見出し画像

短歌五十音(く)葛原妙子『葛原妙子歌集』


底本:葛原妙子『葛原妙子歌集』(川野里子編、書肆侃侃房、二〇二一)

1.外部

落つるものなくなりし空が急に広し日本中の空を意識する

『橙黄』「空」

戦後、葛原妙子(1907-1985)は外部にいた。まずは時代の問題として、葛原は敗戦という外部、短歌という外部、女性という外部に置かれていた。

日本の敗戦はこれまでの〝日本的なもの〟からの決別を作家に強い、彼らはまったくの〝荒地〟から言葉を紡ごうとした。彼らは〝日本的なもの〟である俳句と短歌に矢を放った(第二芸術論)。俳人・歌人はさまざまな反応を見せるが、そのやりとりは男性間にかぎられていた。

歴史から疎外された戦後の、文壇から疎外された短歌の、論争から疎外された女性、という外部。

「落つるものなくなりし空」とは空襲がやんだ空のことだろう。「日本中の空を意識する」広やかな空虚のなかで、葛原はどのような短歌をつくっていったのか。


奔馬(ほんば)ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり

『橙黄』「紋章」

葛原はさらに外部にいた。敗戦後の社会で光が当てられるのは戦傷病者や戦没者遺族など暗く苦しい人々の生活である。しかし、葛原の父は外科医であり、葛原は被災せず、極端な窮乏を味わうことなく戦後を迎え、肉親に戦死者を持たなかった。また、葛原は三歳で実母の元から離れることになった。

戦後という時代を生きながら、戦争の傷からは疎外され、また母性からも疎外された葛原の心性。

男性的な「奔馬(勢いの激しい馬)」を背景に、「われ」は「累々と子」を抱えている。「われ」は一男三女を産んだ葛原自身を指すとともに、「産めよ増やせよ」から一転して「産むな殖やすな」政策を掲げる戦後の政治の問題、女性が子を養育する社会の問題、そして出産を経験する女性という存在の普遍的な問いへとつながっている。


早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ
鮮黄のレモンを一つ皿に置きあさひとときの完き孤り(まったきひとり)

『橙黄』「けぶれる猫」「玻璃」

葛原は戦後・母性という問いをながく抱えていく。さまざまに疎外され、「完き孤り」と感じた葛原は、問いを個人の内部に向けて突き詰めていく道をたどった。ここに、個人的な表現が普遍的な問題へと通じる可能性が生まれる。


2.個我

(あか)き空より遮断機しづかに降りきたり自転車あまた押しとどめたり

『飛行』「火」

葛原は連帯を求めるのではなく、むしろ孤立を深めていった。歌壇では女流歌人に求められた特質をしりぞけ、家庭では〝いい母親〟をやめた。

「遮断機」が「自転車」をとどめる景色は写実的ともいえるが、歌が「朱き空」からはじまることで奇妙な重厚感がある。その奥には〈私〉のおびえた自意識があるのではないか。


築城はあなさびし もえ上る焔のかたちをえらびぬ

『原牛』「劫」

葛原の内省は定型の解体、新たな調べの模索へも向かっていた。特に第三句が脱落した歌がいくつかみられる。

「焔」は「ひ」と読みたい。城はいずれも燃えてしまうのだから、「築城」とは「もえ上る焔のかたちをえら」ぶ営みにすぎない。だから「あなさびし」と感じられる。人類の宿命が独特な韻律で表現されている。


魚座といふさびしき星座はいづこなる 人間よ一度はおとなひてみよ

『葡萄木立』「密雲よ」

また、葛原は長女のキリスト教入信に強く反対した。その一方で、葛原は文化としてのキリスト教を貪欲に摂取し、キリスト教を個人の問いを人類の問いに繋げるモチーフとして獲得する。

「魚座」はギリシア神話において、女神アフロディーテと子のエロスが怪物ティフォンから逃げる際に二匹の魚に変身した、という物語で語られる。かたわら、初期キリスト教においてイクトゥスは洗礼を表すシンボルであり、のちにイエス自身を表すシンボルとなった。

