なぜ頑張って勉強しても成績が上がらないのか

私は一度、大学受験を失敗し次の年に合格しました。
現役生の終わりの頃、受験間近に迫ったタイミングで私は「あること」に気付きました。
もっとはやく気づいていれば結果は違ったのかもしれません。
今となっては後悔していないです。
もしかしたら誰かの参考になるかもしれません。

問題を多く解こうとするな

私は大学受験を迎えるまで、所謂「真面目な」学生でした。
予習をして、宿題をやり、テスト勉強にも時間をかけて、良い点数を取っていました。
学校の中では成績上位の学生でした。
その頃はとにかく多くの問題に触れ、正解すれば安心し、不正解であれば不安になり正しい解答を理解していました。
それが勉強であり、これまでの成績を出していた手法だったのです。
なんの特徴もない、どこにでもいる「普通の学生」といったところでしょう。
ある日、志望校の模擬試験を受けてみると、結果は悲惨でした。
「井の中の蛙」だったのです。
努力が足りなかったのだと、これまでと同じやり方で量を増やしました。
今振り返ってみても、頑張ってはいたと思います。

しかし、受験間近の2度目の模擬試験でも、結果は同じでした。
そして受験間近になり、その時にこれまでのことを思い返してみました。
かなりの時間を費やし、多くの問題と触れ合ってきた。
だがしかし、結果は良くない。
その時、なにかおかしいと思ったのです。
間違ったことに時間と労力を注ぎ込んだような気がしたのです。

多くの問題に触れ、復習するという勉強方法では限界に来ていたのでしょう。
ある一定のレベルで止まっていたのです。

正解から学べ

私が受験間近でふと気づいた「あること」とは、「正解から学べ」ということです。
それまでの勉強方法は、「多くの問題に触れ、多く間違え、なぜ間違えたかを考え、次は同じ失敗をしないようにする」ことでした。
もちろんこの勉強方法もある程度のレベルまでは自分を引き揚げてくれるでしょうし、学校で習う勉強は基本的にこのような手順だと思います。
これは、「なぜ間違えたか」を考えます。
逆に、「なぜ正解したのか」を考えることにも意味があるということに気がついたのです。
しかし時既に遅く、受験に失敗しました。
次の年には、このことに気づけたおかげで大きく成績が伸びたと思っています。

「なぜ正解したのか」を考えるとは、どういうことでしょうか。
それは、自分の思考プロセスを最初から最後まできちんと認識するということです。
問題には、複数の障害が設定されています。
問題を解くということは、その障害を解決していくことです。
正解した時の自分の思考プロセスには、「どのようにその障害を解決したか」が必ず含まれているはずです。
そのプロセスをさらに深堀りしてみましょう。
その問題を解くために、ある「知識」が必要でそれを知っていたから解けたのだとしたら、「なぜそれを知っていると解けるのか」。
またはその問題には、ある「定石」があり、それを用いると解けるのだとしたら、「なぜそれが定石となっていて、なぜそれを用いると解けるのか」。
さらには、「これを使えば解けると、なぜ自分は思うことができたのか」。
これを繰り返していくと、最終的にはこんな感想が出てくるでしょう。
「なるほど、結局この問題はこういうことだったのか」。
このプロセスは、具体から抽象へ思考するプロセスです。
目の前に具体的に存在する問題から、本質的な部分を取り出して、一言でいうとこういう問題だったのね、という抽象的な概念を導き出します。

ではなぜ抽象的な概念が重要なのでしょうか。
抽象的な概念というのは、「使い回しが効く」考え方です。
「使い回しが効く」ということは、見た目上は異なる問題であっても、基本的にはある1つの考え方をベースとして解くことができるということです。
ここで、逆に問題が生まれる過程を考えてみましょう。
全くもって新しい問題を考えることは困難です。
また教育という性質上、問題とは、何かをベースとしてその上でどれだけ応用できるかを問うものです。
従って問題が生まれる過程では、必ず何か「基本的な部分」をベースとし、そこから派生させる形で作られているはずです。
「基本的な部分」とは、抽象的な概念そのものです。
問題とは、「基本的な部分」+「派生させた部分」の足し合わせに過ぎません。
抽象的な概念を身につけていると、今目にしている問題は、どこまでが「基本的な部分」で、どこからが「派生させた部分」なのかが判別できるようになります。
「派生させた部分」というのは、あくまで装飾です。
良くある問題、どんな問題集にも載っている問題と見かけ上違うように見せている飾りつけに過ぎません。
問題において本当に重要な部分は「基本的な部分」、抽象的な概念は何かということなのです。

何を学んでいるか意識する

問題とは、「基本的な部分」+「派生させた部分」の足し合わせに過ぎないと言いました。
「基本的な部分」は、問題1つ1つに固有なものではなく、問題が変わっても共通するものです。
つまり「問題を多く解く」ということは、「派生させた部分」を多く見ることです。
逆に、「正解から学ぶ」ということは、「基本的な部分」を見つけることです。
学校の試験であれば、「派生させた部分」のパターンもある程度絞られているので、良い点数を取ることができるでしょう。
しかし、大学の試験であれば、よくある派生パターンはあまり出てこないでしょう。
出てきたとしても、その問題で他の人と差がつくことはなく、誰でも解けるでしょう。
あまり見たことのない派生パターンが出た時に、解ける人と解けない人の差はなんでしょうか。
それは、「この問題は結局のところあの問題と同じことを聞いてるな」と見抜けるかどうかです。
「派生させた部分」に惑わされず、「基本的な部分」を見抜けるかどうかです。

もちろん多くの問題に触れ、多くの派生パターンを体験した上で、その複数の問題に共通する「基本的な部分」を見つける勉強方法もある程度までは有効です。
しかし、私のようにあるレベルで止まってしまう可能性があります。
私はそれに気づかず、長い時間をかけて「派生させた部分」をたくさん見ていたわけです。
自分が今見ているものは「基本的な部分」なのか、それとも「派生させた部分」なのか、それを意識しながら勉強すると、誰でも解ける訳ではない差がつく問題を解くことができるようになるでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?