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短歌五十音(ね)根本芳平『弥陀笑ふ』

秋あかね円形に群れ漂へりたしかに声をかけ合つてゐる

根本芳平(ねもとよしひら)を知る人はどれだけいるだろうか。短歌辞典には名前がない。Xのつぶやきも見当たらない。著者略歴によると短歌誌「水甕」の編集委員というので、「水甕」の同人はご存知だろう。歌集は『譚』『弥陀笑ふ』の二冊がある。

彼の歌は『角川現代短歌集成』に20首載っているから、ここから知る人がいるかもしれない。掲出歌もその一首で、「たしかに」の確信、この踏み込みがいい。

早春の野をきたる水大き河に抱かれむとしてき声をたつ
小公園の鞦韆ふららこにゐし童らのふと消えたりなゆふべが攫ふ

『譚』

ただ、概して『角川現代短歌集成』に載る歌よりも『譚』の書評で三井修の挙げる歌のほうが興味深い。違いは自選か他選かにあり、やはり他選のほうが客観的な評価が下せるのだろう。

たしかに夕刻の公園は子どもがさらわれてしまいそうに思う。ただ、筆者はこの感覚がどこから来るのかよくわからない。

弥陀の顔の線に描ける秋の夜のどうにも笑つてしまへり弥陀が

ある歌人が知られないこと、もうあまり読まれないこと。これは嘆くべきだろうか。中森温泉さんが触れてくださったように(短歌五十音(な))、短歌には「生活即文学」という考えかたがある。

個人の生活を詠んだ短歌を、これもまた個人の生活の範疇で読み交わすこと。知り合いの文芸とでもいうべきこの特性は重要で、短歌の世界から切り離すことはできない。

あさき夢見しひの目に北洋の鯨のお産をテレビは映す

ただし、根本芳平の短歌は「生活の歌」にとどまらない。ぼんやりした〈私〉が見る鯨のお産は、(それが事実だとしても)どこか比喩的な余剰が感じられる。

〈私〉と鯨はいかに比喩的に結ばれているなぞらえられているのか。ふらふらした酔いとぷかぷかした泳ぎ、浅い夢と巨大な鯨、夢を見ることと子どもと産むこと、考えるほど非現実的な歌に思えてくる。

女来て男待つ間を流れ星いくつと数ふ雪催ふ夜を

流れ星を数えているのは女だから、これは〈私〉がいない珍しい歌だ。「雪催」はいまにも雪の降りそうな空模様のこと。身を切るような寒さのなか、ザクザク降る星を祝言のように感じつつ、女はひとえに男を待っている。

そういえば、このを想起するのは筆者だけだろうか。

ほかに、非現実的な歌としては「鷗来て鳩来て埠頭に海月くらげ来て山下公園ミレニアムとぞ」「旅にゐる孤りに鶴の群れ降りてしきりに羽搏つ脚ふみながら」などがある。特に後者、「旅にゐる孤り」が〈私〉か一羽の鶴かは分からないものの、世界の幻想的な一景を切り取っていて胸に響く。

留守録の再生ボタンまた押して中腰のまま友の訃を聞く

生活の歌に戻ろう。この歌は瑕のない秀歌ではないだろうか。〈私〉は友と隔たっており、訃報を留守録で知ることになってしまった。〈私〉は何度も留守録を聞きかえす、情けないような中腰で……。ここに劇的な演出は必要ない。

八十年生きてなほ未知領域ののこれりたとえば異性への愛
今をまた如何に死すべきか悩みをり六十年前の日に言ひしご

私たちは生きてしまうし私は私の固有性をもって死んでしまう。私たちはほとぼりが冷めたあたりで生き返ることはできない。いま知らないことは大抵いつまでも知らないし、いまの悩みはずっと引き継がれる。この絶望的で退屈で単純な事実だけがすべてをおおっている。谷川俊太郎はいう。

世界はきりがない。こうして私たちは生きていて、いつまでも生き続けなければならない。この退屈で単純な事実だけがすべてをおおっている。詩もそのための役目を負っているのだ。詩は私のものではない。詩は世界のもの人々のものだ。詩人は詩を書くことで、人々とむすばれ、世界とむすばれるという難しい道をゆかねばならない。(…)詩人は自らを生かすことによって、人々を生かし、同時に人々を生かすことによって、自らを生かすのである。

「世界へ!」

生活即短歌と相反するこの見解こそ私たちになじみ深いものだろう。Ⅹの短歌の困難は、投稿した歌が万人に読まれうる(ように思ってしまう)ことにある。投稿者は潜在的な読み手である大衆を内面化し、リアクションを受けた歌は「高評価」され、リアクションのない歌は「低評価」されたように感じてしまう。この即時的・全面的な判定の場で、私たちはいかに「人々とむすばれ、世界とむすばれる」ことができるだろうか。

たしかにⅩで拡散される短歌は「世界のもの人々のもの」になっている。しかし、そこになじめない人々にも――たとえば個人的な生活を詠まずにはいられない人々にも――短歌は門戸を開いてきた。そしてまた、生活を詠むとはこの絶望的で退屈で単純な現実を直視することなのだ。その強靭な営みを無視してはいけない。

私たちが度々参照する歌のおよそすべてが個性的なこと。短歌は〈私たち〉のものである前に〈私〉のものではなかっただろうか(いや、「私」がそう考えたいだけなのか?)。

(おそらく)大切なのは生活を、感情を、幻想を、〈私〉の配分でまぜあわせることだ。そして、根本芳平の短歌はそれを少なからず成し遂げているのだった。

次回予告

「短歌五十音」では、初夏みどり、桜庭紀子、ぽっぷこーんじぇる、中森温泉の4人のメンバーが週替りで、五十音順に一人の歌人、一冊の歌集を紹介しています。

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お読みいただきありがとうございました。
本稿が、みなさまと歌人の出会いの場になれば嬉しいです。

次回は中森温泉さんが野口あや子『くびすじの欠片』を紹介します。

短歌五十音メンバー

初夏みどり
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桜庭紀子
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ぽっぷこーんじぇる
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中森温泉
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