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仏教的「愛の技術」

ここ2、3ヶ月動いていた新プロジェクトが、もうすぐ終わる。

他の誰かにとっては簡単かもしれないが、私にとってそれは少し手間のかかる仕事だった。

基本は無料配布、残りは職員が買うこと。全員とは言わなくても結構協力してくれるだろう…そうして蓋を開けてみるとあまり売れなかった。

「他に買う人がいるかもしれないので、私は余ったらでいいです」そんな考えの人がたくさんいたらもちろん売れるはずがない。一見協力的だが実はそうじゃない、はっきり言わせてもらうと少し冷たい考え方だと思う。

初めての取り組みで、確かに品質が良いとは言えないだろう。それは認める。でもここでお金を出せば、巡り巡って自分たちの働く環境が良くなることに繋がるーーそんな意識が強くないのかなと思ってしまった。自分が中心となって動いたプロジェクトだけに。

と、ここまでグダグダと書いたが、そんな私も普段は、職場の製品を愛用していない人間だ。親友が趣味で作った物の方が、55倍も好きだから(一番大事な時期なのに私のわがままに付き合ってくれた彼女。きっとこれを読んでいると思うので、この場で礼を言いたい。ありがとう)。

「結局は君だって非協力的じゃないか!」と自分で自分にツッコミを入れたところで、「いや、だからこそ今回は協力しようと思ったんだよ」と弁明したい。

こんなことを考えていたら、欧米にはあるが日本ではなかなか育たない「寄付文化」を思い出した。


キリスト教的な愛。仏教では?

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。ーー「愛するということ」p.190


エーリッヒ・フロムの「愛するということ」。元夫に苦労させられた女優さんが書いた帯をつけたまま、たまにパラパラと読み返している。

愛は、努力なしに勝手に生まれるものではなく、人間の持つ能動的な力であり、技術である。大切な人を本当に愛するとは、すべての人を愛し、世界を愛し、生命を愛すること。この本にはそう書いてある。

作中にはキリスト教の考え方が多用されていて、筆者が言いたいことはキリスト教で言う“隣人愛”なのだと思う。

では、仏教ではどうなのか?世界の宗教は全く違うように見えて、実は同じことを伝えている。仏教で言うところの隣人愛とは?気になったので調べてみた。


「布施」と「慈悲喜捨」

布施というと葬儀や法事でお坊さんに渡すお金、言ってしまえば利用料みたいなイメージを持つ人は少なくないだろう。もちろん間違いではないが、元々は「自分の大切なものを提供する」の意味らしい。

大切なものを独占するのではなく、他人に分け「世のため人のために尽くす」のが布施だ。

布施は3種類ある。お金や物を他人に与える「財施」、他人に安心を与える「無畏施」、自分の知恵を他人に教える「法施」。周りの人に優しく接する「無畏施」は財力がなくたってできることだ。それに「法施」は、このnoteという場で何かしら発信している人は皆、自然と出来ていると思う。


そしてもう一方の慈悲喜捨とは、“智慧”を持って他の人々のために行動することが、皆の幸せを作りやがては自分の幸せとなる、という考え方だ。

母親が子どものことを大切に想うように、この世に生きているあらゆるものに対して心配し、助けてあげられる「慈悲」の心。これに加え、他者の安楽を自分の喜びと感じる「喜」と、自己と他者、敵と味方といった区別なく人を見る「捨」の心を指す教えです。ーー日蓮宗ポータルサイトhttps://www.nichiren.or.jp/buddhism/sutra/04.php


私は特に「捨」を大切にしなければ、と思っている。福祉のお仕事は、成果を人と競うものじゃない。そうわかっているつもりでも抑えられないのが、生まれ持った負けず嫌いな性分。自分が必死こいている隣で誰かが褒められてると、「なんで?」とモヤモヤしてきて、それが静かな嫉妬に変わっていく。

大抵はお腹が空いているせいなので、家に帰ってゆったり晩御飯を食べたら忘れてしまうのだが、ほんのいっときでもマイナスな気持ちにならないように、自分を律するのがこれからの私の課題だと思う。

ライバルとは思わずに、利用者さんの幸せを一緒に実現していく仲間だと考えて、先輩にも後輩にも優しくすること。それはまさに「捨」であり、必ず巡り巡って自分に返ってくると思っている(数年後、先輩も後輩も辞めないでいてくれたら、私自身が退社しやすいかなって超打算的な女なんですがね笑)。


「愛の習練」=六波羅蜜?

退屈したり退屈させたりしないことは、人を愛するための大きな条件の一つなのである。思考においても感情においても能動的になり、一日じゅう目と耳を駆使すること、そして、なんでも受け取ってはためこむとか、たんに時間を浪費するといった内的な怠慢を避けること、これは愛の技術の習練にとって欠かせない条件の一つである。ーー「愛するということ」p.191


先に述べた「布施」は、菩薩(困っている人を助けたり、世の中のためになる行いをする人)になるための6つの修行「六波羅蜜」のひとつだ。

布施の他は「持戒(じかい)」=ルールを守って欲望をコントロールすること、「忍辱(にんにく)」=苦しみを耐え怒りを抑えること、「精進」=目標に向かって努力すること、「禅定(ぜんじょう)」=どんな時も平常心でいること、「智慧」=物事の本質を知ること。漢字は難しくても、意味はどれも理解しやすいと思う。

六波羅蜜は全て自分から進んで行うものであり、自分の頭と心を使い、世のため人のために行うもの。つまりはフロムの言う「愛の習練」と同じだと思っている。

情報が溢れているこの時代に「こうすれば成功します!」「成長するための鉄則!」など色んな人が色んな風に語っている。いわゆる意識高い系が好きそうなコンテンツ、私も好んでよく見てしまいますが、結局のところ皆同じことを言っている気がするし、てんでバラバラなことを言っている気もする。

意識しなくてもたくさんの情報に触れている生活の中で、自分の行動はシンプルにしていきたい。そんな思いに応えてくれるのが六波羅蜜、そして仏教の教えなのだと思います。

皆さんも、情報に疲れて何かモヤモヤしたら、仏教の力で「愛の技術」を育ててみませんか。ぜひ私と一緒に一歩ずつ、進んでいきましょう。


参考サイト

https://www.nichiren.or.jp/buddhism/sutra/04.php


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