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【短編小説】孵化

 たっくんの飼っていたペットが死んだ。それが文鳥だったのかインコだったのかは僕には分からないが、鳥の類であることは間違いなかった。四年一組で一番足の速い、クラスの人気者。そんなたっくんはいつも意地悪な顔をして、僕のことを突き飛ばしたりしてくる。いつも自信に満ち溢れていて、教室にやって来るや否や僕の背中をバンバンと叩いて「今日もウジ太郎はウジウジしてるな」と声をかけてくる「あの」たっくんが、トボトボと教室に入ってきたのだ。僕は何事かと思った。同時に、胸の奥に住み着いていたもやもやとしたものが、すう、と消えていくのが分かった。たっくんの友達がどうしたどうしたと群がって、特に仲が良いわけでもない女子も遠巻きに様子を眺めていた。僕もどうしたのかな、と思ったけれど、たっくんと仲のいいクラスメイトに睨まれたので、僕は自分の席でじっと座っていた。
 女子の甲高い声は嫌いだけれど、この時ばかりは感謝しかなかった。ぴーちゃん死んじゃったの!? という彼女の声で、僕はすごくうれしくなってしまった。同時にひどい混乱を覚えた。僕は生き物の死に喜びを感じるような残虐な人間だったのだろうか? でも……僕はちらりとたっくんを見た。たっくんが泣いている。どうにもならないくらいに傷ついている。僕を何度も殴った腕は胴体から力なくぶら下がっていて、僕を何度も蹴った脚はその体を支えるのがやっとといった様子であった。僕はたっくんをかわいそうだとは思わなかった。僕はやはり嬉しかったのだ。僕はいつものように自分の席に座って、うつむきながら机の傷を数えようとした。でも僕は毎日そんな調子であるから、机のどこにどんな傷があるのかすっかり覚えてしまった。たまに傷が増えているとき、たっくんはきまってニヤニヤしながら僕の方を見る。僕は僕の机の傷がちゃんとそこにあるのか確認した。そうして、僕は何とかこの喜びをやり過ごそうとした。
 たっくんは随分とおとなしかった。担任の先生もたっくんの様子に気が付いて、たっくんにやさしくしてくれた。僕が「たっくんに殴られています」と訴えても聞き入れてくれなかった先生は、僕がほしかったものを惜しみなくたっくんへ与えていく。僕はちょっとだけ憂鬱になったけれど、たっくんの大事な鳥が死んだのだから「まぁいいか」と思うことにした。
 その日、たっくんは初めて僕を殴らなかったし蹴ることもしなかった。もしもたっくんが僕を殴ろうとしてきたら、僕は「ぴーちゃんもこんな感じで苦しみながら死んだのかな」と言ってやろうと思っていた。これは僕の切り札だった。日の目を見る機会なんてなかったけど。
 ともかく、僕は本当にうれしかった。殴られないし、蹴られない。それだけで学校生活がこんなに素晴らしいものになるとは思っていなかった。休み時間に本を読んでいても「キモイ」と言われないし、私物が隠されていることもない。たっくんはたまにわざとらしい嗚咽を漏らしていた。先生は保健室に行きましょうか? と言う。クラスメイトも心配そうにする。僕が殴られていても何も言わなかった連中は、鳥一羽を失っただけのたっくんを心底気遣うそぶりを見せていた。僕はそれがちょっと気に入らなかった。たっくんは自分が悲劇の主人公であるかのようにして、頑張って算数の授業に出ていた。クラスメイトの女子が感化されて泣きそうになっているのを見て僕は思わずおかしくなってしまったが、そんな僕の様子に気が付いた彼女は、「たっくんを心配するワタシ」を取り繕うのを忘れて僕をにらんできた。僕は慌てて視線をそらした。
 史上最高に平和な一日を終えた僕は、足取り軽く学校を出た。
 途中、みっちゃんに声をかけられた。みっちゃんは僕のクラスメイトで、あまり目立たない方の女子だった。僕は少し驚いた。クラスメイトに声をかけられるなんてことは滅多になかったからだ。
「一日中、嬉しそうだったね」
 みっちゃんは冷ややかな声でそんなことを言った。
 遠くでカラスが鳴いている。何かを嗤っているようにも聞こえる。でも何を嗤っているのかは僕にはわからない。みっちゃんが僕を非難する理由も、たっくんが僕を殴る理由もわからない。
 僕は適当なことを言った。欲しかったおもちゃを買ってもらったとか、好きなゲームでレアアイテムをゲットできたとか、そういったくだらないことだったと思う。みっちゃんは「ふーん」と言っていたが、おそらく信じていないだろう。僕は何も言わずに歩いた。みっちゃんは断片的に僕を攻撃した。
「傷ついた人を見るのがそんなに楽しい?」
「そんなウジウジしてるから、いじめられるんじゃないの」
 さすがの僕もこれにはカッとなったが、僕はたっくんとは違う。誰かを殴ったり蹴ったりしない。僕はランドセルのひもをぎゅっと握って怒りに耐えた。みっちゃんは僕を見て「そういうところだよ」と言った。何がそういうところなのかが僕にはやはりわからなかったのだ。みっちゃんは僕に殴られたり、蹴られたりしたかったのだろうか。でも僕はそういうことはしない。暴力は悪いことだって、僕はきちんとわかっているのだ。
 夕焼けの光に目を細めながら、僕は淡々と歩いた。みっちゃんはあきれ果てていた。
「私もイヌを飼ってるから、たっくんの気持ちがわかるの。ペットが死んじゃうってとてもつらいことなんだよ」
 僕は返事をしなかった。もしもここで何か反応を返そうとしたら、僕は間違いなくみっちゃんを殴ってしまうだろうから。そしてこう言うのだ。「殴られたり蹴られたりされるってつらいことなんだよ」って。
 彼女は別れ際に「人の不幸を喜ぶなんて、サイテーだよ」と言った。僕はみっちゃんのことがとても嫌いになった。たっくんが僕を殴るのは許されるのに、僕がたっくんの不幸を喜ぶのは許されないのか? たっくんが僕を殴るより、僕がたっくんの不幸を喜ぶ方が罪なのか? それとも僕への暴力には何かしらの例外措置があって、僕を傷つけることは僕のあずかり知らぬところで合法になっているのかもしれない。僕は胃の腑の奥から嫌悪感がせりあがってくるのを感じた。それはちょうど心臓のあたりに停滞して、妙なエネルギーを雑な形に乗せて放つのだ。僕はこの時、視界に赤い光を見た。今思えばそれは夕焼けの輝きだったのかもしれないが、この世界の夕暮れはあんなにグロテスクな赤をしているものなのだろうか。
 そのとき、僕はふと、残虐な思い付きをしてしまったのだ。

 ――もしも、みっちゃんのイヌが死んだら、みっちゃんはたっくんと同じようにして教室に入ってくるのだろうか。

 君たちには理解できないかもしれない。いや、理解できない方がいい。共感もすべきではないし、同情もしてはならない。僕はもうどこか壊れてしまっていたのだ。今になって、ようやくその事実を飲み込めたような気がする。
 しかし、当時の僕にとってそれはメシアに他ならなかった。僕を傷つけた人間が僕以上に傷つくことが、僕にとって一番の幸福になってしまっていたのだ。僕は喜ばしい救済に涙を流しそうになりながら、この邪悪なアイディアを実行しようとした。

 僕はまず、殺鼠剤を誤食したイヌの死亡事例を思い出していた。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)