【備忘録】偽善なんてないさ、偽善なんて嘘さ

※当記事は、特に参考文献を漁りもせずに、ただ頭の片隅にある思考の澱みを吐き出した文章です。

 寝ぼけた人が見間違えただけさ。
 人はいつから「偽善」なんていう大層な言葉を使えるようになったのか。私には何をもって「偽善」を指すのかが未だ理解できていない。

「あなたは善を知っていますか?」
 ある日の午後に、ふと頭の中に問いが降りてきた。人の世で悪とされていることには何となく検討がつくし、善とされているものに思い当たる節もある。ただ、それを知っているのかと聞かれると、素直には頷きにくい。
 私の首の筋肉をつっぱらせるのは、ただひたすらに「善」という概念の薄気味悪さである。きっと、色々調べたなら善とは何か、古今東西の論者が語った有難い論文が見つかるだろうし、それぞれの思想の変遷なんかも学べるだろう。ただ、世界中で重宝されている有難い活字を目で追って分かるものが、果たして善と呼べる代物なのか?という根本の疑問が、私の右膝に刺さって抜けない。

 人は善についてを学ばねば、善について知れないものなのだろうか。あくまで個人的な思惟であるが、善と学びが紐ついてしまったら、それは人類に開かれた善ではなく、識者の手元から投じられた「僕の最強の変化球」でしか無くなってしまう気がしている。
 人は善について、学ばざるとも知っているはずだ。いや、知っていたらいいな。
 これが何の根拠もない私の直感であり、いつか証明されれば良いなと思っている私の「善観」である。

 そもそも、善の取得にコストが掛かるようであれば、世界平和はしばらく夢のまた夢であり、SDGsの完遂は素人の場外ホームランくらい夢見心地な話ではないのか。どうしたって、同じコストを掛けるのであれば、悪の成し方を学んだ方がコスパが良いのは周知の事実である。
 攻防一体の悪に対して、善は攻撃の側面しか持たない。世の中に対する直感的な不平を「善」という曖昧なベールで包んで、あたかもそれが真理であり唯一であるように振る舞い、相対的に悪を規定して、精神的に物理で殴る。それが善を行使する姿であり、善が世の中に自らの道理を通す一般的手段である。
 光あるところに影があり。これは世の中を相対的に見せる悪しき迷言だと思うが、一方で世の中の姿を正しく捉えた言葉でもある。善とはつまり、世の中を照らすペンライトであり、例えそこがすでに日のあたる場所だったとしても、その明るさより高いルーメンのペンライトでそこを照らせば必然的に明暗の差がつく。ペンライトは道具であり、人が振りかざす善もまた道具なのである。
 残念ながら今のところ、善を善と悪を悪と断言できる物差しと、口元が汚れないで食べられるケンタッキーは人類史上で発見されていない。

「奴隷制の是非について考えたことがある」
 奴隷制が良くないことというのは、何となく直感的に感じることができる。それはきっと、「もし自分が奴隷の立場だったら」と考えることができるからであろう。
 女王アリは、働きアリの労働環境を改善しようとは思わない。なぜなら、女王アリは女王アリとして生まれ、女王アリとして死ぬことが決まっているからである。勿論、女王アリは女王アリなりに、一族の存続への責任感ないし本能より生じる重圧を感じているだろうが。

 それとは別に、奴隷制が必ず悪であると断言することはできるだろうか。
 きっと人々が奴隷制を悪と断じるのは、人が人として扱われない状況に対する嫌悪感による者だろう。この本能的、もしくは直感的な嫌悪感は、例えそれが論理的な道筋によって生まれたものでないとしても、酷く貴重なものとして扱われなければならない。その直感こそが、人が生まれながらにしてもつ善性に繋がるものであるはずだからだ。

 では逆に、奴隷制を擁護する論理ないし道筋にはどのようなものが考えられるだろうか。考えるに、奴隷制施行時は人が人であるためのハードルが異様に高かったのではないか。つまり、人が人として認められるためにはそれ相応のコストが必要だったという考え方だ。そして、そのコストを払うことが社会でのルールとして構成員に認められていた。
 端的に言えば、奴隷は人ではないから、人にするのであれば悍ましくて目を背けたくなるような行為だとしても、その当時の社会においては全く問題とならなかった。社会によって認められたルールという名の合法ドラッグにより、人々は皆でアッパー状態になっていたのではないか、ということである。

