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喧嘩の仲裁に入る猫

猫はしばしば、人間の喧嘩の仲裁に入る。
私たち人間はそのたびに、猫の偉大さに気づく。猫はこの場で誰がいちばんの「弱者」かを瞬時に見極めているようだ。そこに損得勘定はない。



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先日、母と大喧嘩をした。言い争いがはじまるや否や、猫は「そこのドアを開けておくれ」とニャーニャー鳴きはじめる。
喧嘩はヒートアップしていたが、母がその扉をあけると、猫はするっとわたしの前に座り込んだ。母のほうを向いて、箱座りをする。

どういうわけか、わたしのほうが劣勢と見たのだろう。わたしとともに母と対峙する構えである。わたしの盾となり、母の言い分を代わりに聞いてくれるということなのだろうか。
たしかに──どちらが正しいかはさておき──わたしが怒られているというような構図ではあった。猫はそれを瞬時に察したのか、こちらの側に立ったようだった。

そのときは内心、こんな「畜生」に味方されてたまるか、と思ったものの、あとから考えると、なんとやさしい生き物なのだろう、と尊敬の念を抱く。

猫は特別、誰の味方ということはない。
よくよく考えてみると、猫はわたしより父や母と過ごす時間のほうが長い。いつも父とともに寝ているし、ご飯やトイレの世話は母が管理している。
もし猫に損得勘定みたいなものがあるなら、自分と距離の近いものの味方をすることだろう。しかし、あのとき猫はそうしなかった。

わたしは猫に救われたのだろうか。
たしかに、猫はわたしのヒーローであった。
それからは猫のためにも、母と喧嘩することをやめようと思うのだった。

思い返せば、ずっと前にも母と言い争いになったときに猫はニャーニャーと鳴き、わたしたちのほうへ来ようとしていた。

なんなのだろう、家族の仲が悪くなるのが嫌なのか、なんの正義感なんだろう。
家族が喧嘩をして、猫の人生にどんなデメリットがあるのだろう。
わたしにはわからない。猫のことはさっぱりわからない。

だけど、あのとき猫がわたしの側に立ったという事実だけは忘れない。ただの損得勘定ではなく、なにを迷うこともなく「小さくされたもの」の側に立った猫。

「喧嘩なんかするな。クソつまらねえじゃねえか。人間なんだから話し合えよ。どんなときもわかり合おうと努力せよ。諦めるんじゃねえ」

猫はそんなことを伝えたいのだろうか。
いや、猫が伝えたいことなんて、なにひとつないだろう。ただあの瞬間、そうしたかっただけだろう。

人間の完敗であります。ありがとう、猫。


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2024.1.31 改題、加筆修正

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