文学作品を読むこと

文学作品を読むとはどういうことか。何が養われるのか。集英社新書から出ている『ことばの危機』はそんな疑問に答えてくれた。本書は毎年行われている東京大学のシンポジウムの文字起こしで、文学だけでなく納富先生の哲学的観点からも「ことば」を問う貴重な一冊。

ちょっと長いが、上記疑問を晴らしてくれた一節がこちら。

小説など虚構作品と接することで一番鍛えられるのは、文脈を推し量る能力です。登場人物の心境の想像などはあくまでその一部です。言うまでもなく、虚構作品はどんな短篇であっても、それぞれが完結した一個の作品世界を形成しています。だから、新しい作品と出会うたびに私たちはその世界のルールを読み取り、了解し、かつ読書に適用する必要がある。この作業は時に面倒にも感じられますし、ここがうまくいかないと、その後の展開にもなかなか入っていけなくて読んでいてもフラストレーションがたまる。しかし、まったく新しい世界のルールとの出会いは、豊かな可能性を秘めてもいます。うまく行った時には、今まで知らなかった物の見方と出会ったりもできる。 
私たちはこうした作業を通して、そもそも意味が生まれるためには文脈を知ることが必要だということを知り、文脈を切り替えるという作業にも意識的になれます。 ルールを切 り替えることで全く新しい世界を導き入れるという行為は、人間の知性の根幹をなすもの自分が慣れ親しんだ文脈でしか生きていない人は、異なる環境に適応することができませんし、異なる環境から来た人にも上手に対応できない。

要は、文学作品を読むことは自分とは全く異質な世界のルールやコンテクストを受け入れ、新たな物の見方を会得することである、と。卑近なところでは他者理解が挙げられるだろう。未知の人は自分とは違う経験や知識、意見を持っているだろうし、そういう人もいるという異質な存在を受け入れれば、世界はより豊かになるだろう。

ここで僕は古典を読むことこそ、その姿勢が要求されると思う。時間も空間も全く異質なテクストは到底受け入れられるものではない。古典を味わうためには時代の背景、生活様式、価値観、人々の感情、を理解し、想像し、ゆっくりゆっくりテクストに向き合う必要がある。(僕はまだ出来ていないけど…)  今から約2800年前に生きていた(とされる)ホメロスの叙事詩、『イーリアス』を先日読んだが、全く魅力が分からなかった。恐らく理解と想像に欠けていたのだろう。

令和の日本とはかけ離れた時代の、人々の物語を粘り強く理解しようとする姿勢は、日々出くわす社会や他者、そして世界の「分からなさ」を受け入れ、真っ直ぐに向き合う態度を涵養してくれるはずだ。

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