【第5回】How They Became GARO ―“ガロ”以前の“ガロ”と、1960年代の音楽少年たち―〈ミルクの章 / 2(承前)〉
◎文:高木龍太 / TAKAGI, ryuta
■ソフトロック+アートロック=ミルク
ミルクには活動を通じていくつかのオリジナル曲もあったようだが、当時のGSの多くがそうであったように、ステージ・レパートリーはやはり洋楽ナンバーのカヴァーがほとんどであったようだ。鳥羽、木下の証言によれば、それらの選曲は日高によるものが多く、次いで松崎だったようである。
こうしたカヴァー曲は原曲をストレートにコピーする場合もあれば、日高が中心となり、独自のアレンジを加えて演奏されることもあった。鳥羽曰く、譜面に強いメンバーはいなかったといい、“耳”と“センス”がすべてだった。
69年のプロ・デビュー前後の資料から、レパートリーの一部を拾ってみよう。
たとえば、プロコル・ハルムの「青い影」。ボビー・ヘブの「サニー」。前者のソロ・ヴォーカルは日高、後者は松崎がとっている。このあたりについては、当時のバンドの王道選曲だった、とも言えるかもしれない。しかし、「サニー」の方はボサ・ロック風の、ミルク独自と思われるアレンジで取り上げていた、と記せば、みなさんの興味の度合いも変わるだろうか。
さらに選曲を追えば、ほかにはアソシエイションの「かなわぬ恋(ネヴァー・マイ・ラヴ)」(ソロは日高)、ゾンビーズの「テル・ハー・ノー(恋はノー・ノー・ノー)」(松崎)、レターメンの「愛するあなたに」(日高、松崎)、といった曲が目に留まる。
そして個人的にはひと際、目を引かれてならないのが、フォー・シーズンズ・ヴァージョンの「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン(君はしっかり僕のもの)」(日高)をとりあげていることだ。
このあたりとなると、これはなかなか、20歳前後の若手GSとしては、玄人好みの選曲だったのではないだろうか。
少なくとも日高がソロとある曲は、自身で選曲したものと考えていいようだが、これらのレパートリーを見てもわかるように、ミルクというバンドは、ハーモニーが主体であったり、コード感が洒落たポップス系の楽曲――、つまり、わかりやすくまとめれば、日本では“ソフトロック”と呼ばれるような質感を持った楽曲を、好んでとりあげていたバンドだった。
さらにこのもう少しあとの時期になるようだが、日高はフィフス・ディメンションのナンバーあたりも、バンドによく持ち込んでいたようだ。
松崎の方も後年のメディア発言などではビートルズ、ビーチ・ボーイズ、それにレターメンなどのハーモニーにやはり魅せられていたことをしばしば語っていて、コーラスへのトライは、このふたりにとって一致した考えでもあったようにも窺える。
日高曰く、松崎とは高校時代から影響しあう仲だったそうだから、ふたりの間に共通する趣味が築かれていたとしても、なんら不思議はなかったのかもしれない。
バンド最初期には、たとえば「愛するあなたに」(リトル・アンソニー&インペリアルズの「ゴーイング・アウト・オブ・マイ・ヘッド」とフランキー・ヴァリ「君の瞳に恋してる」をメドレー化した作品)ではファルセットを日高、中音を松崎、低音を鳥羽が担当する形でハーモニーを聴かせていたという。
またジャジーなテイストのゾンビーズやボビー・ヘブのナンバーは松崎がソロをとっており、これらが彼自身のチョイスとすれば、少年時代にビートルズの「アスク・ミー・ホワイ」に衝撃を受けた、と公言している松崎らしい、洒落た趣味のカヴァーだとも言えそうだが、じつはこのジャズ的なセンスというのも、後述するが日高の方にも共通した価値観だった。
もっとも、上記で挙げたミルクのレパートリーのうち「サニー」、「かなわぬ恋」については、先の章で触れたように、かつてエンジェルスも取り上げたことがあったという曲だ。ハーモニーに対する興味や重なる好みはやはり堀内の方にもあって、そうした選曲はエンジェルスの方にも見られていたことは記しておくべきだろう。
しかし、事務所の意向も強かったというエンジェルスでのそれに比べ、当時のミルク/日高はその傾向がより主体的、積極的だったようであり、本格的なものだったように個人的には感じられる。
