「結論ファーストを心がけましょう」

森絵都さんの『ダイブ』に印象的なシーンがある。
『ダイブ』は3人の少年が飛び込み競技でオリンピックの代表を目指す小説だ。その中の1人は、競技としての飛び込みは未経験だが、幼少期から崖から海に飛び込んでいた野生児で、ダイナミックな演技が持ち味だった。もちろん、入水もダイナミック。"競技としての飛び込み"は入水時に水しぶきが上がると減点されてしまうので、彼の飛び込みは見栄えはいいもののイマイチ得点が伸びない。そんな採点システムに対して、彼は「審査員の見る目が無いから、水しぶきみたいなわかりやすいものを採点するようになったんだ」と言う。

妙に印象に残っていたこのシーンを先日久しぶりに思い出した。
某コンサルのインターンの3日目、私が班を代表して1分程度で進捗を報告したあと、班員に「発表お疲れ様。結論ファーストに話していたらもっと良かったね」と言われた時のことである。


「結論ファーストを心がけた」

就活では様々な場面で結論ファーストであることが求められる。ESも結論ファースト、面接の受け応えも結論ファースト。選考体験記では、受かった人も落ちた人も皆一様に「結論ファーストを心がけた」と自身のESや面接を振り返っている。

とは言っても、別にこれは就活に限った話ではないのだろう。試しに「結論ファースト」で検索してみると、サジェストされるのはビジネススキルとして結論ファーストを紹介するサイトばかりだ。

https://www.mana-biz.net/2018/07/post-312.php

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恐るべし、結論ファースト。経営コンサルタントの方が言うのだから、きっと大事なことなのだろう…((((;゚Д゚))))

崇拝したくなる気持ちをグッとこらえて、今回はこの「結論ファースト」なる魔法の言葉を少し掘り下げてみようと思う。


「結論から言うとあなたは死にます」

なぜなら、あなたは人間であり、全ての人間は死ぬからです。

見事な三段論法であなたが死ぬことが示されてしまった…
だが、ちょっと待って欲しい。論理学の大家アリストテレス先生は、三段論法をこのような順番で紹介しなかった(とされている)。よく知られるように、先生の三段論法は大前提→小前提→結論の順番で展開する

全ての人間は死ぬ(大前提)
あなたは人間だ(小前提)
あなたは死ぬ(結論)

B→C、A→B、A→Cという論理展開だ。決して結論ファーストではない。論理学の大家アリストテレス先生がこの程度のルールも知らなかったとでも言うのか…!?

なんて茶番はさておくとして、お気づきの通り「論理性」と「論理を構成する要素の順番」は何も関係ない。論理のパーツに抜け漏れが無いことが重要なのであって、順番は問題ではない。少なくとも、人間本来の自然な性質として結論ファーストが望ましい訳ではなさそうだということが、古代ギリシアの論理学の大家を訪ねることで明らかになった。
(個人的にはなんとなくA→B、B→C、A→Cの順番がすっと入ってきやすい気もするが、あくまで個人的な感覚に過ぎない)

では、なぜ我々は「結論ファースト」というものに取り憑かれてしまったのだろうか?


「英語圏に憧れているからでは?」

答えはイエスだ。

…みたいなセリフに対する憧れが、結論ファーストを礼賛する文化の背景にあるという説はどうだろう。
もう少し控えめに、丁寧に言うと「結論ファースト信仰は英語の影響を受けて誕生した」説だ。何をふざけているんだと思う方もいるかもしれないが、考えてみると意外とありそうな仮説なのだ。

一つ目の根拠として、「英語は論理的である」という認識が跋扈していることを挙げたい。皆さんも、一度は「日本語は非論理的な言語で、英語は論理的な言語だ」という言説を耳にしたことがあるのではないか。もちろん、反動として「日本語でも一意に読める文を書ける」とか「英語も曖昧な表現が多い」と指摘されることもある。しかし、少なくとも日本において「英語が論理的な言語だと認識されている」ことに異論はないのではなかろうか。真実かどうかはさておき、そう認識されているという事実はある

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1474770669?__ysp=5pel5pys6Kqe6Z2e6KuW55CG55qE

