「宮崎信義は一九一二年、明治四十五年二月二十四日に、滋賀県の母の里で生まれた。(…)彦根中学時代に前田夕暮の主宰する「詩歌」に入会したのが昭和六年。それから一筋にぶれることなく、九十六歳と十ヶ月で亡くなるまで、口語の短歌を詠み続けた。」(光村恵子「宮崎信義生誕百年を記念して」)
山と水と
1932年に満州国を建国した日本はさらなる権益を求めて華北5省に手を伸ばした。37年、盧溝橋事件によって日中戦争がはじまると、中国では国民党と共産党が手を結んで激しく抵抗した。
戦争が激化すると、日本は国民政府からの華北5省の分離ではなく国民政府そのものの打倒を目指すようになる。日本は上海をはじめとした都市部を空爆し、首都南京を占領して軍民を虐殺した。
日本は広東と武漢を占領したものの軍事動員力が限界に達し、戦争は持久戦となった。国民政府は重慶に首都を遷して抗戦し、共産党は日本軍の占領地周辺でゲリラ戦を展開した。
日本は国民党親日派の汪兆銘を擁立して南京に国民政府を樹立したが、中国国民には傀儡政権とみなされ、国際的な承認も得られなかった。戦況が泥沼化するなか、日本は仏印進駐を行い太平洋戦争に突入した。
1944年、日本は大陸打通作戦(一号作戦)を計画した。中国西南部にある日本本土空襲のためのアメリカ空軍基地の破壊を主目的としつつ、華北から南洋までを縦断する陸上輸送路の確保を目標とするものである。
一号作戦はおおむね達成されたが、太平洋戦争の戦局の悪化によって撤退を余儀なくされ、中国戦線は縮小した。しかし支那派遣軍は重慶の侵略を諦めきれず、1945年4月湖南省の芷江に侵攻した。これを芷江作戦という。
「この歌集の「山と水と」〔に収められた歌〕の多くはこの〔芷江〕作戦中のもので、山中で中国軍に包囲される形となり激しい山岳戦が続いた。」(あとがき)
草粥
「終戦は宝慶でむかえ、長沙附近で武装解除を受けた。そして、岳州附近の洞庭湖に近い部落で、翌二十一年の春まで、窮乏の俘虜生活を送つた。それが「草粥」の時期である。」(あとがき)
帰還
「五月上旬には漢口へ集結、上海から鹿児島へ上陸をして復員し、六月二十一日、転居したわが家をたずねて帰宅した。……第三の「帰還」は復員してこれまでの職場である大阪鉄道局へ再び出勤しはじめるまでの、いわば精神的な空白時からようやくもとの一社会人に立ち帰るまでのものである。」(あとがき)
「現代の歌人は、現在われわれが使つている用語で、その作品の内容となる現実を表現するのに最も適わしいそれぞれの形で、短歌を創るべきである、というのが私の年来の主張であり、このことを措いて短歌を生かしていく方法は見当らないというのが私の考えである」(あとがき)
参考文献
宮崎信義『夏雲』(新短歌社、1955)
光村恵子「宮崎信義生誕百年を記念して」(未来山脈)
大庭邦彦ほか『Jr. 日本の歴史⑥ 大日本帝国の時代』(小学館、2011)
藤井元博「失われた機会:中国国民政府の反攻作戦 1945」(NIDS防衛研究所、ブリーフィング・メモ、2021年5月)
NHK 戦争を伝えるミュージアム「日中戦争とは?」
『国史大辞典』(吉川弘文館、1979-1997)
『新版 角川日本史辞典』(KADOKAWA、1996)
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