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No.5 柑橘ビックバン 【教えて!ゆずぽん】

「大学では英語学と英語科の教員免許の勉強をしながら、塾講師としても10年間英語を教えてきました。TOEIC は900点を超えており、去年英検1級も合格しました。現在はオーストラリアのケアンズで英語での生活を満喫しながら、英語好きな日本人を増やすべく現地での英会話強化合宿企画を設計中です。」


誰の話!?!!!!?

ざっくり15年前くらい前に戻って、当時中学生だった私にいきなりこんな自己紹介をかましたら、多分このリアクションが返ってくると思います。自分で書きながら、また思いました。

え、これ誰の話?

嘘じゃありません。だってなんかこれだけ読んだらめっちゃ英語好きな人じゃないですか。もし私の周りにこんなプロフィールの人が現れたら、「帰国子女なの?」とか「筋金入りの英語好きっぽい」とか、「幼少期から英語の英才教育を受けたんだろうなー」と思うことでしょう。個人的にこういうスキルを羅列するような自己紹介は好みではないので、「こいつ英語しか取り柄がないんか」とも思ってしまうかもれません。性格悪すぎかな。自分のことだからいいか。

え、「これ書いてるゆずぽんとかいう柑橘系のお酢を名乗ってる奴って、英語好きなんでしょ?」って?とりあえず一個言わせてくれ、私の名前の由来はポン酢じゃない。本題はそこじゃない。

…英語好き……

……えいごずき……

………Eigo Suki……

…………I like English……

今は、ね!!!!!!!!!!!!

てな訳で、今回は兼ねてから書こうと思っていた、一番よく聞かれる質問の答えをお教えします。

なんでそんなに英語嫌いだったのに今そんなんなの?

みたいな感じのやつです。それではお楽しみください。
題して、「私と英語〜中学で出会った腐れ縁を受け入れるまで」正直もうこれが答えなんだけどね。

次の授業英語だー

中学生、高校生の時、英語の授業中に私が考えていたことを教えましょう。

授業楽しいなー!英語って面白いなー!
どうしたら気配を消して、先生から指名されずに50分やり過ごせるのか

はい、この一点だけでした。それはもう超真剣にペンを2本十字架の形にするとかなんかよくわからんおまじないまでしてた。そう、何も隠さん、学生時代の私は英語が一番の苦手科目だったのです。定期テストだけは、記憶力にものを言わせて丸暗記で乗り切る日々。まだ脳みその容量に余裕があった十代だったからこそ成せる力技です。社会科目も全般的にアレルギー気味だったんですが、暗記だけじゃどうにもできない英語が、一番点数が取れない科目でした。人生においてパワープレイヤーなのは相変わらずですが、これはもうこの年になるとしんどい。もう2度とあんなことやりたくないです。

当時好きだった子とテストの点数で勝負していて、国数英理社の5教科中4教科返却時点で4点差で私が勝っていたのに、最終的に大差で負けた、なんて甘酸っぱいんだかほろ苦いんだか、ラズベリーダークチョコレートみたいな思い出もあります。もちろん最後の科目は英語でした。

その時私の隣の席で勝ち誇っていたその子は、今は私の隣で5歳児相手にマリカーで勝ち誇っています。なんてTwitterでバズるような素敵なオチはありません。残念でした。
彼の現在など、知る由も興味もありませんが、1つだけ言いたいことがあります。

いま英語の点数で勝負したら絶対負けない。

「お前は……英語さえなぁ……」

中学の卒業式の日、担任の先生からの最後の言葉です。今思い返すと結構失礼だな。指導教科は英語。高校入試に関しての助言は感謝していますが、この言葉に関しては一言言いたい。

担任の科目が結局一番苦手で嫌いでごめんな。

このあと話しますが、この先生にはめちゃくちゃ感謝していることもあるのです。だから流石に「うるせぇな!!」で終わらせるわけにもいきません。

時は平成、英語が科目として本格的に始まるのは、中学入学と同時でした。先見の明のある親の元に産まれた友人たちは、小学生のうちから英語を習っている子もちらほらいるかなと言ったところ。習い事までは行かなくても、小学6年生になったらちょっと予習がてら勉強しておく、くらいの子は割といたような気がする、そんな時代のことです。

高校受験に向けて勉強しようと、自室で独り漫画との誘惑に闘う14歳を「大富豪やるから居間に降りておいで」と内線で呼びつけるような母上と、教育は家のことなので基本母親に口を出さない父親のもとで育った私は、中学入学早々ものの見事に授業についていけずに英語が嫌いになりました。某通信教材の中学英語準備講座みたいなのだけは1ヶ月だけやらせてもらったような気がしますが、12歳の危機感なんてたかが知れてるもん。

くもんが、子供の発達段階に合致しない先取り学習をさせていても、やらせる価値があるのは、先取りしてあることで学校で子供が「僕はできる子なんだ!」と”誤解”し、それがプラシーボ効果的にはたらくから、なんて話も小耳に挟んだことがあります。私はその逆を言ったわけですね。みんなが先取りしてるところにまっさらの状態で放り込まれたので、「私は英語ができない子なんだ!」と思い込んだわけです。

英単語が覚えられない!!!