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次に挙げる根拠は、「英語は結論ファーストだ」という認識があることだ。
日本語では結論にあたる「熟語」が文末に来ることが多いのに対して英語では結論にあたる「動詞」が文の序盤に来るとか、英語には後置修飾があるとか、英語は主節-従属節の順番が一般的だとか、文章でも各パラグラフの一文目にそのパラグラフのアイデアをまとめるだとか、最初のパラグラフが文章全体の結論になっているだとか…それはもう色々な観点から言われる。入試英語を一通りやった方なら、「英語は最初に結論を述べるというルールがあるから、英文要約は最初のパラグラフをよく読むといいよ〜」というような安いアドバイスにも聞き覚えがあるのではないだろうか。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10102113640?__ysp=6Iux5paH6KaB57SEIOe1kOirluOBr%2BacgOWInQ%3D%3D

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この2つの根拠から、以下の推論が可能だ。

【根拠1】英語は論理的である
【根拠2】英語は結論ファーストである
【仮説】結論ファーストならば論理的である

もちろんこの推論は三段論法(演繹)ではない。A∧BからA→Bを導いているので、帰納法の一種だと言えそうだ。帰納法は正確な推論ではないものの、事実をもとに仮説を構築する時には重宝される。
ちゃんちゃらおかしな話に聞こえた「結論ファーストは英語の影響を受けて誕生した」説も、意外と整合性があることがわかって頂けただろうか。

次は、もうちょっと現実味のありそうな説を考えてみる。


「東大生よ、新聞を読もう」

というヘッドラインを読んで何の話かわかった方は、この章を読み飛ばしてもらって構わない。

そうでない方向けに説明すると、「東大生よ、新聞を読もう」とは、東京大学の学長が入学式の式辞で「ヘッドラインだけでなく、記事の本文もきちんと読む習慣をつけるべき」と述べたことを報じた新聞記事のヘッドラインである。
もちろん記事の本文では趣旨を損なわない形で式辞が引用されていた。にも関わらず、ヘッドラインしか読まない人達の「『新聞を読もう』なんて、小学生じゃないんだから笑」という反応が続出したことが話題となったのだ。2016年のことである。

https://togetter.com/li/962136

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つまり何が言いたいのかというと、多くの人は一行目しか読まない。

別にこれは珍しいことではない。私自身、abstractしか読んでいないのに読んだことにしている論文はあるし、実用書の類は目次だけ立ち読みして買わずに済ますことも多い。
同様に、忙しいビジネスマンはESや企画書をなるべく短時間で判断しようとするし、進行中のプロジェクトに頭の半分が占められている面接官は就活生の長ったらしい自己PRを全て聞く余裕はない。だって疲れちゃうもん。

もし読者が一行目で読むのをやめてしまうとしたら、もし聞き手が一文目で聞くのをやめてしまうとしたら…
結論を最初に述べることには大きな意味があるのではないだろうか。

この説は、就活やビジネスで結論ファーストが要求される一方で、大学入試の論述問題ではそのような構成が要求されないことと整合する。

要するに、相手が読む(聞く)のをやめる権利を持っているかどうか、最後まで読み続ける(聞き続ける)能力を持っているかどうかを考えて、構成を考えなければならないということだ。ただし、そのような相手の状況を考えたとしても結論ファーストが唯一の手段であるとは限らないし、最適な手段であるとも限らないのだけれど。
端的に言えば、「読み手のことを考えましょうね」ということになる。なんのことはない、当たり前の文章作法だ。

当たり前のことを述べるのに随分と字数を割いてしまったが、そろそろ実用的な話を始めたいと思う。この記事のクライマックス、結論ファーストがクソだという話だ。


「結論ファーストはこんなに便利!」

といって「結論ファーストが役に立つシーン」をたくさん挙げることで反論を企てている人に注意を促すのが、この章の目的だ。つまり確証バイアスの話である。

表面にアルファベット、裏面に数字が書いてある黒いカードを考えよう。

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この時、「母音の裏には偶数が書かれている」という仮説を確かめるにはどのカードを裏返せばいいだろうか?
「A」を裏返すと、「2」が書かれていた。OK、順調だ。次に「4」を裏返すと、「E」が書かれていた。よし、どうやら「母音の裏には偶数が書かれている」という仮説は正しいらしい…

とはならない。裏返すべきは「4」ではなく「5」だ。もし裏に母音が書かれていたら、反例になってしまうのだから。

ある仮説が正しいかどうかを判断する際に、仮説に整合する事実をいくら集めても意味がない。探さなければならないのは反例だ。反例を探して、それでもなお見つからなかったときに初めて、その仮説が正しそうだと言えるのである。

この記事の読者の中に「4」を裏返してしまった人がどれくらいいるのかはわからないが、残念ながら人間には「5」ではなく「4」を裏返してしまう傾向がある。自分の意見と整合する証拠を集めて確証を深めていく…確証バイアスという心理的傾向だ。

