【長編小説】ノアと冬が来ない町 第四話 熱
山小屋の扉をぱたりと閉めて、ヒョウガは息をついた。まだ心臓が破裂しそうになっている。変な格好をした男が変な文言をブツブツ呟きながらやってきた、という時点でなかなかのものだが、例え普通の格好をした普通の人が来たとしてもヒョウガたちにとっては都合が悪い。
「逃げていったみたい……。もう大丈夫そう」
振り向くと、部屋の奥でコガラシマルが体を起こそうとしているところだった。ヒョウガは慌ててすっ飛んでいった。
「頼むからまだ寝てろって。お前本調子じゃないだろ」
「しかし……人が来たのであろう。この場所も、もう……」
コガラシマルは息をつく。ヒョウガがペタペタと体を触ってくる。ヒョウガの手が冷たく感じられるくらいに自分の体が熱を持っているという事実に眩暈がする。冬の精霊がこのざまとはお笑いだ。
コガラシマルは素直に床に臥す。これでも随分と楽になった方だ。気が付くとヒョウガは即席の氷嚢を作っていた。
「ヒョウガ殿、万が一のことがあれば、そなた一人で……」
「その話は禁止。オレはお前を置いてくつもりはない」
「今の某は完全にお荷物、そなた一人であればこの場所から出るのも容易かろう」
「お前……ッ! 日輪島脱出したときのこと忘れたのか? あのときオレが何度も『置いて行ってくれ』って言ったのに強情突っ張って何が何でもオレを連れてくって言ったの誰だよ!」
コガラシマルは呻いた。ぐうの音も出なかった。
「どの口が置いてけ、って? オレ、絶対置いてかないから! 置いてくくらいならここで一緒に死んでやる! 分かったか、ばーか! ばぁーか!」
ヒョウガは半ばやけっぱちで、コガラシマルを雑に罵倒した。半ベソをかいていたというのはコガラシマルには筒抜けだったらしい。優しい声色が飛んできた。
「分かった、分かった、ヒョウガ殿……そのような罵倒は控えてはくれぬか、某が如何に愚かであるかをまのあたりにするようで……」
コガラシマルは息をつく。何度目のため息か。瞼が熱い。全身のありとあらゆる箇所が熱っぽく、思考力が削がれていくのが分かる。ヒョウガが頭をぐりぐりと撫でてきた。
「…………」
そのまま意識が落ちていく。コガラシマルはいつの間にか寝息を立てている。緊急事態だ。ヒョウガはゆっくりと息をついて、コガラシマルの額に氷嚢を乗せた。本来睡眠を必要としないコガラシマルが疲弊し眠りについているという時点で相当危うい。彼の体力の回復を待つには、疑似的に冬を展開したこの場所で休み続ける以外の手段がない。
思い出す。
この熱の原因を推測するには、ここに来た理由から振り返る方が早いだろう……。
せっかくなので、と言い出したのはコガラシマルだったが、何か含みがあったようには思える。久々に足を踏み入れたプレメ村から石を投げられたどうしよう、というヒョウガの杞憂は文字通り杞憂で終わったのだった。フロルに頼まれはちみつを用いた料理をいくつかふるまうと、村の人々はとても喜んでくれた。特に野菜の煮物が大人気で、ヒョウガはレシピのメモを残すことになった。メモは即座に複製されて、プレメ村の各家庭に配られた。各家庭の料理担当メンバーからヒョウガはとても感謝され、握手を求める人の列ができていた(「オレ、有名人か何かか?」)。それをほほえましく見ていたコガラシマルは、手近なところにいた村人を捕まえて尋ねた。
「今年の冬は変わりないか?」
「はい! 全然問題ありません! コガラシマルさんのおかげで冬が元通りになりました!」
村人はそう言って笑った。ラスターの嘘はまだばっちり根付いているらしい。村人はコガラシマルを恐れるどころか、秘蔵の酒をふるまい始めた。もしかしたら敬っているのかもしれない……? と思いつつ口をつけると、想像以上に度数が強い。
「これは水割りの方がよいのでは……?」
と言いつつそのまま飲み干すコガラシマルの傍で、先に酔っ払った村人たちは歌を歌い始めた。歌詞から推測するに「プレメ村はちみつ音頭」というタイトルのそれは、夏の方が似合いそうな曲調だった。
「そういえば、お二人はナボッケの町をご存じですか?」
握手会から解放されたヒョウガがコガラシマルのもとに戻ってきたとき、フロルがそう言った。ヒョウガもコガラシマルも首を横に振った。フロルはしゅん、と肩を落とした。少しへこんでいるように見える彼女に対し、ヒョウガが露骨に慌てた。
「その、ナボッケの町とやらに何かがあったのか?」
「いえ……ただ、あの町には冬が来ないらしいんです」
「冬が来ない?」
コガラシマルの眉間に皺がよる。そんなはずはない。ソリトス王国は現在バリバリの冬。どこに出しても恥ずかしくない立派な冬だ。