これは中1の時の話です。
家でぐずりちらし、半ば飽きれ半ばキレた母親に

自分の誕生月くらい英語で書けないと恥ずかしい。筆記体教えてやるから、それ使ってノートにFebruaryって丸2ページ練習しろ。それでも覚えられなかったら金輪際英語がどんなにできなくても何も言わない

と謎の啖呵を切られ、「わかったやる!そんなことしたって覚えられるわけないもんね〜!!」と嬉々として練習した結果手が覚えてしまうという策士の母とただのアホの子な娘が爆誕した、なんてぽんこつエピソードがあります。そんなわけで私は、筆記体が書けるようになりました。あともちろん、Februaryも。塾講師になってから、生徒たちの名前を筆記体で書いてあげて人気を取りました。意外なところで役に立ってる。

てかこれ書いてる時にuとaの間にもrが入る気がしてしまった。入んないよね。入んないです。(心配でググったよ!)

そんなわけで、英語は苦手なのに母との賭けに負けたせいで英語から逃げることも叶わなくなったわけです。当時はまだ母上と徹底抗戦するほどの反抗期ではなかったので。
でもだからと言って「じゃあ全部の単語2ページずつ書けばいいんじゃ〜ん」なんてコロッと苦手意識が克服されるほどの脳筋でも(当時は)なかった私は、結局中学3年間、英語からはソーシャルディスタンスをとり続けたのです。で、中学卒業時に極めて不名誉な最後の言葉を担任から賜るに至る、と。

「国公立落ちたら働け」

これは母上からの至上命令ですね。高校受験でも、大学受験でも一貫していました。
理由は単純明快、お金がない。
学資保険かけて、奨学金を借りて、国公立が通える国公立大学が限界だからね、進学したいなら勉強しろとずっと言われていました。ある意味真っ当だよな。進学したいなら勉強しろ。義務教育以上の教育機関に"行かされてる"と思ってるような子の親よ、全員きけ。そしてこのメンタルを持て。そして学歴社会の呪いからその子を解き放て。その子も人間だぞ!ってね。
私の脳内に「右腕の呪いに取り殺されかかっている過激派」が急に通りかかりましたね。いやぁ失敬失敬。つい本音が。

志望校選びも、母には「学力に合ったところ」なんて発想はなく、「市内に3校も高校があるのに、なんでわざわざ隣の市の、しかも倍率高いとこ受けてリスク取るの?(キョトン)」て感じでした。ある意味過激派。

高校というのは、中学と違って近さよりも学力で選ぶんです、お母さん。娘さんの可能性を信じてあげてください。ワンランク上の高校に入れます。その高校を安心して受験するためにも、入試本番の練習として、近くの私立を受験させてあげてください。

中3の三者面談での担任の言葉がなかったら、私も母の言葉に別段疑問を持たずに市内の高校に入っていたことでしょう。うちお金ないんだし、しょうがないよね、って。
今思い出してもちょっと嬉しくて涙が出そうになりますね。前章の悔恨を口にしたのと同一人物だと思い出すとその涙も引っ込むけど。合格報告を聞いてびっくりしてたけど。信じてたんじゃなかったんかい。
それでも、自分の親に対して赤の他人である大人がここまで言ってくれたこと、「この子はできる」と信じてくれていたことは、今でも感謝しています。

親よりも一周外側にいる大人の方が、子供の可能性を見出していたり、信じていたりするというのは良くあることだというのは、塾講師として保護者面談をするようになってから気がつきました。

そんなわけで、市外の公立高校の受験には、渋々説得に応じた母でしたが、滑り止めに関しては、「受かっても行かせてあげられるお金ないよ」と散々言っていました。公立落ちたら中卒でも働いてね、と。私に本気を出させるための作戦だったのか、本気だったのか、今となっては興味も訊く気もありませんが、半々だったんだろうなーとは思っています。まあどっちでも、みたいな人なので。

弟妹のいる長子長女としても、私にばかりお金を使わせるのも違うしなーと思っていたので、そんなもんなんだろうと、特に疑問も持たずに志望校を選んでいました。だから私は、生徒として塾に通ったこともなければ、大学受験で滑り止めを受けたこともありません。よくそんなんで塾講師として10年も受験指導してきたな。

