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《概念の分解》仏教ってなんだろう⑤

こんにちは😊
ご無沙汰をしております。

昨年末と年始は仕事に明け暮れ、その後に体調を崩しダウン。
なんだかんだとしているうちに、確定申告の季節となり、更新が滞っておりました。
今週から再開しますので、よろしくお願いいたします。

前回まで

時間が空いてしまったので、頭に気合を入れながら思い出すと、人生で必ず起こる【苦しみ】は防ぎようがないが、その苦しみによって【自分自身の心が壊れる事】、これを防ぐ事が仏教の目的の一つであるという話でした。

この【自分自身の心が壊れる事】を防ぐ為には、まず【なぜ我々は、苦しいを苦しいと感じるのか】を理解しなければならず、私の失恋を例に苦しみの原因を掘ってみました。

結果、本当の意味で相手を思いやる事が出来れば、それは【感謝】に。
相手の事を思いやっているつもりが、実は自分自身の事を考えているだけの場合は、【苦しみ】が生まれるのではないかと話が進み、この自分自身を優先的に考えてしまう原因は【煩悩】にあると仮定し、前回は終わりました。

今日は、この【煩悩】について考え、今回のテーマを終えたいと思います。

煩悩とは

煩悩を一口で説明するのは困難ですが、なるべくコンパクトにまとめると、執着や我欲などの自分自身を優先に考える欲望の総称です。
この【煩悩】が存在する事で、苦しみや不安を生み出すと考えられており、この【煩悩】をコントロールする事は、仏教における最優先課題であると同時に最終目標でもあります。

誤解しないで頂きたいのは、仏教において【欲望】は否定されません。
誰かを幸せにしたい、誰かの助けになりたいと思う気持ちも【欲望】であるからです。

良い結果に繋がる欲望は誰かを幸せにするでしょうが、悪い結果に繋がる欲望は誰も幸せにはしませんし、自分自身も悪い結果となるでしょう。

例えば、5歳くらいの子供が【お菓子を欲しい】と思ったとします。
それを母親に伝え、母親が【良い子にしていたら買ってあげる】と言います。
それに対し、上手くできるかどうかはさておき、母親の手伝いをしたり、自分のおもちゃをキチンと片付けたりすれば、【ご褒美】として【お菓子】が手に入るかもしれません。

しかし、【今すぐ欲しい!】と欲に囚われ、お菓子に執着し、スーパーなどで泣き喚きその場から動かないという行動をとった場合、母親からは怒られ肝心のお菓子も手に入らないでしょう。
よしんば、根負けした母親がお菓子を買ってくれたとしても、次も同じ方法で手に入るかと言えば、無理でしょう。
鉄拳制裁を喰らうやもしれませんし、『もう知らないからね!』と、母親は1人でスタスタと行ってしまい、激しい孤独に襲われるかもしれません。

前者の様に、お手伝いをする→ご褒美にお菓子を買ってもらうという方法が定着すれば、今後も欲しいものが手に入る可能性は高まります。

ただ、5歳の子供にお手伝い方式を伝えても、実践は難しいでしょう。
それは、まだ心が育っておらず、自分の中に生まれた【お菓子が欲しい!】という執着や我欲、つまり煩悩をコントロール出来ないからです。

しかし、我々大人がコントロール出来ているのかと言えばそれは否で、5歳児と違うのは泣き叫びはしない事と、自分のお金で多少の欲しいものが買える事くらいです。

5歳の時はお菓子で済みますが、小学生になればゲーム、中高生になれば携帯、大人になればハイブランドアイテムと、我々の欲望はとどまる事をしりません。
そう考えれば、物欲でさえ我々はコントロール出来ているかと問われれば、出来ていないのではないでしょうか。

少し脱線しましたので、話を元に戻します。

まとめますと、【お菓子が欲しい】という【欲望】自体は自然な事なのですが、お菓子に【執着】し過ぎると判断を誤り、良い結果には恵まれません。
執着を手放し、先程の様に行動すれば、良い結果に結びつきやすいという話です。

仏教は、【お菓子を欲しいと思わなくなる】事を目的にしていると思われますが、それは違います。
【お菓子は欲しいが、それに振り回されない】事を目標にしています。
それが、煩悩のコントロールであり、その延長線上に、【苦しみに振り回されず、自分自身の心を壊さない】があるのです。


