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【短編小説】蒼より羽化する

 一日がゆっくりと始まるとき、世界は淡い蒼に満たされる。その美しさを教えてくれた彼はやはり物書きに向いていたのだと思う。結婚を想定しているわけでもなく、そもそも恋人同士というわけでもない。しかし私の中に彼と同棲しないという選択肢はなかった。

 微睡みの中、ガラスペンが紙の上を走る音を聞いたとき、私の意識は完全に覚醒する。蒼色に沈んだ世界の中で伸びをすると、隣の部屋から「気配」がする。
 私は何も言わずに部屋へと入る。巨大な窓から外が見える。夜明けの気配が満ちる中、新聞配達のバイクが走る音がする。
 彼は私に背を向けて机に向き合っている。ガラスペンが滑らかに原稿用紙の上を走り、一面を真っ赤な文字で埋め尽くしてゆく。彼は叫びながら文字を綴ってゆく。
 ――殺してやる!
 防音設備がしっかりした部屋でよかったとつくづく思う。
「殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる!」
 彼の手も、机も、なんなら床だって赤いインクで汚れている。何も知らない人がここにやってきたら、きっとこの汚れを血か何かに見紛うだろう。青に沈んだ世界の中では、インクは凝固した血液のような色彩を以て、私たちを脅かそうとする。
 私は左足の親指を、そっと床のインクにつけてみた。液体が歪む感触に足裏を確認してみれば、案の定指がインクで汚れている。
「殺してやる、」と言った彼の、喉が潰れる音がした。私はこちらに飛んできた原稿用紙に目を通す。再び「殺してやる」と声がした。
 私は彼の文章を読んだ。向けられた衝動は決して殺意ではなく、ただ傷が痛むのをなんと表現すればよいかが分からないだけだった。彼に「『殺してやる』よりも、『痛い』の方がいいよ」と指摘するのは、「『花』を書くなら一言『花』と書けばいいよ」とふんぞり返るに同義である。
 ああ、部屋が蒼い。薄暗さの中で、赤のインクが重く浮き上がっていく……。
 私は彼の衝動を読む。作家というものが皆そうだとは限らないが、彼らは何かしら発したいものを抱えた生き物だと私は思う。それは別に社会問題である必要はなくて、ただ何かしらがあるだけで十分なのだ。それが文章を通じて、私たちの心臓に真っ直ぐ届く。そうして同じ傷を作り出して、そのド真ん中を抉るのだ。
 それでも、作家かれは決して読者わたしたちを傷つけたいわけではない。そもそも、彼らはどうにも人間不信だ。「思い」を「なんとかしたい」のであって、「伝えたい」のではない。それは、伝えたところで伝わらないという一種の絶望である。
 彼は私たちの知らぬ手法を用いて、私たちがその痛みを快楽に変換できるようにしている。勿論中にはその変換が上手く働かなくてしんどく思う人も出てくるが、彼としてはそれは想定していない反応らしい。彼はその特殊な加工により、本物の同じ傷・・・・・・を負わぬように工夫をこらしているそうだ。
 彼の声が、枯れてきている。
 そろそろだろうか、と私は思う。
 加工前の文章に触れるのは彼一人で、私はその特殊な加工をされた文章しか読めない。傷をつけたくないという彼の言い分に嘘はない。
 朝日に世界が白くなる。一日がゆっくり始まっていく。
 私は彼のことが好きだ。これは恋愛的な意味合いではなく、おそらく憧憬に近しい感情だと思う。
 私は彼の文章も好きだ。彼が負った傷から滲み出た血液で紡がれた物語が好きだ。
 だからこそ、苦しむ彼の書く話を愛すると同時に、彼に苦しんでほしくはないという矛盾を抱えて生きている(彼にここまでの文章を書かせるだけの傷を与える輩は、なんと残酷なのだろう、といつも思っている)。私が彼との同棲を望んだのは、彼に小説を教えた身として、彼が彼の抱えた傷を表現した「衝動」の行き先が誤った方へ向かないように見張るためでもあった。

 世界が青から徐々に引き上げられたとき、彼は力尽きたように身体から力を抜く。その際にガラスペンが手から抜け出して、粉々に砕け散ることがある。今回は運良く割れなかった。ペン先もどうやら無事のようだ。
 作品と全力で向き合った彼は、こうして無防備に魂を晒す。私はそこに触れるどころか、近づくようなことはしない。羽化したばかりの虫の翅に触れた末路を知っているからだ。

「僕は、変わらず傷つきやすいままだけど」

 だから彼が口を開いたときの私の驚きは、きっと皆にも理解してもらえるものだと思っている。

「この痛みを、自分に向ける以外の方法を教えてくれた君には感謝している」

 私は原稿用紙を持ったまま、その場で固まってしまった。

「ありがとう」

 インクで真っ赤に染まった手で、彼は口元を拭ったのだろうか? まるで殴り合いの喧嘩から帰還したかのような形相は、しかしどこか穏やかであった。私はその姿を酷く美しいと感じ、また同時に酷く寂しくなった。静かに涙を流した私に、彼は優しいまなざしを向けるのみだった。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)