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遊民的中国レポート【2】金と就職についての対策


29,800円のパッケージ旅行からの帰り道に 「一定期間この国に住んでみたい」と考えた私は、帰国後から早速、二つの問題の解決に向けて情報を探り始めた。

一つは就職の問題、もう一つはお金の問題である。

※今回のnoteは中国レポートといいつつほとんど日本国内の内容になってしまった。

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当時、我が家の経済状態は芳しくなかった。


実は私が大学を受験する前に、父親が高い飲み屋でツケていたツケがトータルで4桁万円にも登ること、またそれらを支払うために利率の高いところで借入を行なっていたこと、加えて、家庭内の金が密かに使われていたことが発覚した。
※用途は不明。女か…?

私の学資や、母親の蓄えは、一挙にそれらの返済に充てられることになった。

母親は父親の沽券を守るために私達に一切そのことを告げてこなかったのだが、子供が二人産まれて以降、父親が生活費を出すことはなく、母親の独身時代の貯蓄と彼女自身の稼ぎ、祖父母からの援助で成り立っていたようである。

我が家はある産業に携わっており、祖父の時代、つまりバブルの頃には良い生活をしていたそうだが、その後のバブルの崩壊や父親自身の怠惰により、蓄えた資産や取引先などは徐々に失われていったと見える。

取引先からの呼び出しに、母親が何度も車を走らせていたのは覚えている。

これも後から知ったのだが、母は父がとってきた契約の取引先からクレームが入るたびに、一人で出向き、頭を下げ、父親の代わりに「罰金」を払っていたのだ。

父親は安請け合いで赤字の仕事ばかり取ってくるうえ、納期を守ることもなく、たびたび「罰金」を発生させていた。
「働けば働くほどお金がなくなる」状態だったのではないかと思う。

おまけに、若い頃から酒を飲み歩き、違法賭博等で数百万負ける、などという荒唐無稽な行動を取り続けてきたようだ。
見合いで結婚した母親との生活の中で、一時生活は安定したものの、しばらくすると再び身を持ち崩し始めたのだろう。

積りに積もった負債は、先代の資産を食い潰す勢いであった。
それらが明るみになったのは、私が大学受験準備にかかろうとする頃であった。

内情を知らされないままうっかり私立の女子高校に進学してしまっていた私は、家の内情を知って以降、学校生活を素直に楽しめなくなった。
夏頃に指定校推薦やAOで私立大学に合格を決めていく同級生がとても楽しそうに見えた。

一時は大学進学そのものを迷った。
家族はもともと、私にそれほど関心がなかったから、大学に進学しようがしまいが、同じだろう、と思った。
家庭内の金銭問題が明るみになる前は、「どうせ嫁にやる子だから」とか、学生時代に将来見込みがある男を捕まえて結婚すればいい、とよく言われていた。

要するに、私自身には何も期待されていなかったのだ。
学校をやめて働いたら少しは自分を認めてくれるのではないか…?
そんなことも頭をよぎった。

結局は、家から通える浪人せずに行ける範囲の大学で、一番学費の安いところを家族に黙って受験した。受験費用は、多分お年玉でも使ったのだろう。入学金も安かった。
あの時落ちていたらいよいよ発狂していた可能性が高く、受かって良かったと思う。

その後、4年で卒業して大人しく働くつもりだったが、私も私で、ひょんなことから更に進学することになった。

ありがたいことに大学院の授業料はほとんどかからなかったし、諸経費もバイト代と奨学金で賄えていたため、自身にそれほど心配はなかったが、早く良いところに就職して家族を養わなければならないという点で、少し負い目を感じていた。
期待もされてないのに、我ながら滑稽だと思う。

留学などしようもんなら、また一年、二年、就職が遅れることになる。

「生涯賃金にするとどの程度減るのか」

それを考えては電卓をたたいた。
仮に家族抜きにしたって、金のことで気を揉む生活は二度とゴメンだった。


他方で、その頃には母親が仕事を掛け持ちし始め、父親も実質休業状態となったため遊び歩かなくなり、大人しく母親に扶養され始めるという動きもあった。
祖父母の資産も、幾ばくかは残っているようであるし、祖母に至っては存命で、年金も入ってくる。

