イブの時間

"Are you enjoying the time of EVE?"

映画『イブの時間』を楽しませて頂いたので、レビューを書いてみたいと思う。

https://www.amazon.co.jp/イヴの時間-劇場版-福山潤/dp/B00GVIAZHS

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ネタバレなしレビュー

未来、たぶん日本―――。ロボットが実用されて久しく、アンドロイド(人間型ロボット)が実用化されて間もない時代。ロボット倫理委員会の影響で、人々はアンドロイドを“家電”として扱う事が社会常識となっていた時代。頭上にあるリング以外は人間と全く変わらない外見により、必要以上にアンドロイドに入れ込む若者が現れた。高校生のリクオも幼少の頃からの教育によってアンドロイドを人間視することなく、便利な道具として利用していた。ある時、リクオは自家用アンドロイドのサミィの行動記録に「** Are you enjoying the time of EVE? **」という不審な文字列が含まれている事に気付く。行動記録を頼りに親友のマサキとともにたどり着いた先は、「当店内では、人間とロボットの区別をしません」というルールを掲げる喫茶店「イヴの時間」だった。

女の子の顔ドアップのジャケ写(?)を見て、「ゆるふわラブロマンスかな?」と思ってしまうが、全然そんなことはない。

人間とロボットの区別をしない「イブの時間」での心温まるひと時は、かえって店の外でアンドロイドに対して公然と行われる「差別」を際立たせる。街中に広告を出す「倫理委員会」はオーウェルの『1984年』を彷彿とさせるし、「私に何か?ブレードランナー」というセリフや、アイザック・アシモフの「ロボット三原則」など、SFファンをワクワクさせる小ネタは盛りだくさんだ。演出や音楽も、そういうタイプの人達が好きそうな感じに仕上がっている。

SF好きはもちろん、コントラバーシャルなテーマを扱った映画を見ては「考えさせられる!」としきりに言いたがる方々も楽しめる良作だ。

ロボット三原則

第一条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条
ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条
ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。


ここからネタバレあり

「ロボットって人間と同じように大切にされるべきなの?」

というのがこの作品に通底するテーマである。

ロボットに愛着を感じる「ドリ系(Android Holic)」と、ロボットへの愛着を否定するプロパガンダを実施する「倫理委員会」。自分がドリ系になりつつあることを自覚し葛藤するリクオと、ドリ系であった過去を否定して常識人ヅラするマサキ。

「愛着を感じること」と「権利を認めること」は異なるが、本作ではその点はあまり意識されない。ロボットと人間を区別する/しないの単純な二項対立がベースにあって、その二項対立に対するポジションの取り方でキャラの個性が描かれる。リクオとマサキの家庭環境の違いが二人の態度に反映する様が、さりげないながらもよく描けていると思う。

構成としては、「ロボットは人間と違う」と言う社会/大人/主流派に対して、「ロボットにも心がある!…じゃないかな…?」と言う僕ら/子ども/反主流派というよくあるアレだ。使い古されたテーマをうまく料理し直した本作に敬意を表し、正面からありきたりな考察を付してみようと思う。

※以下のブログが非常に詳細な解説を付していたので、こちらもぜひ読んで欲しい


ヒト中心主義

「人間は特別だから人間の権利(人権)をベースに法/権利の体系を組み立てていくよー」という考え方をヒト中心主義と呼ぼう。(筆者は環境倫理学における人間中心主義の厳密な意味と用法を知らないので、定義は緩く捉えてもらいたい)

ヒト中心主義は人権が他の様々な価値に優先するので、お肉も食べるしロボットはモノ扱いする。作中の「倫理委員会」はこの立場をベースにしていると思われる。言うまでもなく、日本国憲法や世界人権宣言もこの立場だ。

現代社会において、ヒト中心主義に対して最も積極的な批判を展開しているのは、アニマルライツ運動だろう。彼らは、動物も人間と同じように「苦痛」を感じるのだから、人間だけを特別扱いする理由はない、そんなのはエゴイズムだと主張する。「苦痛」を基準に権利の範囲を「動物」に広げようと(≒絞ろうと)しているので、動物中心主義と命名できそうだ。「愛着を感じること」と「権利を認めること」の違いをわきに置くと、ドリ系とアニマルライツ主義者はヒト中心主義に対して似たような姿勢を取っている。ドリ系の場合は、人間と同じように感じたり考えたりすることをもってアンドロイドを人間視しているので、知性中心主義とでも呼ぼうか。