途中加入の木下も、ミルクでコーラスを手掛けることは好きだった、といい「それは、日高の影響」(木下。2020年筆者取材時の発言)だったそうである。
その一方で、ミルクというのはそんなソフトロックを追求しつつも、前述のようにヴァニラ・ファッジやクリーム、ディープ・パープル(ロッド・エヴァンス期)など、当時でいう“アートロック”系の、ラウドなロック・ナンバーも同様に熱心に取り上げていたバンドでもあった。
宇崎竜童も後年、当時のミルクについては<奴ら(ヴァニラ・ファッジの)「キープ・ミー・ハンギング・オン」がスゲェ上手だったんだ>(『宝島』77年4月号掲載エッセイより)――と述懐している。
これはひとつにはそうしたサウンドが当時のロックの最新トレンドだった(実際、当時の多くのGSがレパートリーにしていた)こともあったのだろうし、またあるいは松崎の強力なヴォーカルを活かした選曲でもあったのかもしれないが、日高自身がソフトなサウンドとラウドなロックの、そのどちらも熱心に好んでいた、ということも大きかったようだ。
ただしラウド、といっても日高はギターそのものが持つ本来の音色にこだわろうとするタイプで、エフェクターの類を頻用することはあまり良しとしていなかったらしい。
当時のほとんどのGSが用いていた、ある意味あの当時のGSサウンドを象徴するエフェクターであるファズについても、日高は好まなかった、ということを自身で明言している(エイプリル・ミュージック刊『エリック・クラプトンのすべて 第2集』への日高の寄稿/1975年4月発行)。
興味深いことに、この当時の日高について調べて行くうちに、彼のミルクでの選曲傾向におそらく影響を与えていたであろう、ひとつのバンドの存在に気づかされることになった。それは〈デ・スーナーズ〉である。
■日高を魅了したデ・スーナーズ
デ・スーナーズ(D' Swooners)は当時、日本に滞在し、赤坂《MUGEN》などのディスコ、クラブを中心に活動していたフィリピン出身の5人組だ。
そのレパートリーは欧米のロック、R&Bのカヴァーを主としたものだったが、彼らはそれらをオリジナルに迫る“ノリ”で披露することで知られていた。
情報の少ない当時、欧米のフィーリングに近いカヴァー演奏が間近に体感できる――、ということで、日本のトップGSのメンバーたちもこぞって生演奏を見に足を運んだという、注目のバンドだったのである。
やがてその評判は当時の一般の音楽少年たちの間にも伝わり、スーナーズが68年にフィリップスから日本でのレコード・デビューを果たすと、それらの洋楽カヴァーを収めたLPは好セールスを記録したというほどだった。
日高も、そんなスーナーズの大ファンだったらしい。
なにしろ、本人曰く“ファンクラブにも入会していた”(前掲書)というほどである。
日高がスーナーズの演奏に初めて触れたのは、おそらく彼らが本格的に日本滞在を始めた68年の春以降と思われるが、それ以来、このバンドのライヴには足繁く通っていたようだ。鳥羽によれば、スーナーズとはミルクでの対バン経験もあったそうである。
たとえば、日高のクリームとの出会いの曲となったのは「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ(サンシャイン・ラヴ)」だったそうだが、じつはクリームのレコードを最初から聴いたのではなく、スーナーズのライヴ演奏を通じて知ったのだ、との旨の日高自身の述懐がいくつか残っている。
のちにエリック・クラプトンの熱烈なファンとして知られる(それも、クリームの頃の彼が“最高だった”と発言していたこともある)ことになる日高だが、そのきっかけは、このスーナーズがもたらしたものだったのである。
さらにスーナーズはロックやR&Bを得意とする一方で、ソフトなコーラス・ナンバーも難なくこなせるバンドであった。
そういえば前述のレターメンの「愛するあなたに」も、やはりスーナーズが持ち曲としていたものだ。つまり、この曲あたりも彼らに刺激を受けて自らもカヴァーしようと思った可能性もある。