一時はどうなるかと思われた我が家の状況も、母親の頑張りと祖母の年金で持ち直しの兆しが見えてきたタイミングであった。


様々な「試算」ののち、わたしは勝手ながら、就職時期を遅らせることにした。
残念ながらこういうところは父親に似ているのかもしれない。


とはいえ、留学するには次項のもう一つの「問題」を解決せねばならず、それを解決しなければ渡航できない可能性も高いわけだから、就職活動も並行して行った。

民間企業を受けるのに加えて、いざとなったときには教師として雇ってくれないかと母校に顔を売りにいったりもした。

「何かあれば本校で雇うので、連絡してくるように」と言ってくれた、学年主任の先生(のち教頭)にはその後も連絡をもらったりして、感謝している。

就職説明会では自作の名刺を配り歩いた。
今思うと、企業の人も、よくあんなもん受け取ってくれたな、と思う。
ワードの「ラベル」機能を用いて、コピー用紙に名刺サイズのラベルを作り、それを12等分に切ったペラペラのものだった。


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一般的に、留学の方法はいくつかある。

さて、もう一つの問題の方の解決に向けては、色々な留学方法を検討した。

①交換留学

メリットは、学費は自大学の学費分で済み、単位も認められるところである。
もしも授業料が高額な国(アメリカなど)であれば圧倒的にお得感がある。

逆に言えば、日本よりも授業料が安い国に行くメリットは、私からするとあまりなかった。


②自費での留学

正直、当時の中国であれば、これもできなくはなかった。
どの区分で留学するか(語学留学なのか、修士なのか、学部生なのか)にもよるが、私が検討していた大学の1年間のコースでは、日本円で約20万〜30万円ほどだったように思う。
学生寮は場所にもよるが40〜60元/1日(当時日本円で1,000円くらい)で、1ヶ月で3万円程度、日本円で高く見積もっても1年で30〜40万くらいだったように記憶している。
渡航費や手続き費用諸々含めても、80〜100万あれば行けるし、最悪半期でもいいな、と思った。
当時の私の収入が奨学金も含めると1ヶ月16万程度(※)であったため、バイトを更に増やし節制すれば、翌年には自費でも行けなくはないかもしれない、と考えた。とはいえ、カツカツの気もするので、できれば避けたかったのが本音である。

※当時の私の収入
日本学生支援機構の第一種奨学金 88,000円
時給1300円×7時間を毎月8日 72,000円
その他登録派遣のバイト、大学院での講師の補助等で10,000円前後


③公費留学等給付型の留学制度

理想は給付型の奨学金等を得て、なるべく安くでの留学であろう。
まず思い当たるのは公費留学と、各種財団、孔子学院の給付型留学制度であった。
その中でも、勝手の分かりやすい公費での留学を検討することとした。

公費には、日本政府および公的機関が日本人向けに出すものと、現地政府等が外国人向けに出すものとの二種類がある。

・日本学生支援機構の給付タイプの奨学金
・行き先となる各国の政府奨学金

一般的に英語圏は人気が高いので政府等が出す奨学金を取るのもそれなりに難易度が高そうであるが、中国政府の奨学金は種類も対象人数もそれなりに多いうえ、当時のような政治情勢であると留学先としての人気は落ちる可能性があり、倍率が下がるのではないかと踏んだのだ。

続いて、中国政府奨学金の申請窓口を決める必要があった。

政府奨学金の窓口も、友好協会と日本学生支援機構の二種類があるのだ。
日本学生支援機構は国内奨学金の取り扱いだけでなく、中国政府奨学金の窓口もやっているのであった。
この二つの窓口の併願は不可だったため、各機関に問い合わせを入れ、必要書類や応募条件などの情報収集を行い、申請窓口を決めた。

皮肉なことに、授業料免除手続きや勤労学生控除、賞金をもらうために論文を応募していたりすることに慣れていた私にとっては、以降の手続きはそれほど労することなくできた。

書類選考は無事に通過し、東京で面接試験を受けることになった。

面接試験は何をどう対策していいか分からなかったが、すでに奨学金を獲得した個人がブログを残したりしているので、それを元に想定質問を考え、中国人の友人に中国語に翻訳してもらい、それを丸暗記したりして挑んだ。

そう、この段階で私は全く中国語を話せず、話せないから丸暗記、という雑な処理をしたのであった。

なお、面接試験は見事、読みが当たった。
想定されていたような質問ばかりで、練習が活きた。
情熱的に答えた記憶があるが、残念ながら何を聞かれたか、今となっては全く記憶がない。
時勢柄日中関係についてのことや、学習意欲を試すことを聞かれたのではないかと思う。

帰り道、面接会場で雑談を交わした女子学生と軽口を叩いた。
彼女も関西からの参加だった。

「私たち、多分受かるでしょうね」

実際、受かった。

一年間の授業料免除、寮費の免除、小遣い程度の生活費の給付を約束された状態で、留学できることになった。


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