逆に、権利の主体を「ヒト」より狭めようという考え方が主流だった時代もある。そう、人種差別主義の時代だ。「白人は特別だから白人の権利(人権)をベースに法/権利の体系を組み立てていくよー」という考え方なのでまあ白人中心主義とでも呼ぼう。フランス”人権”宣言なんて名前がついていながら権利の主体がヒト一般にまで拡大していなかったのは、21世紀の現在からみると随分と皮肉なネーミングである。(余談だが、『イブの時間』の主題歌のタイトルは「I have a dream」だ)

さて、『イヴの時間』のような作品に接した直後、我々は自然とヒト中心主義を相対化する。今はロボットに人権は認められないけれど、いつかロボットがに権利が認められる日が来るかもしれない、人種差別が解消されたように…と。現代社会でヒト中心主義が支配的なのは、たまたま今そこでコンセンサスが取れただけで、絶対普遍の真理という訳ではないと気づけるのだ。過去には権利の範囲が「ヒト」より狭かったこともあるし、未来には「ヒト」より広くなることもあるかもしれない。

しかし、アニマルライツ運動に対して同様の見方をできる人間は少ない。だって、お肉食べたいもん。「彼らが勝手に菜食主義をやるぶんには良いが、俺が肉を食べることにもケチをつけるのは自由権の侵害だ!」と言う人も、「彼らが勝手に人種平等をやるぶんには良いが、俺が人種差別をすることにもケチをつけるのは自由権の侵害だ!」とは言わないだろう。だって、お肉食べたいだけだから

〇〇中心主義はその体系の中で自身の正しさを証明できない。結局、権利の範囲を「なんとなく」で線引きしているだけなのだ。もちろん、動物中心主義者が使う「人間を特別扱いする理由がどこにある?」という刃は、「動物を特別扱いする理由がどこにある?」という形になって彼ら自身の背中を貫く。だから、我々は〇〇に何を入れるかを選び取らなければならないし、選び取っているに過ぎないと自覚する必要がある。要は、決断の問題だ。ヒト中心主義を選び取ったら「人間が肉を食べる自由」を擁護することが正義の要請だし、動物中心主義を選び取ったら「他人の肉食をやめさせること」が正義の要請になる。ただ、たまに「お野菜大好きヒト中心主義者」が奇妙なポジショニングを試みるから話がややこしくなっているだけだ。

作中では、選び取っているという自覚もなく、自分の選択を絶対化している群衆の姿が描かれていた。アニマルライツ運動を狂気と見下す人々はきっと、ドリ系を笑うモブキャラたちと仲良くなれるだろうし、「倫理委員会」で出世できそうだ。


自由意思

命令されりゃ、泣きわめく子どもだって無視できんだよ。何年もな。
結局、こいつらは人の心なんてわかりゃしないんだ!

マサキは「命令されりゃ泣きわめく子どもだって無視でき」るテックスに失望した。ロボット工学の第二原則だ。本人もしきりに口にしている。

「自由意志」に価値を認め、自分の意志を持たない(自分の意志に従えない)ロボットを人間と対等だとみなさないマサキの論理と哲学は理解出来る。現実でも、自分の意志より周りに合わせることを優先する人を「キョロ充」(死語?)と言って馬鹿にする文化はある。同時に、人には自由意志があるという信念はヒト中心主義の理論的バックグラウンドのひとつでもあるし、法/権利の体系も個人の自由意志を前提に組み立てられている。

実際、ロボットは自由意志を持たない。プログラムされた通りに動いているに過ぎないからだ。これはロボットの本質的な(ロボットがロボットであるが故に、ロボットとしての強みを発揮するが故に必然的に伴う)制約で、この「他律性」はしばしばAIの限界を論じる際にも言及される。サミィやテックスだって与えられた刺激に対して計算通りの反応を返しているだけだ。だってロボットだもん。

