【前編】子どもを軸にしてこそ生まれる地域転換~いすみ市・鮫田晋さん
この企画の最初におうかがいしたのは房総中部に位置する千葉県いすみ市。海と里山、田んぼといった豊かな自然を有する人口約3万6000人のまちです。
ここはコウノトリの飛来するまちづくりの一環で有機米の生産を始め、現在では市内全小中学校の給食に100%提供するまで発展、全国から広く熱い注目を集めています。特徴的なのは農業の活性化はもちろん生物多様性の保護や食育まで分野横断的に官民が連携して取り組み、子どもたちの教育へとつなげていること。
お話のお相手は行政側のキーマンの一人、農林課主査の鮫田晋さんにお願いしました。ポプラ社がいすみ市の取り組みにご協力している関係から何度もお会いしてきましたが、まだまだ興味は湧くばかりです。
この日は鮫田さんたちが開いた、小川での生きもの観察会に私も参加してから。子どもたちの歓声の余韻を心に残しながら、お話を始めました。
子どもが変われば親が変わり、やがて地域が変わる
千葉 先ほどはお疲れ様でした。本日はこれまでにお聞きしてきたことを改めてという部分もありますが、「コウノトリが飛来するまち」という発想が環境保護、有機農業そして子どもたちの教育へと結びついていった経緯を特に詳しく教えていただければと思っています。
鮫田 「いつもと話している内容が違う」なんてことがないようにしないと。
千葉 まさか(笑)。まずは鮫田さんご自身の経歴からお聞きしてよろしいですか。県外ご出身とのことですが、いすみ市にはどのようなきっかけでお住まいになったんですか。
鮫田 出身は埼玉なんですが、学生時代に始めたサーフィンがきっかけでいすみ市に来るようになったんです。仲間たちと近くにアパートを借りて、毎週波乗りをして。卒業後に東京でサラリーマンをしていたんですが、海のそばでの生活に憧れが強くなり、一念発起して市の職員採用試験を受けました。2005年採用なので、今は18年目です。
千葉 職を得てから移住したわけですね。現在の農林課に配属されるまでにはどのようなお仕事を?
鮫田 最初は教育委員会に配属になりまして、子どもたちの体力低下や生活習慣の問題に取り組む文科省の研究事業を担当していました。それから税務課で2年。次に地域産業戦略室という部署に配属されました。地域産業戦略室は分野横断的な新事業の考案がコンセプトの部署でして、現在の有機農業を軸としたまちづくりにつながる企画はそこで生まれたんです。そこに1年間在籍した後、その企画とともに農林課に移ったという流れです。
千葉 過去の部署での経験が、現在の事業に生かされているようですね。
鮫田 教育委員会時代の事業は学校の先生や保護者、スポーツ少年団など地域の方々と教育行政とが連携するものだったので、市民一体になるための協力関係についてよく考えました。その事業の成果として子どもが変われば親が変わり、やがて地域が変わるということが見えたのが大きかったです。いすみ市は小さなまちとはいえ、何かを転換しようとするのは簡単なことではない。そんな時には子どもを軸とした施策をするのが有効なんだ、という成功体験が私自身もまちとしても得られたんです。
千葉 なるほど、子どもを軸とするとやりやすくことなることも多いと。有機農業というアイディアは地域産業戦略室にいたころに出てきたものですか。
鮫田 いえ、その時は兵庫県豊岡市の「コウノトリと共に生きるまちづくり」が手本だったものですから、いかにコウノトリが飛来できる自然環境にするかという視点でした。農業、ましてや有機中心という話はまだほとんどなかったと思います。
千葉 コウノトリの話になると、太田洋市長の話は避けて通れませんよね。
鮫田 ええ、もともとは2010年に太田市長が「コウノトリ・トキの舞う関東自治体フォーラム」に参加したことがきっかけですから。
千葉 フォーラムの構成自治体はいくつかありますが、その中でいすみ市は地域経済まで含めて成功している数少ない自治体という印象があるのですが。
鮫田 どこを見て成功と考えるかにもよりますが、千葉では野田市のコウノトリの飼育繁殖事業は完全に定着していますし、栃木県小山市でもコウノトリが飛んできて繁殖しているので、環境整備・保護の面では全体として成果が挙がっています。いすみ市については、成功の規模は決して大きいわけではありませんが、農家の経営向上に結びついていることは間違いないと思います。
千葉 コウノトリの飛来するまちを目指して、今日の生きもの観察会の主体にもなっている「自然と共生する里づくり連絡協議会」ができたのが2012年ですよね。
鮫田 はい、協議会には「環境」と「農業」の2部門があるのですが、農業の分野は、コウノトリの飛来を考える時に、必然的に環境に配慮した有機へと変わらなければいけなかったんです。当時、市内で有機のコメづくりをしている農家はゼロだったのですが。