葛原の経歴に引きつけてこの歌を読むとき、「さびしき星座」にイエスの受難をみることはできないだろうか。イエスの受難に自身のさびしさを重ねたうえで、「人間よ一度はおとなひてみよ」と、そのさびしさを読者に届けようとしているのだとしたら。


耳はたれも胎児の形 海の風つよまる夜の硝子戸ありて
わがぬかに月差す 死にし弟よ 長き美しき脚を折りてねむれ

『原牛』「魔王」
『葡萄木立』「織子」

このように葛原が〝個我〟の問題を深めていくことは、奇しくも近代が前景化した〝自我〟の問題へと接続されることになる。しかし、〝自我〟の問いかたは近代短歌のメインストリームとは大きく異なっていた。

「耳はたれも胎児の形」とし、あらゆる人々に母という存在の刻印をみる。「死にし弟」が「脚を折りてねむ」るとすれば、これは屈葬であり、太古の人類に思いを馳せていることになる。

ここには〝身体〟への関心がある。身体は近代的自我が汲み尽くせなかった問いであった。前衛短歌のような国家や社会にぶつかる個人でも、近代短歌のような自然を感受する個人でもない。人間そのものの身体性から、そしてその感覚器官から、世界を主観的に再構成し、現実世界と異世界を縫合しようとする目線がここにはあった。


3.幻想

夏至のよる一羽のみみづくめざめゐて人ねむるうすき闇を支へゐし
ひえびえとかひこの毒を感ぜしむ絹の衣ながく(まと)へる我は

『朱霊』「影鳥」
同「朱」

川野里子編『葛原妙子歌集』に完本で収録されている『朱霊』は1970年刊行、この歌集により葛原は迢空賞を受賞する。迢空賞は歌壇で最も権威ある賞のひとつである。

「夏至」は一年のなかで最も昼の時間が長い。梅雨のさなか、夏至の夜の「うすき闇」を「みみづく」が「支へ」ている。寝苦しい夜の睡眠を見つめるミミズク、その奥に〈私〉の深い不安があるように感じられる。

毒を持つ蛾はいるが、カイコガは毒を持たない。「かひこの毒」とは蚕と人間の関わりを指すのだろう。蚕は家畜化され、もはや人間の世話なしには生きることができない。養蚕への罪意識が深く刻まれている。

二首に共通するのは、人間以外の生物を詠むことで、歌に深みを持った自我と幻想的な質感、そして豊かな時間性が付与されていることだろう。


他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水
死者を島に渡すことよき 死にし者なにものかにわたすことよき

『朱霊』「夕べの声」
同「地上・天空」ヴェネツィアにかつて苦患ありき

「他界」から見れば「ゆふぐれの水」たまりは「的」となるに違いないという。水たまりに映るあかい空に異界への通路を見ているのか。いや、〈私〉が異界の側にいるのかもしれない。

二首目は伝染病ペストを扱う連作の最後に置かれており、「死者」を「渡す」「島」とはイタリア・ヴェネツィアの共同墓地であるサンミケーレ島を指している。一方で、後半部の「死にし者なにものかにわたすことよき」は広い意味へと開かれている。

死者を孤立させず、「なにものか」に「わたす」こと。死に場所から葬場に、自宅から葬場に、家族の一員から自然の一部に、この世からあの世異界に渡すこと。こうしたいずれの意味においても、「死にし者なにものかにわたすこと」は「よき」ことなのだ。これほど広がりをもつ弔いのことばを筆者はほかに知らない。


4.連作

氷片のひらめきはみゆ弥撒ミサ重くれつつ続くひまひまにみゆ
受洗のみどりご白しあふ臥に抱かれて光る水を享けたり
疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ
さびしあな神は虚空の右よりにあらはるるとふふかき消ゆるとふ