では、人間はどうだろうか。

残念ながら、人間は動物やロボットと違って自由に意思決定を行う心を持っているという考えは、苦境に立たされている

"Ghost in the machine"とは、20世紀のイギリスの哲学者ギルバート・ライルの言葉だ。自然は物理現象が支配する機械のようなもので、人間もその一部であるとすると、「それでも人間には自由な心があるんだよー」と主張するのは無理があるのではないか。それはまるで「機械の中に幽霊」だと言う。ライルが機械の中の幽霊的人間観、つまりデカルト以来の心身二元論を否定したのは、20世紀中頃のことだ。

中学や高校でDNAを学んだ我々の世代にとって、人間が一種の機械であるという考え方は馴染みやすい。言うなれば、DNAが人間にとっての「コード」なのである。進化生物学の世界で、個体が生存と繁殖のために遺伝子を利用するのではなく、遺伝子が自己複製のために個体(生存機械)を利用するのだというパラダイムシフトが起きたのも、20世紀中頃のことだ。個体の行動は自己の複製を目的とする利己的な遺伝子によって規定されたものだとする利己的遺伝子論は、社会性昆虫などに見られる利他的な行動を鮮やかに説明する。

あなたが身近な人に愛情を感じて、時に利他的な行動をとるのも、あなたの中に巣食う遺伝子がそう命じているに過ぎないのだ。言い換えれば、あなたという機械がそういう風に出来ているからに過ぎない。それはロボットとどう違うのだろう


構造主義

周囲の視線を気にしてサミィとの相合傘をやめたリクオの振る舞いは、別の視点から人間の自由意志が虚構であることを示してくれる。

リクオはどうしてドリ系になり切れないのだろうか。明らかにサミィに人間性を認めているのに。もっと言えば、名もなきモブキャラ達はどんな深い理由があってドリ系を嫌悪・軽蔑するのだろうか

もちろん、作中で描かれていないだけで彼らが個別に深い事情を抱えている(マサキやマサキの父のように)という可能性を完全に排除することは出来ない。だが、少なくとも傾向として、多くの人は特に深い理由もなくドリ系を嫌悪・軽蔑しているだろうと推測して話を進めよう。「特に深い理由もなく」と言ったのは、個々人が自由に意思決定をして「ドリ系を嫌悪する」ということを選択した訳ではないということだ。彼らは、単にそうすることが普通だからそうしているに過ぎない。「ドリ系」という言葉でそういう思想や嗜好を持つ人を括り出す社会の構造が、そのような選択をせしめている。きっと、「ドリ系」という言葉が生み出される前の世界では、多くの人は自分や他人をアンドロイドとの関わり方で区別するという発想を持たなかっただろう。

このように、社会の構造が(無意識下で)個人の選択を規定しているという考え方は構造主義と呼ばれる。女子が偏差値の高い大学や理数系を目指さないのは、本人が自由意志で選択しているように見えて実は周囲の環境に選ばされているというような考えだ。周囲の環境とは例えば、親の期待値だったりテレビに出演する男性科学者や専業主婦の姿だったりする。今では信じられないが、ちょうど元号が昭和から平成に変わる頃まで高校で家庭科を習うのは女子だけだった。そのような社会で「短大に行って専業主婦になったのはあなたの自由意志でしょ?」と言われても、「そうなんだけど、そうじゃない!」と言いたくなるのは妥当だ。構造主義という思想は、「そうなんだけど、そうじゃない!」感を理路整然と主張するためのツールとして、第二波フェミニズムの理論的支柱となった。「個人的なことは、政治的なことである」といって。

社会の構造は、例えば「出世は男の本懐」とか「結婚は女の幸せ」とかいう信念を通じて男女を分離する構造を作り出し、それぞれの本質を規定する。「たまたま多くの男が出世を目指したんじゃなくて、男は本質的に出世を目指す生き物なんだよー」といった風に。そして男は企業戦士になり、女は専業主婦になった。その際に個人の選択は法や権利の次元で拘束されている訳ではないが、社会の構造の影響を少なからず受けている、言うなれば個人(実存)が構造(本質)に追従する形になっている。実存が本質に先立っていないのだ。