「ナボッケの町と森とお山には、雪がないんですよ。そこだけぽっかり夏みたいに温かいんです」
「まるでオレとコガラシマルがプレメ村を冬に閉ざしたときみたいになってるってことか?」
「そうなんです。それで特にこちらが困っているというわけではないんですけれど……」
「ふーん。……どうする? コガラシマル」
「どうするもこうするも……冬の精霊としてはそのような町の存在はあまり許せぬが」
「ちょっと調べてみるか」
んー、とヒョウガは地図を確認した。プレメ村からクローヌの町を経由すれば、すぐにナボッケの町に行けそうだ。少し調べるくらいなら問題ないはず。
……といういきさつで町に向かった結果、明らかな異常をヒョウガたちは見た。
「ほんとに、雪がない……夏みたいだ」
馬車から降りたヒョウガに続いて、コガラシマルが降り立つ。が、彼はすぐにその場から飛び上がり、二度と地面に足をつけようとしない。
「どうしたんだよ?」
「……ヒョウガ殿、この地面は熱すぎる」
「熱い?」ヒョウガは眉をひそめて、地面に触れてみた。確かに熱いとは思ったが、夏の大地だってこれくらいの熱を持つ。そしてコガラシマルは、夏の暑い地面でも自分の魔力で温度を下げ、平然と裸足で歩き回ることができる。それができないということは、何らかの魔力が直接地面に流し込まれているのだろう。が、地面の熱自体がこの天候を作っているとは思えない。
「どうする? 引き返すか?」
「この程度の熱量で某の冬は枯れぬよ」
「ほんとに?」
「某からすればヒョウガ殿の方が心配だ。熱中症にならぬよう心得ねば」
「んー、町に入れば多少は楽になるかも」
というヒョウガの期待は、木っ端みじんに砕かれた。
そこは常夏の楽園、ではなく灼熱の地獄。酷暑や砂漠とは比にならない、ただただ邪悪な偽の夏。居心地の悪さすら覚える。町にいる人々が笑顔で往来を行く様子そのものが信じられない!
「コガラシマル、ここヤバいよ!?」
ヒョウガは冷や汗をかきながら、隣にいる精霊に問いかけた。
「……ああ、これはさすがに応える」
変換された魔力。ただ変換されたものではない。悪い方に変換された魔力――つまり、その場にいるだけで体を蝕む類のものが満ちている。
「なんでだ? ただの火の魔力とかであればこんなことにはならないはずだけど」
ヒョウガはとりあえず、手近な日陰に逃げた。コガラシマルも続く。日陰に入れば涼しくなるだろうという予測は残念ながら打ち砕かれる。なぜなら日差しは冬なのだ。暑さの元凶は足元。ヒョウガは慌てて氷のブロックを置いた。これならコガラシマルも上に乗れる……と思ったが、恐ろしい勢いで氷が解け始める始末。
視界の端で何かが動く。ヒョウガははっとしてそちらを向く。今にもぶっ倒れそうな様子のコガラシマルが、うわ言のようにして何かを呟いていた。
「おそらく、おそらくこの、火の魔力を、変換、して……町の、地面……土地に、っ、放出している、何かが……」
ヒョウガの肝が冷える。この短期間で意識障害! ヒョウガがやばい、と思った瞬間、コガラシマルは倒れこんでしまった。足をつけるだけで有害な地面に寝転んだら点滅するのは「死」の一文字。ヒョウガは即座にコガラシマルを抱き上げた。担ぎ上げた、という方が正しいかもしれない。
「こんなの、猛毒ばらまいてるようなモンだろ……!」
ヒョウガは町の様子を見る。中に住んでた人も、外からやってきた人も、楽しそうに歩いている。正気か! と叫びたくなるが特殊なのは自分たちの方だ。普通の魔術師や、むしろ生まれつき魔力を持たない人間(俗にいう「アンヒューム」だ)であれば耐えられる環境でも、魔力の相性が悪すぎる精霊には厳しいものがあった。コガラシマルは少しばかり火の魔力に敏感なのであって……というのも彼が受けている加護は氷と風。軒並み火を苦手とする。
ヒョウガは自分の魔力を最大限コガラシマルに回す。ふらついていた意識が戻り、会話ができるくらいには回復したようだ。だが分かる。ヒョウガにすらわかる。地面から登る容赦のない熱が、魔力が、一気にコガラシマルの方に集中している!
街の一人がふるふると震えた。
「なんか、寒くないか?」
その一言で、その場にいたすべての人間の視線がヒョウガの方に集まった。
「っ!」
コガラシマルが体を起こそうとする。向けられた殺気に反応は示すことができても、対処ができるかと言われたら話は変わる。ヒョウガはコガラシマルを担いだまま、一目散に逃げだそうとした。町の外にはすでに自警団らしき連中が仁王立ちしている。こいつら、自分たちを捕える気でいるらしい!