千葉 つまり市内のコメ農家さんはみんな慣行農業を行なっていた。一般的な話として、環境保護と農薬を使う慣行農業は対立することも多いですよね。
鮫田 確かに安定生産のために農薬が必要だという意見と、環境保護のために農薬を使わないでほしいという主張は普通、相容れないですからね。うちのように協力体制が取れているというのはなかなかない組織構造だとは思います。ただその点は「農薬を使うか使わないか」という手法の話ではなく、「コウノトリが飛来できるような田んぼづくりを」という目的から活動を始めたのが大きかったのかもしれません。田んぼの周りにビオトープを作ろうとか、水路の段差をつないで魚が上がってこれるようにしようとか、みんなで一緒に体を使って現地で活動したことで、自然と手を携えるムードができ上がっていきました。
千葉 そのような取り組み方は有機農業を考える他の自治体も参考にできるかもしれないですね。
鮫田 そうですね。食育や食の安全、地域全体の経済活性などさまざまな視点はありますが、まちづくりを本流としていくならば、環境と共生した持続的な農業を軸に据えるのはいいことなんじゃないかと思います。
小さな成功が次の成功を呼ぶ
千葉 そうして手探りで有機のコメづくりを始めたのが2013年からとお聞きしていますが、農家のみなさんはどのような感じだったのでしょう。
鮫田 私が担当するようになったのはその年からなんですが、まず豊岡市の活動のすばらしさについては農家のみなさんにも共感いただけていたとは思います。とはいえ自分たちが無農薬でコメづくりを、となると「無理なんじゃないか」という意識だったはずです。なにせ市内には前例がありませんでしたから。庁舎内でもいすみ市で無農薬は難しいという声はありました。
千葉 そういった意見に対してはどのように感じられましたか?
鮫田 そう見えて当然だよなと。私たちには経験も専門家のような知識もないですし、そんなの上手く行かないと思うのは当然です。でも実際に事を起こさないと何も始まらないのと、結果だけは嘘をつかないと思っていて、まずはやってみようと。とはいえ、最初の年はノウハウがなさすぎて失敗してしまったんです。
千葉 それでもめげることなく挑戦し続けた結果として、2017年には市内の学校給食の全量を有機米にするまでに至った。なぜこの挑戦が上手くいったとお考えですか。
鮫田 最初に取り組み始めてくれた人たちの存在が大きいです。そして、優れた指導者の存在も。2014年からは正式に事業化して、専門家である故・稲葉光國先生(NPO法人民間稲作研究所代表)の指導のもと一定の収量を上げることができました。初期こそ「誰もやらないから」「とにかく始めちゃったから」という感じで、田んぼも今とは真逆で「ここでなら失敗してもいいかな」みたいなところを使っていましたけど、一つの成功が次の成功を呼んできてくれたんですよね。どのくらいの面積に作付けしてどれだけ収穫できて、それがいくらで売れて、どれほど食べられているという結果は、関わっている人それぞれが周囲に伝えてくれますから。太田市長が有機米の学校給食への全面導入を打ち出したのも、そうした声を酌んでのことだと思います。
千葉 そういえば、太田市長がコウノトリの住むまちを考えていった時に、いっそ飼育してはどうかと言い出して猛反対を受けたというのを聞いたことがあるのですが……すみません、話はそれてしまうんですが。
鮫田 ははは。人件費もかかりますからね。確かに反対の声が出たんですが、なにより、ちょうどいいタイミングでコウノトリが飛んできちゃったんですよ。
千葉 そんなことって(笑)。
鮫田 2014年の4月25日かな。手を着け始めたばかりの2反の田んぼのすぐ近くにコウノトリが飛んできて。あ、これは飼わなくてもいいんじゃないかと(笑)。
千葉 太田市長は、“持っている”感じがしますね。
鮫田 こうして話すと偶然みたいなこともありますけど、市長の姿勢が一連の事業の成功を引き寄せていることは間違いないと思います。本来ならばそれほど直接やり取りをする機会がないような一介の職員の私も、この事業に関してはかなり近い距離で意見を交わせていますしね。
有機農業を広めるならば体験してもらうしかない
千葉 話は戻りますが、有機米の収穫ができた時に、子どもたちに食べさせようと考えたのがいすみ市のすばらしいところだと思うんです。有機は高く売れるので、通常の販売に乗せる選択肢もあったはずですから。
鮫田 「コウノトリ米」を給食に使っている豊岡市の事例をモデルにしているということもありますが、「地域全体を転換するための有機事業だ」という意識が育まれていたからだと思います。事業の方向性を市民と共有するため、勉強会やシンポジウムなど密度の高い時間を過ごしたことで、子どもたちに食べてもらうのが目先の農業経営以上に地域にとっていいことだと考えられるようになったんでしょう。