『朱霊』「あらはるるとふ」

葛原は歌の配列に気を配っていたという。代表歌が含まれる連作から四首を読んでおきたい。

教会での賛歌ミサを、〈私〉は「氷」の輝きに目を奪われてきれぎれに聞くことしかできない。赤子がうつぶせに洗礼をうけている。そして代表歌のあと、「神は……とふ……とふ」という伝聞(……という、……という)の歌が置かれる。

〈私〉は神を信じておらず、教会の儀式に入り込むこともできない。サンタマリアは聖母マリアの尊称である。この代表歌を川野里子は次のように読む。

ここには聖母を求め続けた人々の声がその深い歴史のかなたから連なっている。「りぁ、りぁ、りぁ」は、これまでも、そしてこれからも続く魂の悲鳴として、悲苦のゆえに聖マリアを求めるほかない人の歴史の声として聞き取られているのではないか。葛原はそれを第三者としてではなく、女という当事者の立場から聞き取っている。人々の悲苦に求められ聖母にも慈母にもなるマリアは、求められ祭り上げられながらその内側で悲鳴をあげている。葛原は聖母を求める側と求められる側との深い亀裂を渡り歩きながら両方の悲鳴を聞き取るのである。ここには女を巡る歴史への直感が働いている。

『新装版 幻想の重量 葛原妙子の戦後短歌』p.269

非キリスト教者からみれば、聖母マリアをいくら求めても人類は救われない。それでも聖母マリアを求めつづける声に葛原は時代を超えた人類の深い悲しみをみながら、同時に求められ続ける聖マリアへの共感を示しているのである。「りぁ、りぁ、りぁ」と「きれぎれ」に響くことで、思いはどこまでも広がってやむことがない。


5.その後

外科医の祖かのエヂプトの神格者ミイラ作りにあらざるやそも
   仮面を着た術師は神格であり、脳髄は鼻腔から他の臓器は左腹部切創から抜いた。
エジプトの死王起きあがることありてあなまぼろしの飲食おんじきをせり

『をがたま』「すみれと靴」
同「悲しむ鳥」

『朱霊』以後の葛原の展開として、エジプトに目を向けたことはとても興味深い。ここで葛原は西欧とは異なるモチーフの獲得を目指したのかもしれない。

葛原の父は「外科医」だった。ここではその「祖」を「ミイラ作り」にまでさかのぼろうとしている。「エジプトの死王」が「起きあがる」のは〝手術〟のおかげだ、とでもいうのだろうか。


われらみな絶えたるのちにあなかすかかすかにゑまふたれびとかある
 ※ゑまふ……ほほえむ

『おがたま』補遺「白嶺」

異界を自在に感得することで、人類史の終焉後に「かすかにゑまふ」何者かがいると信じられたのであれば、それはよい生だったのではないかと思う。


このnoteでは触れられなかった近刊の関連書籍を紹介する。


このnoteは川野里子『新装版 幻想の重量 葛原妙子の戦後短歌』(書肆侃侃房、2021)に依拠しながら、川野里子編『葛原妙子歌集』(同)を紹介したものです。引用した歌は新字体に改め、引用者によるルビを()で示しました。


次回予告

「短歌五十音」では、中森温泉・初夏みどり・桜庭紀子・ぽっぷこーんじぇるの四名が週替りで、五十音順に一人の歌人、一冊の歌集を紹介していきます。

マガジンのリンクはこちらです。
フォローしていただけるとうれしいです!

お読みいただきありがとうございました。
本稿が、みなさまと歌人の出会いの場になれることを願っております。

次回は中森温泉さんが建礼門院右京大夫『建礼門院右京大夫集』を紹介します。

短歌五十音メンバー

ぽっぷこーんじぇる
note(https://note.com/popcorngel
X(https://twitter.com/popcorngel

中森温泉
note(https://twitter.com/midiumdog
X(https://note.com/midiumdog

初夏みどり
note(https://note.com/___shoka___
X(https://twitter.com/___shoka____

桜庭紀子
note(https://note.com/gigi_lumiere
X(https://twitter.com/NorikoSakuraba

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?