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64歳リタイアおっちゃん、心療内科に通院する人生。アスペルガーの母に向き合って。

いつも私のnoteにおいでくださり感謝致します。

今回は、私の人生を少し書いてみたいと思います。

ちょっと苦しい思いがありますが、このような文書を書こうとする気持ちになれたことに感謝して、今を生きています。


時間経過に沿って書きます。


※ 以下、皆様には、参考にならないと思いますが、
  自分自身の生きた証として、書きたいと思います。


私は、持って生まれた精神的な問題を抱えていました。
しかし、人生に挫折するまで、本当の自分に向き合うことを知りませんでした。

そのため、職場でも、家庭でも、妻にも、自分自身にも、どす黒い影を背負って自分に向き合うことなく、自分を知らず、本当の自分ではない人生を生きてきました。
そのどす黒い影の正体が分かるには、とんでもない時間がかかりました。


<1回目の治療:38歳>

1998年4月、、突然、会社に行けなくなりました。
他人の目、他人の声、、、
激しく、苦しい、幻聴に悩まされました。
目、目、目、、、恐ろしかったです。
妻さえも、信じられなくなり、世界中の全ての人が信じられなくなりました。


唯一信じられた、大学の恩師のもとを訪ねました。
そして、大学と関係の深い心療内科を紹介されました。

行くか行かないか、苦しみました。

亡き父の
「そがにぃ、苦しがったら、ちゃんと見でもらったほうがいいべぇ!」  の一言に背中を押され、生まれて初めて心療内科へ行きました。

診断名は、
「神経症」
治療方法は、神経伝達経路を押さえる薬と睡眠導入剤だった。

毎週月曜日の午後、妻に連れられ、受診を重ねた。
半年間は、会社に出社しても、机に座っているだけで心も体もヘロヘロでした。

その後、少しずつ、仕事に復帰。

結果的に1998年5月から2002年3月まで、約4年間にわたり通院した。
2002年3月で治療中断した理由は、東南アジアへ転勤辞令。


<1度目の海外転勤:42歳>

東南アジアのインドネシア
薬を日本から妻が運んでくれた。

そして、次は、2004年4月にアメリカへの転勤辞令。

<心療内科への相談>

通院していた診療内科に相談したところ、アメリカでも同じような治療を受けれるドクターがワシントンD.C.にいるとのことで、紹介状を書いて頂く。

<2度目の海外転勤:45歳>

アメリカ赴任。
アメリカでは、忙しく、またワシントンD.C.までは遠距離で、カウンセリングは受けられなかった。
この間、妻が、日本から薬を運んできてくれた。

しかし、精神的な問題で、これ以上業務が出来なかったため、上司に相談したところ、2005年7月に帰国となった。白旗です。

<2回目の治療:46歳>

帰国後は、会社からも、妻からも、家からも、、逃げていた。
何か正体の分からないものに怯えていた。
しかし、向き合う勇気がなかった。

時間だけが過ぎた。

会社人間としては、インドネシアとアメリカでの仕事が評価され昇進をしていたが、実際の自分は心の問題を抱え、崩壊寸前だった。

年が明けて、2006年2月、、勇気をもって、妻の後押しで、自宅から遠く離れた心療内科に通院を開始。
同僚の目、部下の目、親戚の目、地域の目、、これを避けたく、地元から遠く離れた心療内科にした。

そして、治療に加え、ドクターの紹介でカウンセリングを受診した。
このカウンセリング方法は、「家族療法」といって、患者だけではなく、患者の配偶者や親、兄弟の人間関係まで深く掘り下げて原因を探るものでした。

そして、カウンセリングを受けた直後は、とても運転できないほどにダメージを受けていた。


<家族療法で、二つの原因が見えてきた:47歳>

カウンセリングで判明した事。
1)母が高齢者アスペルがー(非定型自閉症)であること。
2)私も、その傾向が遺伝している事。


私の怯えは、物心ついた時から始まっていることに、気づいた。
・先天的に、私は、そのような精神的な傾向を持っている。
・後天的に、私は、アスペルガーの母から精神的な虐待を受けてきた。
  (別のnoteには、毒親と書きました)
・そして、妻は、私と母から、精神的な虐待を受けていた。
  (今、よく言われている、カサンドラ症候群になっていたと思う)

