本を読む意味とは?
僕は本が好きで、数ある趣味の中でも大切なものの一つだ。家でも、電車でも、公園でも、誰かと待ち合わせしている間も、コンサートの開演直前も、基本的には本を読んでいる
こういう人なんで、周りから「そんなに本を読んで何になるの?」と問われることが多々ある。文脈によって「○○で役立った」とそれらしく回答はするが、どうも自分の中では腹落ちしていないのが正直なところ・・・
今回は本を読んで何になるのか?についてちょっと踏み込んで自分に問うてみる。どうやら理由は2つあるようだ。
「今ここ」を楽しむから
1つは、楽しいから。当たり前過ぎるのだが、本当にそうなのだ。本を何かの役に立てようと読んでいない、たとえ小難しい学術書であっても、楽しみながら読んでいるのだ。
僕は常々「今ここ」を生きるということを大切にしいる。これは大学を留年し、1年間好きに授業を取ったことで出会った先生に教えてもらったことだ。
先生はナチスの強制収容所を生き抜いたV.フランクルの『夜の霧』から下記を引用して、「今ここ」について説いていた。
生きるとはつまり、生きることの問に正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない
そう、生きることは時事刻々課される義務を引き受けることなのだ。言い換えれば、収容所にいたフランクルは、時事刻々と問われる「生くべきか、死すべきか」に時事刻々と決断しなければならなかった。
時事刻々とは換言すれば、先に僕が言った「今ここ」なのだ。生きるとは、「今ここ」をどうすべきか絶えず決断を下すことなのだ。
僕はいつ何時もこの考えに従って生きている。凹んだ時も、どんちゃん騒ぎをする時も、冷静な時も、すべて「今ここ」に決断を下すことで、その瞬間が意味あるものになる。この記事を書いたとしても、所詮読む人なんてほんの一握りだろう。それでも「今ここ」に「書くこと」を瞬間瞬間に決断していることで、それはかけがえのない意味を帯びる。
話は逸れたが、先に僕は本を読むことを何かに役立てようとはしていないと言った。実はこれも、「今ここ」を生きることと関連している。なぜなら読書を何かに役立てるというのは、未来のため、楽しんで読むというのは、「今ここ」のために行うことであるから。
「僕自身」を形成するから
本を読んで何になるか?に対する回答のもう一つは、「僕自身になりました」だ。「は?」と思われるだろうが、実は至って真面目な回答のつもりなのだ・・・笑
簡単に言えば、色んな本を読んでいれば、それだけ色んな思想や知識が入ってくるし、それに自分の人生経験が重なれば「僕自身」が成立するわけだ。つまり、読書は「僕自身」を形成するツールなのだ。
なぜこんな回答をするのか。それは本を読んで何になるか?に対しては、ある一つの回答では収まりきらないからだ。収まりきらないのであれば、その総体である「僕自身」と答える他ない。
先程挙げたV.フランクルの思想は僕に大きな影響を与えたが、実を言えば彼も「僕自身」の一部でしかない。
だから、本を読むことには常に自分自身が変化する可能性がついて回る。であれば、絶えず変容するものに対して、一義的にこうだ!と断定することはできない。そのため、本を読んで何になるのか、という問いに対しては「僕自身になる」と回答するのが適当だと思う。
「今ここ」と「僕自身」の繋がり
よくよく考えれば、「今ここ」と「僕自身」の2つのはリンクしている。なぜなら、絶えず変化する自分というのは、つまり「今ここ」が最新の状態であるから。
だらだらと本を読んで何になるのか?について書いてきたが、現状これが僕の提示できる回答だ。ただこれも、絶えず自分が変化する中で変わっていくかもしれない。23歳時点で考えられるものとしては、これが精一杯だ😓
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