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【短編小説】僕はここにいない

 幼少の頃から慣れ親しんできた本屋が閉店してから少しして、何かを見計らったようにしてオープンした巨大な本屋のことを、同級生は「まるでハイエナみたい」と訳の分からない表現で飾った。僕はそんなことを思い出していた。
 S駅前の商業施設のワンフロアを占拠する本屋は、きっと都会まちの人が見たら小さな書店なのだろうと今になっては思う。僕は書店に占拠されたフロアをずんずん進んで奥に潜り込んだ。梶井基次郎の檸檬が置かれている辺りで一度足を止めたのだが、妙な違和感から少しだけ場所を動いた。元々古い建物なので、どうしても床が波打っている。不意の些細な傾きに、僕の身体は過敏な反応を見せたのだ。
 文庫のコーナーをそのまま歩いて行くと、グラデーションのようにして気配が変わってくる。堅く、重厚なものから少しずつ現代文学の――ちょっと親しみやすいような顔を覗かせてくる。この辺りに来ると教科書ではなくテレビに出てくるタレントが書いたエッセイなんかが並び初めて、僕は気まぐれにそのうちの一冊を手に取ってみるのだ。本は色々な人に門戸を開いている。それはタレントもそうだし絵描き、学者、歌手――文章以外に何かを持っている人にもある意味簡単にとっつくことができる。「文章なんて誰にでも書けるよ」と言って炎上した人間がいたが、彼の言っていることは間違いではない。しかし、大抵これを宣うヤツは作品をひとつ完成させることすらできない挙げ句、執筆に触れた事がある人間の口からはこんな無責任な言葉はそう簡単に転がり出ない。
 思えば僕には小説しかなかった。中学の多感な時期に人間関係の構築を失敗した僕は文学へ逃避したのだ。雪が溶ければ春になり、日が沈めば夜になる。もともと読書の好きな僕が書く側に回るのはなんらおかしな話ではない。しかし僕にはそれ以外なにもなかった。書くための経験が圧倒的に不足していた。教室の片隅でじっと昼休みが終わるのを待ち続ける僕に、キラキラと輝く部活動や学校行事の経験など存在しなかったのだ。
 ブックワゴンの気配がする。誰かの気配がぽつりぽつりと動いていく。
 僕は僕の見知ったタレントが書いたエッセイを数ページ読んでから、それを棚へと戻した。この文章はこの人にしか書けないだろうという圧倒的な理解と虚栄心を胸に、僕は無限に並ぶ書物の背を見渡す。
 決して――決して、プライドが高いわけではない。ただ、子供の頃はいつか僕の名前が書店に並ぶ日が来るのだと思っていた。コーナーを設けてもらうとか、「先生、新作について一言」なんてチヤホヤしてもらうとか、そういった妄想は一切、神に誓って一切したことはない。しかし、僕の書いた僕の好きなものが他者に歓迎されることを「傲慢」といえるのなら、僕の自尊心は必要以上に膨れていたといえるだろう。僕は無才だ。書き上げた作品はどれも日の目を浴びないままで、いずれは僕以外には忘れ去られる。しかし僕には小説しかないのだ。それ以外のものを手に入れることができなかった。
 僕はあてもなく店内を歩いた。姿勢のいい女子生徒が黙々とページを捲っている。僕はその後ろをそっと通り過ぎながら、先ほど見送った檸檬の文庫本を手に取ってレジへと歩き始めた。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)