母に向き合った。
自分に向き合った。
そして、妻の支えに心から感謝した。


<3回目の海外転勤:53歳>

2012年5月、3度目の海外転勤の辞令を受け、2012年4月で、心療内科の治療が終わる。
現地法人の社長として、精神的な問題を抱えながら取り組んだ。
この間、妻が薬を運んでくれた。

会社的には役員まで出世はしたものの、得体のしれない不安感との葛藤の日々は継続していた。


<日本への帰国辞令、九州への転勤辞令:57歳>

2016年12月に帰国、そのまま九州へ転勤。
ある部門のトップとして赴任したものの、精神的に追い込まれた私と、私を支え続けてきた妻が、これ以上の単身赴任生活に耐えきれなくなり、退職を決断。


<3回目の治療:58歳>

色々、紆余曲折があった。
最終的に、2017年12月に地元に戻る。
社内的には、地元の帰任を条件に、役員、及び管理職も外され、一般職として勤務を開始。

本格的に、地元で、心療内科の治療を開始。
地元で誰かに分かってしまっても、それはそれで受け入れようと心に決めて地元の心療内科にした。

60歳の定年退職となり、65歳までの継続再雇用を選ぶ。

<再び、会社に行けなくなる:62歳>

2021年3月、アスペルガーだった母が亡くなる。
葬儀、49日、100ケ日、遺品整理、、、。
忙しく、慌ただしく日々が過ぎていったある日、、

暮れも押し迫った、
2021年12月24日のクリスマスイブに、
突然、涙が溢れて止まらなくなり、心が混乱し、動揺し、会社に居られなくなくなった。

完全に心が崩れてしまった。

その日から、約8ケ月に及ぶ休職になった。

心療内科での、カウンセリングを再開。
・産業医面談、
・上司との連絡、
色々、相談をさせて頂く。


<自分整理の時間:63歳>

8ケ月の休職期間になると思わなかった。
当初、ひと月で復帰できると考えていたが、、、
無理だった。

自分自身の心の整理、
自分自身の人生の意味、
母との家族関係、
父との家族関係、
仕事は何だったのか、
自分は何を恐れていたのか、
自分自身は何なのか、、、
何を求めてきたのか、、
そして、何がしたいのか、、

私は、母の愛がほしかった。
私は、母に見てほしかった。
私は、母に評価されたかった。

でも、母は、アスペルガーで、息子にもたれ、息子に要求し、息子を利用し、息子は甘える対象だった。私の妻には嫉妬していた。母は、自分中心で世界が、家族が、夫婦が、親子が、回ることしか考えられない人だった。

そのことを、冷静に見極めるにに、時間がかかった。

思えば、38歳で最初に会社に行けなくなった根本原因は、承認欲求をみたすことのみに価値を置いてきた自分自身の限界への赤信号であった。
私は、心療内科で、カウンセリングで、薬で、何とか誤魔化してきたが、、、それが、ついに限界になってしまったという事。

そして、私は、そんな母を許せるか否か、、、休職中、ずっと考えていた。
来る日も来る日も、、、。
許せるわけがない。
恨んでいる。
時間は戻らない。

でも、母は、この世にはいない。
死んだのだ。
葬儀を出したのだ。

そして今、

私は、私自身である為に、
そんな母を受け入れようと思っている。
苦しいけど、思っている。
アスペルガーの母から生まれた私も、アスペルガーかもしれない。
神経症と診断されているが、本当は母と同じかもしれない。


ほんの少し、母と違っていたのは、
進学校にいって、大学へ行って、大企業で働いで、少なくない大切な人たちに出会い、欠点を指摘してもらい、少しずつ社会性を身につける機会・チャンスに恵まれた事。

何より、大切な大切な、妻に出会えたこと。

これが、母との違いだと感じている。

色々有ったけど、ここまで、家庭で仕事で頑張ったじゃないか。
妻が側にいてくれるじゃないか。
もう十分だろう!

そして、休職から復帰し、64歳で完全リタイアした。
今は、自由に妻と一緒に生きている!


これが、私の人生です。


最後までお読みいただき、感謝します。









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