「あれが原因だ!」
ヒョウガは足裏から魔力を放出し、一時的に薄氷を生成した。よく滑る氷で相手の足を奪う。ヒョウガは普段から氷を作り出し、その上を歩いたり走ったりする都合上、滑らない靴を愛用している。ここの町の住人たちが似たような靴を履いているかというと、答えは明白だ。
町の外周をぐるっと囲うようにして逃げる風に見せかけて、近くの隙間から路地に入る。どうせ氷はすぐに蒸発する。足取りはつかめない。コガラシマルの呼吸が浅いのが気がかりだ。早々にここを出なければ死ぬ可能性だってある。ヒョウガは歯をカチカチ言わせて、逃げるべき場所を考えた。
ふと、視界の左側に大きな影を捕える。巨大、というほどではないがそれなりに大きくそびえる山にヒョウガはわずかに雪を見た。迷っている場合ではない。入り口らしいところには縄と紐が張ってあったが、そんな飾りをどうこう言っている場合ではない!
ヒョウガは氷で台を作り、縄を飛び越えるようにして山に入る。足跡がつかないよう、極力自分が作った氷の上を歩く。吐く息がわずかに白く染まる様子に、安堵を覚えたのは今が初めてだ。
「コガラシマル、生きてる? 生きてるか? 大丈夫? 生きてる? なぁ、返事してくれ」
返事はなかったが、背中をぺしぺしと叩かれた。目に涙がにじんでしまう。もう大声で泣きわめきたかったがぐっと我慢して、山を静かに登っていく。心臓は破裂寸前、喉の奥はジガジガと渇いている。どこか休める場所を、休める場所を……。
そうして歩いているうちに、ヒョウガは一つの小屋を見つけた。
小屋の中は随分と整っていたが、それはつまりここを利用している人がいるという意味になる。小屋の扉を乱暴に開け放ったヒョウガは、コガラシマルをひとまず床に横たえた。
「ヒョウガ殿、申し訳ない。このような醜態を晒すとは某一生の不覚……」
「大丈夫、ひとまず休もう。まずは回復、な?」
ヒョウガはあちこちを物色した。布団か何か、何もなければ布でもいい……扉の中、クローゼットか何かの奥に簡易的な布団があった。固い床に寝転がるより遥かに快適だ。
…………。
一通り思い出してはみたが、分からないことばかりだ。先ほど一人変な奴が来た以外にこの山に気配はない。しかし逆に言えば、ああやって変な格好をして変な呪文を唱えてこの山に登る風習か何かがあるのだろう。変な紐やら縄で入り口が封鎖されていたことを考えても、この山はおそらく霊山か何かの類かもしれない。だとすれば万々歳だ。冬の気配が若干でもここにあるかぎり、コガラシマルはゆっくりと回復に向かうはずだから。
呼吸は落ち着いている。体温はまだ高い。ヒョウガは自分の顔を両手でぺちぺちと叩いた。弱音を吐いている場合ではない。日輪島から脱出する際、コガラシマルはヒョウガのことを守り切った。だから今度は自分の番だ。
窓の外はまだ明るい。あの変な奴の親戚みたいなのが来てもおかしくはない。ヒョウガはコガラシマルの傍にいたまま、壁に耳を当ててみた。外の音を聞き取ってみようとしたが、風の音しか聞こえない。がさがさと、木々を揺……がさがさと? ヒョウガは飛びあがった。コガラシマルが身じろぎする。
「ヒョウガ殿?」
まるで何かにうなされているときの声色で、コガラシマルがヒョウガの名を呼んだ。ヒョウガは極力冷静にふるまうよう努めた。
「コガラシマル、誰かが来る。近い」
コガラシマルも飛び起きた。普段使っている愛刀を手に取るが、しかしすぐに思い直してもう一本の刀に持ち変える。
「あの町の連中か?」
「分からない、けど人だと思う」
「数は……三人ほどか?」
ヒョウガは唾を飲みこんだ。
「多い、な」
拳を握り締める。三人ほど、というのであればある程度動き方も決まってくる。ヒョウガは意を決して、そっと戸の方へと移動した。声が聞こえる。何を言っているかは分からない。つまりあの変な服を着て変な文言を唱える風習の人たちだ。息をひそめる。扉に手がかかる気配が見える。相手が引いた瞬間、不意打ちの一撃を食らわせる!
「ヒョウガ殿、右だ」
「……!」
「相手はこちらの存在に気付いている節がある。正面ではなく、右に」
見ると、コガラシマルも刀を手に待機している。いつも使っている愛刀は魔力を食らう性質があるため、弱っている今のコガラシマルには扱えない。
「某は左を」
ヒョウガは小さく頷いた。コガラシマルの気が高まっているのが分かる。研ぎ澄まされた殺気に対して、ガタリと音がして扉が開く。
ヒョウガの魔力が一斉に爆発した。
気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)