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【超短編小説】兄の背

 目覚ましのアラームが鳴った瞬間名残惜しく思う。少し泣きそうになったがもうそんな年齢ではない。
 幼い頃の記憶など殆ど無いのだが、兄に背負われて田舎の道を歩いたことだけは鮮明に覚えている。時折夢にも見る光景を今再構築するとなれば、まるで時間遡行をしたかのようにして万象がさっと俺の眼前に現れるのだ。田んぼとあぜ道、青い稲の向こうでは蜻蛉が飛び回っていた。呆れるくらいに連なる山々の奥で柔らかく澄んだ青空が雲をちぎって遊ぶ。俺はそんな退屈な風景を兄の背という揺り籠の中で眺めていたのだ。時折、兄が俺の名前を呼ぶ。俺はその度に足をばたつかせて兄に生きていると言わねばならなかった。兄の呼び掛けは時計か何かで測ったかのように正確な規則性を持っていた。
 それを兄に伝えると「そんな昔のことを」と笑われた。あのときの兄は俺が死なないようにと必死だったらしい。「お前は赤ん坊を見たことがあるか?」の問から始まった兄の思い出話に俺は吹き出しそうになった。
「あんなにやわらかくて、もろくて、気を抜いたらすぐに死にそうないきものをお前、背負って歩くのは大変なんだぞ」
 そんな兄の思いなどお構いなしに、あのときの俺は蜻蛉を目で追いながら兄の背に揺られていたのだ。真一文字に唇を結んでる兄があの穏やかな田舎道を黙々と歩いて、たまに俺の名を呼んだりして……。
 俺は耐えられなくなった。腹の底から湧き出るおかしさに肩が震えた辺りで兄に頭を小突かれた。悪い悪い、と謝ろうとした口から漏れ出たのは無遠慮な哄笑だった。再度兄が俺のことを小突いたときの揺れは、兄の背で感じたそれと酷く似ていた。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)