 人が繁榮させたいのは、人である。地球温暖化を止めなければいけないのは、それが人の世にとって嬉しくない現象だからである。海洋汚染をよしておいた方が良いのは、美味しい魚が食べられなくなるからである。
 人が絶滅危惧種を守ろうとするのは……、絶滅したら何となく嫌だからである。この直感については、また別の機会に考えられればと思う。

 兎にも角にも、皆が参加するパーティーの最中に、皆で合法のドラッグで飛んでいたならば、我々が奴隷のオーナーにとやかく言うのはナンセンス極まりない。では、この嫌悪感は誰に向けられるべきか。
 この咎を誰か個人、もしくは特定の団体にぶつけるのは余りに可哀想だ。彼らは喜び勇んでパーティーに参加したはずだし、もしかしたらそのパーティーが法的にグレーな催しかどうか、調べた者もいるかも知れないのだから。
 ただ、どのルールブックを見ても、このパーティーの合法性はきっちりと明記されていたはずだ。それならば、このパーティーの参加者を弾劾の席に招くことはできない。
 では、パーティーの主催者はどうだ。
 これについてはノーコメントとする。なぜなら、何かしらの文献を漁らねば主催者にお目通りをすることが出来なさそうだからだ。徒然の思考にそこまでの労力をかけると、色々な箇所が行き詰まる。
 では、このテキストの中で誰を学級裁判の悪者にするべきか。私が思うに、合意形成の雛形である「社会」自体に限界があるのではと思う。
 先ほど、人は人の繁栄ばかりを願う、という見解を述べた。それと同じで、社会自体も「社会」という存在の繁栄ばかりを願ってしまう性質があるのではないかと思う。つまり、人が集まり社会が形成された段階で、それはまるで生物が如き胎動を始め、人の手を離れていってしまうのでは、という考え方だ。
 そうなってしまうと、主導権を持つのは社会の細胞である人ではなくなる。私たちだって、一々細胞の声に耳を傾けたりしないし、そもそも細胞の声なんて聞こえてこない。細胞の声が聞こえるのは、混じりっ気なしのドラッグをやっている人だけである。

 これもまた直感だが、それが科学的に立証されていようがいまいが、この世には「流れ」というものが存在していると思っている。思うに、人が舵を取れなくなった社会を動かすのは、この大きな「流れ」であると思う。
 この流れに対して、その社会自身だけではなく、隣接社会、地球の裏側の社会、ひいては自然環境までが影響を与える。個の力、あるいは社会の力でさえ抗えない「流れ」によって奴隷制が生まれたのであれば、我々はこの事象について、誰に何を言うこともできないのではと思ってしまうのだ。

 では、私たちは第二、第三の奴隷制が生まれた時、指を咥えてその流れを見守ることしかできないのか。
 そんなことはないと私は願いたい。なぜなら、私たちは既に「流れ」の存在に目を向けることができるからだ。勿論、先に述べた通り流れに抗うことはできないとは思う。流れに立ち向かうには、あまりに人は数が多くなり過ぎている。
 では、流れに目を向けることで何ができるのか。それは観測であり、予測であり、推測である。人間が死に物狂いで発展させてきた「科学」も、この「測ること」の一形態に過ぎない。
 流れが流れである限り、ある日突然ストップすることはない。常に目を見開き、私たちは自分が巻き込まれている流れを観測する必要がある。そして予測し、推測して、突然の流木に巻き込まれない立ち位置をとる。
 そうすることで、人は第二、第三の奴隷となることを避ける。時たま運のない人が流木に当たって奴隷化することもあるかも知れないが、あくまで測りごとである限り、不測の事態は避け得ない。
 見て、考えて、最後は祈る。人間に与えられた選択肢などこの程度なのかも知れない。

この記事が参加している募集

ほろ酔い文学

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?