認識

この【煩悩に振り回されない】は、非常に難しく、それが出来るのであれば、もはや悟りを開いたも同然なので、私自身は生きているうちに到達は出来ないのですが、それでも目標にし続ける中で、必要だと思うツールがあります。

【苦しみから抜け出す】が目的。
【煩悩のコントロール】が手段です。
そしてこの【煩悩のコントロール】に必要な方法が、【認識】です。

【認識】とは、【その事柄をどう捉えるか】です。

例えば、今の季節として、外を歩いていた時に急に雨が降ってきたとします。
予報にはなかったので、傘は持っていない。
雨宿りが出来る場所まで、少し走らなければならないとした時、それを嬉しく思う人は居ないと思います。
『予報では言ってなかったのに!』『濡れて寒い!』『コートが濡れる!』と、個人差はあれどもネガティヴに捉えるのではないでしょうか。

しかし、これが梅雨明け8月頭で、海水浴に行っていた場合なら、どうでしょう。
日光はサンサンと降り注ぎ、じっとしていられない程の暑さ、これが普段の仕事中であれば耐えられないですが、今日は目の前に海。
勢いよく飛び込み、ひとしきり遊んだ後、浜辺に戻ります。
身体は塩でベタベタ。踏みしめる砂浜は思わず飛び跳ねてしまうほどの熱さ。

そこに、スコールの様な雨。
濡れて困るものは、車の中なので大丈夫です。

激しい雨は身体に付いた塩を洗い流し、歩けないほどの熱を持った砂も苦ではなくなる。
BBQの用意でもしていた場合は大変ですが、そうでなければ爽快に感じるのではないでしょうか。

私であれば、何が面白いのか分からないほど笑い転げ、雨を浴び続ける気がします。

何をお伝えしたいのかと言うと、【雨が降る】事自体には【善悪はない】と言う事です。

2月の外出中と、8月の浜辺。
【雨が降る】という【現象】は【受け取る側次第】で、【善】にも【悪】にもなり、【快感】にも【不快】にもなる、そして【喜び】にも【苦しみ】にもなり得るのです。

我々は、いつも【認識】します。
この【認識】は、個人の自由です。
喜びたい人は喜び、怒りたい人は怒ります。

【認識】次第で、私たちが見る【世界】は変わります。

もし仮に、2月の外出中の雨を『冬の雨も好きだなあ』『行った事がないカフェが近くにあるから、コーヒー飲みながら、眺めよう』と【認識】する事が出来れば、少なくとも【急に降り出した雨】に【苦しむ】事は、ありません。
濡れたお気に入りのコートも、『乾かせば良いだけだし』と【認識】出来れば、残念に思う事もありません。

これは、【濡れずに目的地に着きたかった】と【お気に入りのコート】への執着が無い状態です。

この例は、よくある話ではありますが、人生には今までお伝えした様に、【必ず訪れる苦しみ】がありそれに対する【執着】は、コントロールが不可能に近いほど難しいものです。

先の北陸の地震で、奥様と子供さんを喪った男性のお話をメディアで拝見しましたが、その男性に【ご家族】と【その幸せだった記憶】への執着をコントロールしてください、そうすれば【あなたの心が壊れる事は防げます】とは、絶対に言えません。

言えませんが、仏教が我々に伝える【苦しみから抜け出す方法】とは、そう言う事なのです。

それは、【忘れる】事でもなく【風化】を待つ訳でもなく【思い出さない様にする】事でもなく、浅学な私は言語化が追い付きませんが、それらとは違う領域なのだろう事だけが、朧げながら感じるのみです。

【認識】だけが【自分の世界】を変える。
それだけは、分かります。

そして、その【認識】に触れるには、コントロールするには、どうすれば良いのか。

また新たな疑問に辿り着きましたが、それはまた違う機会に。


最後に

noteを通じ、改めて仏教を見る事ができ、また沢山の方にお読み頂き、深く感謝いたします。

僭越ながら仏教に関して書かせて頂きましたが、今の私の知識経験では、これが精一杯だろうと思います。

間違った解釈や取り違いなどもあるかもしれませんので、ご指摘等いただければ有り難く思います。

認識をコントロールする事など、当然私には出来てはいませんが、少しでもマシな人間に近づける様、今日からまた心新たに流れていきます。

上手くまとめられたかどうかは心許ない限りですが、【仏教】という日本の歴史とともに歩んできた概念に、ご興味を持ってくださった方がいれば、嬉しく思います。

次のテーマは決まっていませんが、また来週投稿させていただきます。

それでは、また😊
ありがとうございました!




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