高校受験に関しては、何が良くなかったって、当時の入試制度です。高校には、学力(主に英語)が追いついてないのに、「口と頭の回転力」だけで合格しました。

当時の埼玉県の入試は前後期制になっていて、後期が通常の5教科の科目ごとのテストでして。じゃあ前期はなんだったかというと、総合学力検査とかいう、おもしろ問題と面接だったんです。
おもしろ問題ってどんなかというと、「英語の長文を読まされたのに問1は二次方程式を解かないといけない」とか、「現代文の読解の中に出し抜けに家庭科の知識が問われる」とか、なんかそんな感じの総合格闘技もびっくりの9科目ごった煮100点満点のテストです。いま振り返って思うけど、「中学生としての一般教養」を全方位から問われるようなものですね。

と、いうことは、です。
大して英語できなくても、他のとこでカバーできちゃったんですよねー……そして面接に関しては、当時からそれなりに口と頭の回るクソガキだったので、特になんの心配もしていませんでした。ここへの自信はいまだに破られていなくて、まずいなーと思っています。本当に。

しかも、厨二病特有の謎の自信に満ち溢れていた私は、5倍以上などという異常な倍率にも怯むことなく、前期試験で志望校を突破してしまったわけです。合格発表日が誕生日だったこともあって、「流石に神様も"誕生日プレゼントだよ!もう1ヶ月英語と向き合えるどん!"」なんて鬼畜なことしねーだろと純粋に(?)思っていました。そして残念なことに、私の自信は打ち砕かれなかったのです。

その結果英語の偏差値は37。順位は320人くらいいるうちの280番台と、まあまあの学力ド底辺スタートを切ることになったわけです。

大学入試って英語必須やんけ

そんな私が英語をやり直そうと決心したのは、実は「必要に駆られて」でした。なんでかはそこまではっきりしないものの、とりあえず大学生にはなりたかったんです。進学しちゃった高校が県内の進学校を名乗る高校の末席にしがみついてるようなところで、大学進学が卒業後の進路の1位だったから、まあ私も例に漏れない、と何も考えてなかったんでしょう。みんな行くって言ってるし、私もそうなんだろうなー、くらい。

その発想がちょっと非現実的かも知れないと現実を突きつけられたのが、高校2年の冬。人生一発目のターニングポイントと呼んでも良いかも知れません。定期試験での英語の順位がそれはそれは悪かった。ビリではなかった気がしますが、ワースト3には入っていました。

何を今更、と思うわれる方もいるかも知れません。でも、当時の私にとって、320人という学年全体の母数はイマイチ現実味がなく、一方でクラスメイトは全員顔と名前を知っているわけです。その三十何人の中で、私より英語ができない奴が一人か二人しかいない。これはとてつもなく「リアル」でした。

この現実を突きつけられる直前、裏ではこんなことも起こっていました。私が学生時代に、まともに反発した数少ない大事件。2年前に書いた記事なのでちょっと小っ恥ずかしいんですが、晒しておきます。

「カンニングしたんなら早く言えよ」

リンク先の記事の出来事と合わせて、高二の冬が私の人生の中で一番鋭角な方向転換だったと言っても過言ではないでしょう。341度位回ったんじゃないかな。ほぼUターンですやん。

  • 大学生にはなる気がしてる

  • でも家的に通える国公立しか無理

  • でも学校でも最低レベルに英語ができない

あれこれ致命的なのでは。
「こりゃダメだ英語やんないと」いいかげん逃げきれないことを悟ったのはこの時です。その成績が返却された日の夜、母に頼んで本屋さんに連れて行ってもらい、中学英語の問題集、小学生の漢字ドリルみたいに薄くて小さいやつを買ってもらいました。いきなり分厚いやつなんて、その重さで私のやる気など簡単に叩きのめされてしまう気がしたからです。

始めた時は、「これはペンです」と言う英文すら a を忘れて不正解という体たらく。3ヶ月後には大学受験生になる一応進学校を名乗る高校の文系生徒が、です。さすがに恥ずかしくて学校では出せず、家でこっそり毎日進めていました。

みんなが5教科7科目にバランス良く取り組む中、私は5ヶ月ほど、言うなれば7倍英語に時間を突っ込みました。先の引用記事で話した通り、部活を早期退部したので、下手したら10倍以上かも知れません。その結果、進級して最初の模試の結果を見た時は、何かの間違いかと思いました。

偏差値72

ん????え、先生結果返し間違えてない?学年順位英語6位はおかしくない????こないだクラスですらしたから数えた方がはるかに早かった人間よ???この学年で私より英語の点数が良かったやつが5人しかいない計算になるよ?????ん?????