何が言いたいのかといえば、レコードではなく“間近”に見たスーナーズの“生のグルーヴを持った演奏”に衝撃を受け、それを“触媒”として日高が自らの音楽の幅を広げて行っていたのだとすれば、それはそれでまた興味深い、60年代ならではの“音楽の連鎖”だったのでは、ということだ。
バンドの独自性、ということにシリアスにこだわるのであれば、たしかにミルクの当時のレパートリーにはこのスーナーズのように、他バンドとも被る部分があった、と言えるのかもしれない。
しかし、どんなルートを経て知った曲だったにせよ、それらをミルクに取り入れようとチョイスしたのはメンバー自身だ。そして、そこから“何をつかみ取っていたか”、が重要なのである。
個人的には、そんなミルクのレパートリーを眺めていると、当時の日高たちの“この音を追求したい”という熱意が、いまも曲名の隙間から伝わってくるような気がする。
そしてなにより注視すべきなのは、こうしてミルク時代に顕著となった日高の“ポップなメロディとラウドなギター・サウンド”という、一見、両極端な好み(堀内にもそうした傾向はあったが)というのが、その後、つまりガロ以降のキャリアにおいて常に彼の中で“同居する要素”として貫かれてゆく、ということだ。
たとえばいまなお多くのカヴァー・ヴァージョン――小田和正、鈴木雅之から、堀込泰行らのレイク・マシューズまで――を産み続けている「地球はメリー・ゴーランド」のような一級品のメロディも編み出した一方で、自らの軸足を“ロック”に置くことにメンバー中、特にこだわり続けたのが、日高という人だった。
メンバーそれぞれのカラーをリアルに映し出したガロのラスト・アルバム『三叉路』(松崎しげるもゲスト参加した)を例にとれば、「ヘヴィ・ローラー」のようにブルージィなロック・スタイルにも意欲を見せながら、「恋のゲーム」のような甘酸っぱいパワーポップ・チューンや、ビートルズ、ビーチ・ボーイズ、あるいは洋画『避暑地の出来事』の主題曲――、そんな自身の好んだ音楽たちのエッセンスを結晶させたような爽快な三連バラード「去年の夏」など、とびきりのポップ・ナンバーも同じアルバムの中に同居させ、そのメロディメイカーとしての才をたしかに見せた。
さらにガロ解散後のファースト・ソロ・アルバム『TOMMY』(77年9月発表。東芝EMI、ETP-72261)に至っては、その傾向を推し進めたかのように、そして彼という人を如実に表わすかように、A面にソフトなポップス系の楽曲、B面はラウドなエレクトリック・ギターをフィーチャーした楽曲、という、まったく二分された構成をとっていたのである。
その両面の、どちらかには割り切れない。しかしそのことこそがじつは、日高という人の“らしさ”であり、持ち味だったのではないだろうか。
さらに、話をもう少し広げることをお許しいただけるなら、ガロ自体にしても、そもそもは結成当時からCS&Nを規範に、3人のみによるアコースティック・セットと、ロック・バンド・スタイルでのエレクトリック・セットの両方を取り入れていたグループだったことは忘れられてはならないはずだ。
ガロ初期のライヴにおいてサポート・メンバーとして加わっていたのが若き日の小原礼(B)や高橋幸宏(DS)だった、ということはエピソードとしてはよく知られていると思うが、それはガロというグループの、そうした在り方によるものだった。
たとえば73年にリリースされたライヴ・アルバム『GARO LIVE』での堀内と日高のツイン・リードや、あるいは75年のアルバム『吟遊詩人』でのそれを耳にした人の中には、ガロの、広く持たれたイメージと異なるそうしたエレクトリックな側面を意外と感じる人もいるかもしれないが、むしろそれは、ガロのメンバーにとっては最初からごく自然なことだったのだ。
そして、そうした“どれかひとつ”ではない、ヴァーサタイルな感覚が培われた背景には、おそらくエンジェルスやミルクに代表される、こうした各メンバーの60年代の活動もあったのではないか。そんな風にも思えるのである。
なお、ほかにミルクのカヴァー・レパートリーとして伝えられているのは、5人編成に替わった69年半ば頃だと、モンキーズの「自由になりたい」(松崎)、ナンシー・シナトラの「007は二度死ぬ(You Only Live Twice)」(日高)、アイビーズの「メイビー・トゥモロウ」(松崎・日高)、レターメンの「肩にほほをうずめて」、プロコル・ハルムの「ハンバーグ(Homburg)」(松崎)など。
