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謝罪を、感謝や配慮に変えたなら



物事を丸く収めるために、或いは円滑に進めるために、謝ることは必要不可欠だと思っていた。

けれど、「謝らない」という道があることを、私は知った。



ワーキングホリデーでオーストラリア生活を始めた頃、私は人より多く「I’m sorry」を使っていることに気付いた。

もともと、人に何かをしてもらうことに対して、感謝より申し訳なさが上回ってしまう性格だから、「ごめんなさい」を「ありがとう」に変えたいと思っていた。せめて同じ比率にしたかった。

「Thank you」と同じくらい、「No worries」(心配いらないよ)という言葉が使われているこの国でなら、それを変えられる気がした。



アルバイト先のベーカリーカフェで、ティーカップのソーサーを割ってしまったことがある。
マネージャーに、本当にごめんなさいと謝ると、

「何で謝るの?わざとやったわけでもないのに。君はいつも頑張ってる。ソーサーなんていくらでもあるんだから。Good girl!」

と、返された。

あろうことか、お皿を割って、褒められた。
勿論、人生で初めての経験だった。



幼い頃から粗相が多かった私は、お茶をこぼしたり、お手伝いをしようとキッチンに立てば卵を床に落としたりで、怒られることは日常茶飯事だった。加えて、行動のひとつひとつがゆっくりだったらしく、ご飯を完食するのに時間がかかり過ぎてはまた怒られて。

何かミスや失敗をすれば、怒られる。
早く上手に出来ないと、怒られる。

口ごたえや言い訳が出来る子どもでもなかったし、それがわざとであろうとなかろうと、ミスをすることや出来ないことは相手を怒らせてしまうんだという意識はどんどん積み上がっていった。

だから私は、誰かに自分のミスを知られることに怯えている。正直、ミスをして先ず頭に浮かぶことは、どうすればこのミスを隠せるだろう?ということ。結局その罪悪感に耐えられるはずもないので、素直に謝ることになることばかりだけど。


そんな私が、ソーサーを割るというミスをしてしまったのにもかかわらず褒められてしまったことは、衝撃以外の何でもなかった。

わざとソーサーを割ったわけではない。
日頃から頑張っている。

実際に起こしてしまったミスを気にするよりも、そこを評価してくれていることが、泣いてしまいそうな程に嬉しかった。



人を責める人が、圧倒的に少ない。
これは、オーストラリアで働いて感じたこと。それはスタッフ間だけでなく、店員とお客の関係でも。

店内が混み合った日に、料理の提供をお待たせしてしまったことをお客様に謝ると、「全然大丈夫だから、謝らないで。」と言われる。私たちはどうせここでダラダラ話してるんだからいつでもいいんだよ、って。

いつも私や他のスタッフを必要以上に焦らせるのは別の日本人スタッフだけで、お客様はいつも穏やかだった。だから私は、I’m sorryと謝る代わりに、「Thank you for wating」と言って料理をお持ちすることにした。



ある常連のお客様が、私は大好きだった。初めてお客様の中で私の名前を覚えてくれた人。

彼女は杖をついているから、いつも車までテイクアウトのコーヒーを運ぶのだけれど、その日は他のスタッフが休みで、私がレジをひとりで担当していた。後ろには、他のお客様が待っていた。

コーヒー運びたいけど、どうしよう…と思っていると、後ろのお客様が、「僕が車まで持っていくよ!」と言って、コーヒーを運んでくれた。こういうのいいなぁ、と思った。

店員だから、お客様だから、という区切り以前に、目の前にいる“ひとりの人”。
そういう思考からしてくれたのであろう対応が、とても素敵だと思った。



お客様対応をしていると、理不尽だなと思うことは度々ある。直接の接客業ではない現在の職場でも、乱暴な言葉を浴びせる人からの電話を取ったことが何度かある。正直先月の一件は酷くて、そこから数日は、覚えている電話番号以外は極力取りたくないと思ってしまうようになっていた。

少しでも質問への回答をお待たせしてしまった私が悪い。話していることを一度で聞き取れなかった私が悪い。と、以前の私ならそう思ってひたすら謝っていたかもしれない。

けれど、あいにく、もう私はそう思えない。

専門外の質問をされたのなら調べる時間は必要だし、相手が聞き取りやすいようにとの配慮が欠けすぎた早口は聞き取れなくて当然だと思う。

隣で、後ろで、必要以上に謝っている職場の人たちを見ていると、そんなに謝る必要ないのに、と思ってしまう私がいる。お客様に対しても、役職のある人たちに対しても、誰かに仕事をお願いする時も、とにかくよく謝る。その光景に、声に、疑問を抱いてしまう。しかし、気づけば私もまた、その人たちに倣うように、よく謝るようになってきていた。

申し訳ありません、すみません、大変失礼いたしました…聞けば聞くほどに、言えば言うほどに、疲れてしまえることに気付いた。ありがとうございますの一言で十分な事柄も、説明を補足するだけで済む事柄も、何でこんなに謝っているんだろう?


でも、私は何故謝ることをこんなに疑問に思うのだろう?ちょっと海外で生活しただけで、海外かぶれになっている?ただ単に謝りたくないだけ?だとしたら、それは良くないと思う。

いや、そうじゃない。
私は、誰かが必要以上に謝る姿を見たくない。自分を含めて、謝るべきところでないのに謝ったり、相手の一方的な理不尽にまで謝罪したり。

謝ることが出来る、というのは大切で必要なことだけれど、現在私が身を置く環境では、それが過剰だと感じる。謝罪ではなくて、感謝することや配慮することで事足りることがあると思えてしまう。

仕事の場だからといって、そこまで心をすり減らさなくてもいい社会がいい。店員である前に、お客様である前に、部下である前に、上司である前に、お互いが、ひとりの人間なのだから。

助け合いに必要なのは、謝罪ではなく、感謝と配慮だと思うから。

そう思ってしまうようになったのは、いいことなのか、いいことではないのか、分からない。社会不適合者だと言われるのかもしれない。



でも、やはり、変わればいいなと思う。

何かをしてもらうことに対して申し訳なさが上回っていた私も、相手の好意には感謝を伝えたいと思うようになった。ごめんなさいと伝えればどこか突き返しているように感じるから、ありがとうと伝えて受け取りたい。

そして、お皿を割って褒められることは流石になくても 、Thank you と No worries のやり取りで大抵のことが済んでしまうオーストラリアで経験した「お互いが謝らないやり取り」が、もう少し増えてほしい。

それでもきっと、社会のサイクルは崩れないし、ちゃんと回っていくはず。寧ろ、ひとりひとりの謝る回数が、1回ずつでも感謝する回数に変われば、気持ちを伝える回数に変われば、笑顔の数が増えるかもしれない。


じっくり読んでいただけて、何か感じるものがあったのなら嬉しいです^^