『イブの時間』の「倫理委員会」という組織は、まさに「人間は本質的にアンドロイドに愛着を覚えるものではない」という規範を作り出し、「ドリ系」を括り出す社会の構造を生成したのだろう。頭の上にリングを出させてテレビCMを乱発していれば、人は自然と「そういうものなんだな」と認識する。テレビで男だけの内閣の映像を見て、女性大統領候補が「当選すれば史上初!!」と大々的に報道されるのを見て、「政治は男がやるもんかー」と認識する子供たちのように。

ここで本題に立ち帰ろう。相合傘をやめたリクオは、「ドリ系」を嫌悪する若者は、果たして自分の自由意志に基いてそうすることを選んだと言えるのか?結局人間だって、社会に埋め込まれた「コード」に選択を支配されているとしたら、それはロボットとどう違うのだろう


『イブの時間』の熱さ

ここまで、マサキのトラウマに注目して自由意志という観点から人間とロボットの違いを考えてみた。「コードに逆らえない」という意味では人間もロボットと一緒だと言えるかもしれない。そうすると、人間とロボットの違いってなんでしょうね。腐るか腐らないか?

だが、『イブの時間』はそんな冷めた作品ではない

テックスが命令に逆らって偵察用アンドロイドを追い払ったシーンをよく見てみよう。

ロボットはロボット三原則(ロボット工学三原則)を含むロボット法に逆らうことが出来ないのは、そのようにコードに書き込まれているからだ(だからこそ、リクオはロボットが嘘を"つける"ことに驚いた)。ロボットにおいては、権利と能力が一致しているのだ。

しかし、「イヴの時間」の看板にはロボット法を上回る効力を持つ「コード1138」が埋め込まれている。コード1138はロボットだけが認識することができるようで、カトランが入店したシーンで彼がコードを認識して1138が最上位の規範として認識されたことが示された。これにより、ロボットは頭のリングを外すことが"できる"。ちょうどロボット法のもとで嘘を"つける"ように。コード1138がこのような強力な効力を持ち得たのは、シオツキがAPC内でロボット開発に携わっていたことと、彼の技術力の高さ故だろう。

要するに、ロボットの行動を制御するコードの序列は

コード1138>ロボット三原則>ロボット法の下位規則

となる。

テックスがマサキの父親の命令に逆らって声を出したことは、ロボット三原則が下位規則に優越することから説明し得る。「ロボットの一見不合理な行動が、ロボット三原則から説明できるよー」というのはアシモフも用いた手法らしい。

では、テックスが「今から、この店のルールを、破ります」と言って、倫理委員会の調査ロボットをロボット扱いできたのは何故だろうか。作中では、少なくともロボットが他のロボットをロボット扱いしたシーンは無い。もちろん、自分がロボットであることを明示したり示唆したりするシーンはあるが、彼らはあくまで他者を人間として扱っていた。

これは、上述のコードの序列と、ロボットがコードに完全に支配されているという仮定のどちらかが満たされていないことを意味する。ロボット法の階層構造やコード1138の詳細が伏せられているため確かなことは言えないが、もしテックスがコードに反する行動を取ったシーンだとすれば、それはすごくアツいと思いませんか?

幼稚でロマンチックな解釈かもしれないが、リクオが「構造を脱する人間」として描かれ、テックスが「コードに逆らうロボット」として描かれているとしたら、なかなか夢のある作品だと思う。


イヴの時間

自分たちと明らかに異質なものに対して嫌悪感を覚えるのは自然なことかもしれない。そこに線引きをして、「呼称」をつけて、軽蔑することだってあるだろう。しかし、言うまでもないことだが、”identity”を持つものは必ず異質性を持つ。個人は"individual"だが、逆に個人と個人の間は"dividual"だ。どこに線を引くことだってできるし、どこに線を引いたって、勝手にそこに線を引いたに過ぎない。共同体主義が幅を利かせる今だからこそ、「individualなもの以外はdividual」という原則を思い出さなければならない。

そして、社会に構造があって、勝手に線が引かれて、我々の行動がコードに支配されがちなものであったとしても、もしかしたらをれを乗り越えられる未来があるんじゃない?なんて夢を見られるひとときが、イヴの時間なのかもしれない。

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