

映画について

オッペンハイマーは原爆の父と言われている。

実験が苦手だった彼は、理論物理学者の師匠みたいな人に出会いその道に進んでいきめきめきと頭角を現す。

アインシュタインに代表されるように当時の物理学が古典物理を超えこの世を構成する原子そのものに迫り始めた時代背景が、奇しくも戦争による兵器開発競争にリンクし、その只中にいたのが彼、オッペンハイマーだった。

原子爆弾という宇宙の根源そのものの力を活用した兵器が生まれる過程が、オッペンハイマーの同期の実験科学者、アメリカとソ連、ナチズムとの関係、資本主義と共産主義、科学と政治、男と女、戦争と平和といった様々な対立項の中で彼がいた状況が堀進められていく。

そこにノーランが明らかに伝えたいようなメッセージは一見ないように見える。インターステラーの「時空を超えた愛」に想起されるような強いメッセージは皆目見当たらなかった。

しかし、ノーランは徹底的に、オッペンハイマーの他人との複雑な関係性を逃すことなく徹底的に描き切っていた。それはただ、そこに人として信念をもって生きることの難しさ、人のどうしようもなさを目の前のテーブルの上にあからさまに、まざまざと並べられたようだった。

鑑賞後、そんな気持ち悪さを覚えながら映画館を後にした。

私たちが今享受している平和とは

少し話は変わるが、この映画を見たことで今私が置かれている平和の認識が大きく変わった。

私が好きな建築家は誰かと聞かれたら、一番最初に挙げるのが丹下健三である。私はかつて丹下が設計した広島のピースセンター(平和記念公園・資料館)に大変感銘を受けた。

原爆ドームから平和大通りに垂直におろした軸線上に資料館を直交させて配置し、公園全体を原爆ドームを基準として設計することによって平和の祈りの空間を鮮やかに生み出した。

建築にそんなことが可能なのかと、建築の可能性に感銘を受けたとともに、そこに生み出された平和の工場という彼の語り口がなんとも印象に残っている。

こういった経緯もあって、私は日本の平和は私たちが生み出した(勝ち取ったなのか、保持しているなのか、あるいは憲法第9条という概念なのかうまい表現が見当たらないが、)と理解していた。

しかし、この映画から察するにどうやら話はそこまで単純あるいは、ポジティブな話ではないかもしれない。
劇中でドイツが降伏し、どうやら原爆を実際に使わなくてもいいという流れになった時初めて日本が登場する。

日本の国土の広さから、彼らは全土が征服されない限り降伏しないだろうとの見解が示される。そこで日本に原爆を落とすという方向へ話は進む。オッペンハイマーらによって生み出された2発のうち、1発目はその威力を「見せつける」こと、2発目は「降伏するまでつづける」というメッセージ性を持っていた。

その狙い通り広島、次いで長崎に原爆が落とされたことで日本は降伏に至った。

核が持つその原初的な宇宙がもつある種の暴力性が、今の世界に硬直を生み出している。私たちがいま平和と信じているものは、また違う視点から見ると核の抑止力がもたらした、身動きのとれない硬直した世界かもしれない。

外からの視点で日本を見ることで、今私が置かれている状況に自覚的になる。その点で私はこの映画を期に、今一度私を取り巻く状況を知らなければならないという感情になった。

意思と信仰

本題に戻る。
この映画の初めから終わりまで一貫して出てくるキーワードとして、政治・信仰がある。

オッペンハイマーがマルクスを始めたとした経済の書籍を読み、学内で組合を発足させ、共産主義とのつながりを徹底的に洗い出され、スパイを疑われ、あるいは科学すら信用できなくなり、共産党員の元愛人は精神を病み自死してしまう。

結論としてオッペンハイマーがどんな主義主張を持っていたかは、彼にしかわからないが、ここで注目したいのは、人は何を信じて生きるのかということである。

宇宙の根源となる事象としての核分裂を知りたい、再現したいという自分の意思(欲望)が実現されたとき、その技術を用いて人を殺すという他人の意思を彼は拒絶できなかった。

その後核爆弾が広島に落ちたと知った彼が、その直後の集会で実験が成功した日の白い光と爆音のフラッシュバックに陥る描写がある。

本当にそのPTSD的体験があったかは定かではないが、その後彼が「自分の手が血に染まってしまったように感じる」という発言をしたことからも彼は自分のしたことが正しいのか分からなくなっただろう。

現代に生きる我々が「私」という概念を持ったことで、世界は大きく変わった。

そこに人間が2人存在し、それぞれの私が独立した瞬間、それらは決して合い入れない。それぞれの意思が完全に一致することはなく、どこかで対立が生まれる。

私の意思を通すことは誰かの命や意思の形を変えることを、時に代償として伴う。自分の意思を通すため、あるいは誰かからの意思により自分の形が変えられてしまうことを避けるために、人々は同志を集め結束を強める。これがある文脈での政治であり、ある文脈での宗教・信仰であると思う。

私たちが意思を持った時点でそこには、多かれ少なかれ信仰を伴う。
あるいは私たちは、信仰ともいうべき側面がなければ、確固たる意志を突き通すのは難しいかもしれない。

過酷な状況の中で、その技術が想像もできぬ人の命を奪うかもしれないとわかりながらも開発を進めることは、宇宙の原理を見たい、それが美しく引き付けられ、その圧倒的威力が実際に使われずとも、人々を圧倒し戦争を終わらせるのだということを信じ続けなければやり通すことなどできないだろう。これは科学をあまりにも信じすぎた代償かもしれない。

あるいは、自分が生み出した原爆がこれまで同様兵器としてしか見られないことで、水爆に反対し続けること。それが世界に無益だと結論づけること。

絶対的にみえる科学に裏付けられた自然の摂理も、人の心、資本主義と共産主義の対立には干渉しきれない。だから、再び対立し陥れられる。

世界に正解などない。
そのどれもが自分の価値観の中で、信仰ともいえるような個々人の価値観の狭間で翻弄され続けるオッペンハイマーを見ていると胸が苦しくなった。

けれども、最後にアインシュタインと交わした言葉が明かされることで、落とし前をつけるために戦い続けてきた、戦後のオッペンハイマーの真意が明らかとなる。

自分が信じたものに責任を持つこと。3時間という短くない時間の中でその姿勢だけは一貫していた。




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