松崎、日高だけでなく、木下がヴォーカルをとることもあり、彼自身が選曲したソロ・ヴォーカル曲としては、たとえばビー・ジーズの「ジョーク」があった。
■ミルクの幻のオリジナル曲たち
ところで、これをお読みの方がもしガロのファンならば、やはり気になるのは、当時のミルクのオリジナル曲の有無について、ではないだろうか。
実際、前述したようにミルクには、いくつかの“オリジナル曲”というのも存在していたようだ。
現在わかっているだけでも少なくとも4曲前後は確実に演奏された実績があったようだが、ただ現存する資料が乏しく、まだ詳細が確認されていないものも多い。
“オリジナル曲”、といっても、これはメンバーが書いたものに限定した話ではなく、なんとその中には、ミルクを見出し、大橋プロでの活動を支えていた宇崎竜童が書きおろしたものも数曲、あった。
宇崎はバンドのカラーを汲み、ヴァニラ・ファッジと和製ポップスを折衷したようなアートロック調の曲や、英語詞のソフト・コーラス調の曲など、いくつかの作品をミルクに提供していた。
この当時、宇崎はまだ大橋プロの社員ではあったが、ちょうど同じ時期には自社の所属アーティストであった鍵山珠理とバロンによるユニット〈ジュリーとバロン〉へ「ブルー・ロンサム・ドリーム」(69年6月に東芝からシングル発売)という楽曲を提供し、作家としてのデビューも果たしていた頃だった。
対して、ミルクのメンバーの中で曲を書くことへの意欲をのぞかせていたのは、やはり、日高だったようだ。
興味深いことに、日高自身がのちに述懐しているところによれば、ミルク時代には宇崎と日高とが共作した曲というのも、一曲か二曲、存在していたのだという(FC会報『我郎』12号/75年8月発行)。
それがどういう形での共作だったのかは不明だが、だとすれば、日高の最初のソングライティングのパートナーは、堀内でも大野でもなく、宇崎竜童その人であった、ということになるのかもしれない。
そんなミルク時代にライヴで披露されていた日高のオリジナル曲のなかで、じつは一曲だけ、ガロのファンにもそのメロディがよく知られている曲がある。
それは、73年のアルバム『GARO4』の中において、「二人は友達」という曲名でガロによってレコーディングされた楽曲の、その原曲である。
■日高の初期作「二人は友達」
これはメロディはまったく同じだが、ガロ版とは歌詞および、曲名が異なるというもの(原曲名は不明)。
しかしながら、ベーシックなアレンジはガロ版とほぼ同一であり、ミルクで演奏されていた時点で、ほとんど曲としては仕上がっていたといってもいいものだ。
かつて堀内が語ってくれたところによれば、この「二人は友達」のメロディは“たしかアウトバーンズか、ミルクの頃にトミーがもう作っていたもの”だった、らしい。
いずれにしても、ミルクの初期(69年半ば頃)にはすでにライヴで披露されていたようだから、日高が10代の頃の作品であることは間違いない。
日高自身の弁によれば“初めて曲を作ったのは高1の頃”(FC会報)というから、この曲が“処女作”というわけではないようだが、曲を作り始めてから程ない時期のものではあるのは、たしかだろう。
後述する理由から、『GARO4』というアルバムは、ファースト・アルバム以来の古参ファンからは、“ガロが最も迷走した一枚”、というシビアな評価を受けることも多い。
そしてその中でも、初期の世界観に惹かれていたリスナーにとって、メンバーのオリジナルとしてはかなり異色なもの、と受け止められていたのが、おそらくはこの「二人は友達」という曲だったのではないだろうか。
なぜなら、この曲はまるでテンプターズあたりを想起させるような、GS的な、感傷的なメロディを持つ作品だったからだ。
しかし、それも当然のことで、じつはこれは実際にGSブームのさなかに作られたものだったのである。
この一曲からは、ミルク時代の日高が吸収していたであろう、ふたつの“インプット”が窺えると、個人的には考えている。
ひとつはやはりGSというムーヴメントと、おそらくはそこへ彼が抱いたシンパシーだろう。