千葉 子どもが変われば地域が変わる、という考えを理解していたということが大きかったのですね。
鮫田 そのためには子どもを中心に市民のみなさんにも有機のコメづくりを体験してもらう必要があるとも早くから思っていました。今日の生きもの調査みたいなものは協議会の設立当初からやっていたんですが、体験の取り組みを地道に続けてきた経験は大きかったかもしれませんね。田んぼでの農業体験を行っていくと、農業の役割って食べ物をとるだけではないんだということを肌感覚で理解してもらえますから。
千葉 田んぼであれば、水害を防ぐだとか、そういったことですね。
鮫田 はい。そういうことを教科書で教わる機会はあっても、本当に理解することは難しい。心を動かして学ばなければいけないということを私たち協議会のメンバーは経験から知っていたんだと思います。だから有機農業を広めるならば体験してもらうしかないという発想がおのずと生まれていったのだと思います。
千葉 子どもたちには自分たちが給食で食べているのが有機でつくったお米だということは届いているようですか。
鮫田 全員に浸透しているとは言い切れませんが、給食に出すようになって、学校から出前授業の依頼が来たり、子どもたちの研究の手伝いをしてほしいといったお声がけは多くなりました。
大人には子どもを導けるスキルと思いが必要
千葉 いすみ市の子どもたちは、土地柄、農業に親しんでいるとこいうことはないのでしょうか。
鮫田 いや、この地域でもやっぱり農業離れの深刻さを痛感しましたね。これだけの農業地帯ですから、「家族や親戚で農業をしている人は?」って尋ねるとたくさん手が挙がるんです。でも、じゃあ手伝ったことがあるかというと、ほとんどない。田んぼの周りにどんな生きものがいるかと聞いても、ザリガニとかアマガエルくらいしか出てこない。これはなんとかしないと、ということで協議会で話し合って始まったのが、里山環境と有機農業とを結びつけた「教育ファーム」なんです。
千葉 小学5年生の総合学習として行っているものですね。子どもたちの反応はいかがでしょう。
鮫田 最高に楽しいって言ってますね。上級生がコメづくりをしている様子を見て、5年生になる前から「自分たちもやりたい!」みたいに思ってくれているので、最初の授業から食いついてくれて。最後には自分たちでつくったコメを食べるんですが、1年間かけた味ですからね。特別だと思いますよ。
千葉 素晴らしい取り組みだと思う一方、そうした発想を事業化していく上で、学校現場や教育行政の面でハードルは高かったんじゃないかなとも感じます。
鮫田 時間割に落とし込めてもプログラムを消化しただけで終わりになったり、やったけれども結果につながらないというのは日本中で起きていることですよね。私も教育委員会の在籍が長かったので、それは重々承知していました。できるところから、やりたい人がやろう、くらいの感覚で始めたんです。今でこそ教科書までできましたけど、当初はプログラムも何もなく始めました。まずは先生に何かを感じてもらえればいいとも思っていましたし。
千葉 なるほど。先生方からの反応はどのようなものでしたか。
鮫田 担任の先生が生きものの授業をやった時に子どもたちの反応がよくなかったみたいで、「うちの子たち、生きもの苦手なんです……」なんてことも言われていたんです。でも、いざ私たちと一緒に田んぼで生きもの調査を始めたら目を輝かせて楽しんでいたので、「よかったなあ」と。先生方の意識も変わっていったんじゃないかと思います。同じように生きものを扱うにしても、やり方が大事ですよね。今日の観察会もそうでしたけど、身近な自然の中にすごく面白いもの、新しい発見があるということを子どもたちに教えてあげる役割を大人が担わないといけない。今の子どもたちは、これだけの自然があるいすみ市ですら、スマホやタブレットにすぐに時間を取られてしまいますからね。
千葉 とはいえ、大人の側にそういう意識がなければ子どもたちと自然をうまくつなぐことはできませんよね。
鮫田 子どもたちは本来、生命に共感する力を備えているはずで、大人にはそれを引き出せる思いとスキルが必要ではないでしょうか。ただ、それは一過性の研修で高めることは難しいものです。
千葉 いすみ市の場合は、そういうスキルと思いを持った大人が、動くべき場で動ける環境にあった。ある意味奇跡的かもしれないですね。
鮫田 どういう人と出会って何をやるかっていうことは、やっぱりこういうまちづくりにとって大切ですよ。「あの人がいなかったらこういう事業になっていなかった」って言う時に浮かんでくる「あの人」は、関わった全員かもしれないと思うほど、みんなの考えや個性が活かされてここまでやってきましたからね。
(後編へつづく)