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戻るところがわかるとき


春になるたび、一旦なにかが死に、なにかが新しく生まれ変わるのかもしれない。
自然はそういう生死を繰り返している。
人もどこかで、毎日、毎分、そうやって生きていて、全部が死なないうちは生きているのかもしれない。

落ちるところまで行ったら這い上がる。陰極まれば陽となる。
乱れた状態で中庸を保とうとすることほど、不安定さが露呈する。
乱れているのならば、その時こそ自然の大きな流れに委ねるしかなくて、それで絶えるものは絶え、生き延びるものは生き延びる、のが本来の姿なのかもしれない。

もちろん、助ける、という選択肢はあるにせよ。

エニウェイ。

うつ状態のよくある感覚に「すべて辞めてしまおうか」がある(わたしの場合)。
それも、「辞める」と言っても、細々したものにしておけば良いのに、解決できそうにないなんだか大きなもの(家族とか人生とか)を持ってきてしまうから、厄介だ。

まあ今回も色々あった。
SNS、歩み寄りや理解すること、会話、人間関係、家族、仕事、人生。

辞めたら得られるもの
辞めたら何が残るんだい?というもの
辞めたらどうなるんだろうって、ただの妄想で時間を潰して別の生き方を模索してしまうのかもしれない。

もちろんものによっては辞めることも大事で、こういう時は実はその見極めにもなる。ポジティブな辞める、と、逃げとしての辞める。

ポジティブな辞める、の話は置いといて。
逃げとしての辞める、は、自分にとって何が大切なのかを見失っている状態なのかもしれないな、とも思う。
わたし自身が本当は大切に思っているのに、今の生活の中での妥協や追求するエネルギーがないことで、後回しにしたり大切じゃないっていう位置づけにしていたものとして露呈するのが、仕事だ。
仕事、と言っても、わたしにとってそれはお金を稼ぐための手段としてというものよりも、生きがいとか使命といった存在のもの。

これを辞める、と思うときは、自暴自棄になっている状態のときだという気がする。

「もう、辞めようかな」

口には出さないけれど、頭の中でしつこくしつこく聞こえていたタイミングで、ふと、施術の予約が入ったのが昨日の午後。
不思議だ。
1年以上音沙汰がなかったのに。
前回辞めよう、と思っていた時もその人はふと現れた。
あの時は、その人が来たら、また音沙汰がなかった人たち数人からポツポツと予約が入ったりして、あ、まだ続けろってことか、と正気に返ったのだった。


「とてもじゃないけど今のわたしに施術などできない」

なんていうエゴは、必要とされる瞬間に吹き飛ぶようなレベルで、
からだを触り始めたら自分のことなんかなにも考えないし、なんなら使うツボを見つけたらもう自分も治療されている。

そうか、人に認められるため、とかのためじゃなくて、
わたしのエネルギーのために、わたしはこの仕事がしたいんだ。

するするする、と、変に凝り固まっていたこだわりが溶けていった。


大体、どんな仕事も本来そうなんだろうけれど、人の評価が基準になってしまう時ほど苦しいものはないものね、、、。ニュージーランドではそれに気づけなくて、散々自分を痛めつけたのに、まだやるんかい。もう辞めよう。(あ、これがポジティブな辞める、だ)

わたしにとっての、この道を進むあり方を、わたしのカタチで進むこと。
こうして書いてみると実に当たり前、というか、初歩的なことなのかもしれないけれど、なんだかやっと、リセットされてきた。


この軸があれば、何もかもがなんとなく蜘蛛の巣みたいに美しくつながっていく。


今日は急な要請でにんじんの種をざっと2600〜4000粒くらいまいたのだけれど、小さな種を2粒つまむ指先の感覚、とかいうものが、すべてやっぱりわたしの芯のパッションにつながっているわけで。
単につまむ、まく、はい終わり、じゃなくて、その2粒を、親指と人差し指の一番敏感に気をキャッチできるところでつまんでみる、とか、3粒つまんでしまった時に指先の感覚だけを頼りにひと粒だけをそっと器に戻す、とか、その微細な感覚を養う感じとか、もうそういうのが幸せだっていう、そこ!そこがピンポイントなんです、わたし!っていう変人ぶりを畑で発揮する、そんな時間が愛おしく感じる、その場にいる誰とも共感し合えないであろうムフムフ感に浸ること。

それで良いじゃないか。そうやってまだ毎日を楽しめるじゃないか。

そうか。
蜘蛛の巣に絡まった獲物、になっていたのかもしれないな。

なんだかよくわからなくなってきたけれど、多分少し、トンネル抜けて来たはずだ。

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