というのも、堀内も日高も洋楽にのめり込みつつも、当時のGSブームのトップで輝いていたタイガースやテンプターズの存在、さらには彼らのヒット曲の多くを手掛けていたすぎやまこういち、村井邦彦(ガロにとっては所属する原盤制作会社の社長という関係となり、またプロデューサーのひとりともなった)といったソングライターたちのメロディ・センスに対してはあこがれのような心情を持っていた、ということをのちのインタビューのいくつかで匂わせているからである。
つまり、曲を作り始めたばかりの日高にとって、こうした国内ポップスの先人たちは、おそらくひとつの“指針”となっていたのだろう。
特に村井は、1945年生まれと、当時のプロとしてはもっとも若手の作家であり、また時代を代表するヒットメイカーである一方で、(のちにガロに提供した「美しすぎて」などでも顕著なように)高度に洗練された洋楽色の強い楽曲を当時の日本で紡ぎ出し始めていた気鋭の存在でもあった。
あるいは、バンド自身がやはり若手ながら、デビュー時にはメンバーによるオリジナルが主体であったテンプターズからは、“自作自演”に対する姿勢という面で、刺激を受ける部分もあったのかもしれない。
自分と同じように欧米のロックの影響を受け、日本で生まれた“バンド”=GSというものの頂点を極めたスターたちに対しての羨望、そして自分も彼らに追いつけたら、という掻き立てられる想いも、内心あったかもしれない。
また鳥羽は、日高には“良いものは良い”の精神が常にあった(じつはこれは、のちのガロのメンバー全員に共通する意識でもあったのだが)、と証言する。
実際、日高には国内のプロ作家だから、海外のミュージシャンだから、という隔てはなく、たとえばガロ時代にも海外アーティストと並べて、渋谷毅を好きな作曲家のひとりに挙げるなど、そのあたりはまったく衒いなく、ニュートラルに構えていた様子が窺えた。
自分に合うものなら東西問わず取り入れて行こう、あるいは試してみようという姿勢もそこには見えるし、まして曲を書き始めて間もない頃なら、それはなおさらであったのではないだろうか。
のちの世の人間は、“自作自演で、且つ洋楽レベルな音楽を創り出すアーティスト”というものを当然の存在のように考えてしまいがちだけれども、1960年代末から70年代初頭は“日本語のポップス”も、洋楽ロック風の“自作自演”も歩みの途中であり、大半の人が手探りの中だった。
おそらくこれらのことは、現在のように“デフォルト”なものでは、まだなかったのだ。
そして、目指すところは必ずしも“洋楽そっくり”なものではなかったのではないかという気もする。洋楽のサウンドの高みは目指しつつ、それを日本人として解釈し昇華する、それを模索していた人たちもいたのではないだろうか。
そんな頃にあって、様々な先人からの刺激を受けながら曲作りに手を付け始めていた頃の日高の様子が、「二人は友達」からは感じられる気がする。
考えてみれば、この曲が『GARO4』というアルバムで陽の目を見たというのも、奇妙な縁を感じる話だ。
ガロが最もヒット路線に乗っていた頃、制作会社主導で急造されたというこのアルバムは、まさにすぎやま、村井といった前述の作家たちからの提供曲を中心にしたもので、そして彼らがここでガロへ提供した楽曲というのは、当時のガロの人気ぶりにかつてのタイガースやテンプターズの面影を見出したかのように、どこか“GS時代のヒット曲”の延長線的な雰囲気(誤解しては困るが、それはあくまでGSというものの一側面だ)を漂わせた、感傷的な作風のものも目立ったからである。
日高自身は『GARO4』で「二人は友達」を引っ張り出した理由を語り残していない。もしかしたら、それは案外、当時の多忙さから単に曲のストックがなかった、というだけのことだったのかもしれない。
しかし結果的にすぎやま、村井らの作品と、この「二人は友達」は、ここでなんとも違和感なく納まっている。それが、興味深く思えるのだ。まるで、このアルバムが意図せずして、日高にとっては“自らの過去(ルーツ)の一角”を見つめ直す機会、になったかのような気もしてくるからである。
それはちょうどこの頃、欧米のミュージシャンの間ではロックンロールやオールディーズのリヴァイヴァルが流行ったことの日本版的なもののようで――、といったら、都合良く捉えすぎだと、笑われるだろうか。
