短歌五十音(ね)根本芳平『弥陀笑ふ』
根本芳平(ねもとよしひら)を知る人はどれだけいるだろうか。短歌辞典には名前がない。Xのつぶやきも見当たらない。著者略歴によると短歌誌「水甕」の編集委員というので、「水甕」の同人はご存知だろう。歌集は『譚』『弥陀笑ふ』の二冊がある。
彼の歌は『角川現代短歌集成』に20首載っているから、ここから知る人がいるかもしれない。掲出歌もその一首で、「たしかに」の確信、この踏み込みがいい。
ただ、概して『角川現代短歌集成』に載る歌よりも『譚』の書評で三井修の挙げる歌のほうが興味深い。違いは自選か他選かにあり、やはり他選のほうが客観的な評価が下せるのだろう。
たしかに夕刻の公園は子どもが攫われてしまいそうに思う。ただ、筆者はこの感覚がどこから来るのかよくわからない。
ある歌人が知られないこと、もうあまり読まれないこと。これは嘆くべきだろうか。中森温泉さんが触れてくださったように(短歌五十音(な))、短歌には「生活即文学」という考えかたがある。
個人の生活を詠んだ短歌を、これもまた個人の生活の範疇で読み交わすこと。知り合いの文芸とでもいうべきこの特性は重要で、短歌の世界から切り離すことはできない。
ただし、根本芳平の短歌は「生活の歌」にとどまらない。ぼんやりした〈私〉が見る鯨のお産は、(それが事実だとしても)どこか比喩的な余剰が感じられる。
〈私〉と鯨はいかに比喩的に結ばれているのか。ふらふらした酔いとぷかぷかした泳ぎ、浅い夢と巨大な鯨、夢を見ることと子どもと産むこと、考えるほど非現実的な歌に思えてくる。
流れ星を数えているのは女だから、これは〈私〉がいない珍しい歌だ。「雪催」はいまにも雪の降りそうな空模様のこと。身を切るような寒さのなか、ザクザク降る星を祝言のように感じつつ、女はひとえに男を待っている。
そういえば、このを想起するのは筆者だけだろうか。
ほかに、非現実的な歌としては「鷗来て鳩来て埠頭に海月来て山下公園ミレニアムとぞ」「旅にゐる孤りに鶴の群れ降りてしきりに羽搏つ脚ふみながら」などがある。特に後者、「旅にゐる孤り」が〈私〉か一羽の鶴かは分からないものの、世界の幻想的な一景を切り取っていて胸に響く。
生活の歌に戻ろう。この歌は瑕のない秀歌ではないだろうか。〈私〉は友と隔たっており、訃報を留守録で知ることになってしまった。〈私〉は何度も留守録を聞きかえす、情けないような中腰で……。ここに劇的な演出は必要ない。
私たちは生きてしまうし私は私の固有性をもって死んでしまう。私たちはほとぼりが冷めたあたりで生き返ることはできない。いま知らないことは大抵いつまでも知らないし、いまの悩みはずっと引き継がれる。この絶望的で退屈で単純な事実だけがすべてをおおっている。谷川俊太郎はいう。
生活即短歌と相反するこの見解こそ私たちになじみ深いものだろう。Ⅹの短歌の困難は、投稿した歌が万人に読まれうる(ように思ってしまう)ことにある。投稿者は潜在的な読み手である大衆を内面化し、リアクションを受けた歌は「高評価」され、リアクションのない歌は「低評価」されたように感じてしまう。この即時的・全面的な判定の場で、私たちはいかに「人々とむすばれ、世界とむすばれる」ことができるだろうか。
たしかにⅩで拡散される短歌は「世界のもの人々のもの」になっている。しかし、そこになじめない人々にも――たとえば個人的な生活を詠まずにはいられない人々にも――短歌は門戸を開いてきた。そしてまた、生活を詠むとはこの絶望的で退屈で単純な現実を直視することなのだ。その強靭な営みを無視してはいけない。
私たちが度々参照する歌のおよそすべてが個性的なこと。短歌は〈私たち〉のものである前に〈私〉のものではなかっただろうか(いや、「私」がそう考えたいだけなのか?)。
(おそらく)大切なのは生活を、感情を、幻想を、〈私〉の配分でまぜあわせることだ。そして、根本芳平の短歌はそれを少なからず成し遂げているのだった。
次回予告
「短歌五十音」では、初夏みどり、桜庭紀子、ぽっぷこーんじぇる、中森温泉の4人のメンバーが週替りで、五十音順に一人の歌人、一冊の歌集を紹介しています。
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