この傾向は、結論ファーストを思考法に応用した時に怖い。結論ファーストが結論ありきになりかねないからだ。

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また、新規の案件などで情報収集する際は、先に「仮の結論」をつくってから作業を始めれば、やみくもに資料を集める必要がなく、時間と手間を減らすことができます。

もちろん仮の結論を持つこと自体は必要だろう。その際に、「結論と対立する根拠」とどう向き合うかが重要である。なかったことにしてしまうとか、そもそも「結論をサポートする根拠」しか視界に入らないなんてことになってしまうと、結論ありきであるという謗りを免れ得ないだろう。

とは言っても、思考法に応用するなんていう例外的な事例を挙げて批判されても、結論ファーストそのものへの批判としては的外れなんじゃないか?と思う人も多いだろう。やはり、書いたり話したりするときの「結論ファーストだともっと良くなる」というアドバイスが有害なのか否かが問題だ。文章構成の観点から、結論ファースト信仰は望ましいものなのだろうか?


「結論ファースト結論ファーストって、まるでバカの一つ覚えみたいだな」

そういうのに頼ってるからダメなんだよね、この国は。╮( •́ω•̀ )╭

と言って大胆にマウントを取ると、なんとなく賢そうに見えないだろうか。「政府」とか「日本」とか「みんなが信じてること」のような、大きくて曖昧なもの批判すると賢く見えると信じている人は間違いなく存在する。ここで賢く見せたいバイアスが発生する。この賢く見せたいバイアスが働くと、人は必要以上に批判的になってしまうのではないだろうか。(まさに私が今結論ファーストを批判しているように…?)

実際に「批判的である方が賢く見える」ことを実証的に示した心理学実験があるというから驚きだ。

https://creativeideanote.com/psy24/

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文章やスピーチを評価するときにこのバイアスが働くと、不要な修正を迫られることになりかねない。教師やメンターといった批評者は、どこを直せばいいかよくわからないときでも、自分を賢く見せるためにどこかを批判しようとする。修正点を見つけられずに褒めちぎると知性が低く見えてしまうのだから、内容の質に関わらず批判をひねり出さざるを得ないのだ。自分を賢く見せようとする人々のこのような性質によって、どれだけの数の作品が無意味な批判に晒されていることか…

注意しなければならないのは、「結論ファーストにした方がいいよ」という批評が、このようなバイアスから生まれている可能性だ。もちろん、読み手の状況を考慮した時に結論を先に述べることが有効であるシーンは確かにある。問題は、必ずしも結論ファーストが望ましくないシーンや、結論ファーストにする必要がないシーンであっても、賢く見せたいバイアスが働いて「結論ファーストにした方がいいんじゃない?」という批評が加えられる傾向があるというこだ。他に何も言うことがないから結論ファーストが要求されるということは起こり得る。

このバイアスを回避する方法は単純だ。結論ファーストはそれ自体を良いものとして取り入れるのではなく、結論ファーストであるべき個別の理由がある時のみ取り入れれば良い。結論ファーストは、結果であっても基準ではない


結論

大事なのは読者の存在を意識することだ。結果として結論ファーストにすべきシーンも当然あるだろうが、それが唯一の方法ではないし、最適な方法であるとも限らない。
ところが少なくとも今の世の中を見渡す限り、結論ファーストを無条件に称賛する文化がある(それが英語の影響であるかどうかは定かではないが)。
結論ファーストは必ずしも有害とは言えないが、2つのバイアスに注意が必要だ。思考法に応用すると確証バイアスによって「結論ありき」になってしまう可能性があるし、あなたに結論ファーストを要求する人々は賢く見せたいバイアスによって意味もなく批判している可能性がある。
繰り返しになるが、大事なのは読者の存在を意識することだ。思考停止で結論を最初に持ってくるのではなく、状況に応じて最適な構成は何かを考えることが良い文章を書く秘訣だと、私は信じている。

…という風にまとめてみたが、どうだろうか。やっぱりその結論を最初に書いてくれた方が読みやすかったとか、この記事の中でも結論ファーストになっている章が比較的読みやすかったとか、そういう感想もあるかもしれない。

それでも尚、私は言いたい。
この文章が、結論ファーストとは何か、読みやすい文章とは何かということを考えるきっかけに少しでもなることができたなら、それに勝る喜びは無いのだと。
…と、カッコつけて述べたところで論を結びたいと思う。

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