もちろん日高にしても、堀内にしても、たとえばすぎやまのすべての作品がOKだったというわけではなく、時には反撥する感情を抱くこともあったということは、よく語られるところだ。おそらくは彼らなりの微細な美学が、そこにはあったのかもしれないし、次世代の若いミュージシャンとしての、矜持というものがあったのかもしれない。
そして『GARO4』がガロという“グループ”にとっての“本筋”ではなかったことも、次作以降の彼らが路線の軌道修正を試み、コンセプト作品の『サーカス』を産んだ、というエピソードからも明らかだろうし、「二人は友達」という曲も、日高が残した作品のなかでは傑出した名曲、というわけではなかったかもしれない。
しかし、この「二人は友達」で見られた感傷的なメロディ感覚というのは、以降の日高の作品を眺めると、たとえば、ガロ時代の「惑」(74年シングルB面)や、ソロ時代の「My City Girl」(77年『TOMMY』収録)のようなエモーショナルなロック調ナンバーを彼が書くとき――、あるいは、かまやつひろしに提供した「道化役」(1975年発表のアルバム『あゝ、我が良き友よ』に収録)などのバラード作品がそうであったように――、
彼の内側からしばしば滲み出てくる、見逃せない要素のひとつとして次第に消化されていったようにも、筆者には思えている。
■トッド・ラングレンが好きだった
そして、「二人は友達」から感じ取れるもうひとつの“インプット”は、アレンジ面から推察される当時の洋楽からの影響、日高の嗜好だ。
注目したいのはイントロ部分である。先に述べたようにこの曲のアレンジの骨格はミルク時代にすでにほぼ出来上がっていたものであり、イントロもまた然りであったが、じつはこのイントロに登場するギターとキーボードによるリフというのが、〈ナッズ〉という、いささか洋楽マニアの関心をくすぐるバンドの「オープン・マイ・アイズ」(国内盤シングルは日本グラモフォンから69年2月リリース。DT-1076)という曲のそれと、そっくりなのである。
そっくりといっても、あくまで楽器の使い方やリズムの刻み方、ドラムの入り方などが似ているということであり、決して露骨な“パクリ”=コード進行まで同じというわけではない(意図的だとしても、引用と呼べる範囲のものだろう)。だから似ているのは偶然じゃないか、という声もあるかもしれないし、たしかにその可能性もないとは言えない。
ところが、驚くことに日高はガロ時代の雑誌記事の中で、このナッズのレコードを好んでいると、実際に触れていたことがあるのである。
ナッズというのは、トッド・ラングレンがソロとして名声を得る以前、60年代後半に率いていたバンドだ。
日高は特にガロ時代の初期、雑誌取材などの際に好きなソングライター、あるいはギタリストのひとりとして“トッド・ルングレン”(ナッズなど初期の日本盤でのアーティスト表記)の名を、かなり頻繁に挙げていた時期があった。
ガロ時代の日高のトッドへの傾倒ぶりが相当のものであったことを、筆者は堀内からの証言で教わった。
たしかにロック・ファンには周知の通り、トッドにはハードなロック・ギタリストの顔とポップなソングライターの顔の両面があるわけで、その点で日高は自身と重なる匂いを感じ、惹かれていたのかもしれない。
ガロ時代の作品においてストレートな影響と言えそうなのは前述した「恋のゲーム」の間奏のツイン・リードがそれらしいくらいだが、その他の楽曲でもコード使いやギターのトーン、あるいはファルセットの使い方などには初期のトッドと共通するセンスがちらほらと隠れ見える気がする。
ナッズの名を日高がメディアで紹介したのは、1972年のことだ。
たとえば自ら雑誌記事で触れた例としては『ライトミュージック』誌72年8月号記載のアンケート記事があって、ここで“いま一番シビれているアルバム”として、<いまはなき、ナッズのアルバムと、ギタリスト、トッド・ルングレンのソロ・アルバム>を挙げている。