私が一番びっくりした。「やれば上がる」を一番実感したのはこの瞬間。

そして、高校1年の時の恩師(現代文)から、見出しにした言葉を賜るに至ります。

してねぇよ!!!でも自分でも気づかずしちゃったのかなと思ったよ!!!

英米文化学科を受けます!

この言葉を聞いた件の恩師は、雑巾を濯いでいた手も蛇口もそのままに数秒間固まってましたね。それもそのはず、彼の中では、一年の時の私は「国語はめちゃくちゃできるのに英語が超絶残念」だったので。ちょっと1回なんか模試でバグった結果を出したとはいえ、彼のリアクションには「無理もねぇわな」の一言です。私の教え子が同じこと言ってきたら、「おっ、いいじゃん!志望校きまっ…………………えいべい……???お前が……????」ってなる。

考えても見てくださいよ。数学が超苦手で、成績もめっちゃ悪かった子が、いきなりカンニングを疑いたくなるような結果を叩き出したと思ったら、大学でも数学を勉強するとかいきなり言い出すんですよ?

怒りじゃないのはわかるけど何かの感情で我を忘れてる!止めないと!!

って周りがなるのは致し方ないことです。うん。
ただ悲しいかな、暴走スイッチが入った時の私は、誰にも止められないのです。
高三での保護者との三者面談では、母に予め箝口令を敷いておきました。中三の時とは違い、実は高三の時の担任のことは毛嫌いしていたんですよね。「進路のことは娘に一任してるので。うちとしては国公立に落ちたら働かせるだけです。」以外のことは何も言わせませんでした。

その担任のことが嫌いすぎて、授業前になるとフラッと保健室に立ち寄り、次の休み時間がくるまで看護教諭とおしゃべりに興じてたんですよね。卒業から数年経ってその教諭と偶然再会したときに、「まだ破られてないわよ、年間保健室利用回数!」とニヤニヤ言われたのは記憶に新しいです。ここだけ読むとだいぶ不良ですね。金髪にでもしとけば良かった。遅ればせながら今やってるけど。毎サボり授業終わり5分前になると「今日はお腹が痛かったんだっけ?」とかとぼけたことを言いながら保健室利用届けを書いてくれた先生には今も足を向けて眠れません。今は南半球からだから簡単。

保健室サボり魔の話はまた別の機会に書くとして、腐れ縁の幼馴染こと英語に話を戻しましょう。
わかるようになると面白いし、できるようになると、もっとやりたくなる。
これが成功体験というやつですね。運よく、大学受験の時には「どんなに私の答えがトンチンカンでも呆れも笑いもせずに教えてくれるおじいちゃん先生」と巡り会えたおかげもあり、私はますます英語に向かって猪突猛進していったわけです。さながら首を取り返さんと追いかけるデイダラボッチのごとく、冬休みもその先生の在室予定を聞いて毎日のように5階にある英語科教員室に押しかけていました。年末年始まで、学校に来てくれてました。多分ほぼ私のためです。他の生徒はほとんど見かけなかったので。
そして見出しの通り、その勢いのまま英語の教員免許が取れる文学部英米文化学科を志望し、なんとびっくり合格しちゃったわけなんですね。

わからなかったから、教えられるんじゃね?


この発想と、この着想に基づいたバイト選択が、英語講師ゆずぽんの始まりでした。学校英語というものが階段状になっているとしたら、私はその階段だけは1段足りともセンスとか才能みたいなもので跳ばすことはできない子でした。だから、特定の1段の上り方も、どの段差が大きくてどれが小さいかも、わかるし、大きい段差を眼前にした時の、段差が壁にしか見えない絶望も、知っている。

逆に、あまり苦労した記憶なくできたものは、なんでできたかとか、どうしてこれが答えなのかと聞かれても、うまく説明できないんです。「え、だってそうじゃん」になっちゃう。でも私の場合、英語にはほとんどそれがない。ずっと「いやなんでそうなるんじゃ!」ってタックルしまくって解決してきました。だから、英語が苦手で、でも勉強しないといけない子に、精神的にも寄り添えるし、その上で説明もしてあげられるし、でもロールモデルにもなり得ちゃったりするんじゃないか、と。

こうして、冒頭のプロフィールに戻るわけですね。
英語嫌いと自称するプロ英語講師の爆誕です。タイトルの意味がお分かりいただけたでしょうか。しょーもな、と思った方はぜひいいね押しといてください。

講師になってからのことは、書き始めたらそれこそ10万字とかいきそうなんで、じっくりお話ししていこうかと思います。何はともあれ、ここで書いた「英語との馴れ初め」が、今の私を作っています。

今この瞬間も、この選択に後悔はありません。
私を一番苦しめたものが、今一番好きなものです。
これだけ読んだらとんだドMじゃん。

Thank you for reading.
Hope to see you soon!


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