また、直接ナッズについて触れた記事というわけではないものの、さらに半年ほど前の『ヤング・ギター』誌72年2月号の音楽ニュース欄には<彼(筆者註:日高のこと)は、元ナッズのトッド・ルングレンのLPにいたく感激、彼のように全て自分で仕上げるソロ・アルバム作るのが(原文ママ)夢だそうだ>という、それを匂わすような筆者不明の短文記事も見つけることが出来る。
惜しむらくは、日高が具体的にどのナッズの作品を所有していたか、いつそのレコードを手に入れたのかについての言及がないことなのだが、しかし72年前半といえば、日本でのトッドのソロ・デビュー・シングルとなった「瞳の中の愛(アイ・ソー・ザ・ライト)」がワーナー・パイオニアからリリース(72年6月発売。P-1135W)される以前の時期である。
アルバムの方はなかなか発売されず、翌73年6月に出た『魔法使いは真実のスター』(本国での4枚目。P-8334-W)が日本で初めて紹介されたトッドのアルバムだったから、日高は72年の初頭までにトッドの初期のアルバム(時期的にはまだ代表作『サムシング/エニシング?』は出たか出ないか)を輸入盤という形で聴いていた、ということになるのだろう。
おまけにその時点で日高は“ナッズ好き”まで表明していたのだから、少なくとも一般的には早耳な方だったのではないだろうか。
そして「二人は友達」のイントロが、本当にナッズをヒントにしているのであれば――もっとも大元をたどるならナッズのそれもザ・フーの「アイ・キャント・エクスプレイン」から着想を得たもの、ということにはなるが。日高はガロ時代、フーのピート・タウンゼンドも好きなギタリストとして挙げていたことがある――、日高のトッド好きはさらに遡ってミルク時代から、ということになるわけで、興味をそそられてしまうのである。
ナッズの音楽は、まさに伝え聞く当時の日高の志向と似ていて、ヘヴィなロックとハーモニーあふれるソフトロックを股にかけた、じつにキャッチーなポップ・ロックだった。
その知名度は60年代末の日本ではマイナーではあっただろうが、ルックスの良さからアイドル風の売り方をされていたこともあってか、洋楽誌ではリアルタイムでもそれなりに紹介はされていたし、国内盤レコードも日本グラモフォン、ワーナー・パイオニアからシングル2枚、LPは3枚すべてがちゃんとリリースされていた。
レコード・コレクションにも熱を入れていたとも伝えられる日高のような音楽マニアなら、ナッズのようなバンドもチェックしていてもおかしくはなかったのかもしれない。
ミルク時代の日高の胸の中には、ひょっとして、彼らのようなサウンドというのも密かなあこがれとして存在していたのだろうか?
この「二人は友達」のイントロの件は確証を持って語れるものではないものの、ミルク時代の日高の嗜好を探る上で、興味深いものだと思う。
■「洒落たセンス」のそのルーツ
残念ながら、この「二人は友達」以外に日高がどんなオリジナル曲をミルク時代に作っていたのかについては、関係者の記憶も薄れてしまっているようで、まだよくわかっていないのが現状だ。
しかし、じつはもうひとつだけ、貴重な証言がある。
鳥羽によれば、日高はこの当時、“Gmaj7→G#dim→Am7→D7”というジャジーなコード進行を気に入っており、ミルクの初期のステージでは、日高の弾くこのコードに合わせてセッション風の展開となり、そこへ松崎が“即興”で英語風の歌詞とメロディをつけて歌う、ということがしばしばあったのだという。
この“即興曲”、というのはいまも松崎がステージなどで得意とするものであり、それがこの頃からすでに披露されていたことも驚きだが、日高がメジャー・セブンス(maj7)やディミニッシュ(dim)のコード感をこの頃から好んでいた、というのも注目したい事実だ。
なぜなら往時を知る人たちによれば、当時メジャー・セブンスなどを用いて作曲をするロック、ポップス系の国内アーティストはまだそれほど多くなく、実際、ガロのデビュー時の反応の中にも、日高や堀内の楽曲のメロディ、そしてガロのハーモニーのなかに見出せる、そのコード使いのセンスが新鮮なものと受け止められた※面があったらしいからである。
それを裏付けるように、日高にはジャズのギター・コードを好み、また得意としていた側面があり、後年のソロ活動では、たとえば「ミスティ」のようなスタンダードを弾き語ることもあった――、という話も聞いたことがある。
日高はガロ時代にも、フリーやラズベリーズなどのロックのレコードを聴いていると明かす一方で、たとえばヤング・ホルト・アンリミテッドのようなポップ・ジャズや、モータウンの作品などをフェイヴァリット・ディスクに挙げることもあり、そうした洒落た、軽いブラック・ミュージックの系統もかなり、好んでいた。
ガロ解散後、ソロ転向間もない頃には、ワン・ステージをすべてスティーヴィー・ワンダーのカヴァーで終えたこともあったそうだ。
さらにガロ時代の日高が各音楽誌に寄稿していた手記を注意深く眺めてみれば、彼が当時、ジェイムス・テイラーにもかなり入れ込んでいたことや、ジョン・セバスチャンのいたラヴィン・スプーンフルのレコードなどもこよなく愛していた様子が見て取れる。彼らの楽曲に共通するのも、どこか洒落たコードと、メロディの感覚だろう。
ガロ初期のステージでは「ファイアー・アンド・レイン」をしばらく自身の持ち曲として取り上げていたこともある日高だが、JTの音楽との出会いは古く、アップル時代の「想い出のキャロライナ(思い出のキャロライナ)」収録のLPを(ポール・マッカートニー参加のクレジットに惹かれて)69年に購入して気に入ったことだったという(『ライトミュージック』)。つまりこれもミルクでの活動前後の話だ。
スプーンフルの方はいつハマったのかはわからないが、71年の段階ではよく聴いていたようで、たとえば「デイ・ドリーム」や「ユー・ディドント(心に決めたかい)」をお気に入りに挙げ、このバンドが<もうどうしようもなく好きなのだ>ということを日高は告白している(『ヤング・ギター』71年増刊への寄稿)。
またこれもミルクより少しあとの話になるが、国内の音楽では、ちょうどガロが結成された1970年の11月に発売され、翌1971年にかけヒットした由紀さおりの「生きがい」を当時、日高はいたく気に入り、高く評価していたという(堀内ほかの証言)。
これは先に触れた渋谷毅が作・編曲を手掛けたものだが、ジャズ・ピアニスト出身者ならではの渋谷の洗練された旋律と編曲は、たとえば当時のバート・バカラックなどのテイストに通じるものであり、当時のヒット歌謡に分類されるものとしては、おそらくかなり新鮮なものだったはずだ。奇しくもこの曲の作詞は、のちにガロの多くの作品にも作詞で携わった山上路夫である。
そうした曲たちを好む日高の感性が、前述のミルクのステージにおけるジャジーなセッション、ひいてはガロ時代のコード使いにも、じつは密かに影響していたのではないだろうか。
ミルク時代の日高は「二人は友達」で著名GSからのメロディの影響を隠さなかった一方で、そんな質感も探っていたのである。
*
こうしたエピソードを書いていても、様々な試みがミルク初期の活動においてなされていたことがわかるが、それだけに、バンドの現役当時にこれらのオリジナル曲が何ひとつリリースされなかったことは、非常に残念なことだ。もしもどこかに、これら“幻のオリジナル曲”の音源が埋もれているのなら・・・、そんな淡い期待も抱いてしまう。
そして何より惜しまれるのは、やはり堀内がリハーサル段階で早々に離脱し、ミルクの本格始動に加わらなかったことである。
そもそもは事務所の意向の強いエンジェルスでは満足できず、堀内と鳥羽がやりたいことをやるために結成しようとした、ミルク。
もしも堀内がミルクでそのまま活動していたなら――、果たしてバンドはどんな展開を見せたのだろうか?
※以下第6回へ続く→第6回を見る
(文中敬称略)
Special Thanks To:大野真澄、木下孝、鳥羽清、堀内護(氏名五十音順)、OFFICE WALKER INC.、Sony Music Labels Inc. Legacy Plus
主要参考文献:※最終回文末に記載。
参考ウェブサイト:
『VOCAL BOOTH(大野真澄公式サイト)』
『MARKWORLD-blog (堀内護公式ブログ2009年~2014年更新分)』など
(オリジナル・ヴァージョン初出誌情報:『VANDA Vol.27』2001年6月発行。2023年全面改稿)
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