教養は通奏低音を響かせること

教養についてふと思ったこと。それはタイトルの通り、日常に通奏低音を響かせることなのだ。

「通奏低音って何?」となるかも知れないけど、goo辞書の定義を拝借すると下記の意味になる。

1 《(イタリア)basso continuo/(ドイツ)Generalbaß》バロック音楽の演奏で、チェンバロなどの奏者が低音旋律と和音を示す数字に基づいて即興的に和音を補いながら伴奏部を弾くこと。また、その低音部。数字付き低音。バッソコンティヌオ。ゲネラルバス。

2 常に底流としてある、考えや主張のたとえ。「平和への願いがこの本の通奏低音となっている」

今回は2の意味で使っている。

教養は日常生活で直面する色んなことを考える上で、色んなことに気づく上で大切な要素であるように思う。それは常に自分の思考の底流を流れる。

例えば、クラシック音楽にハマって以来、街中やテレビで流れる音楽に敏感になった。そして敏感になると、生活は何倍にも豊かになった。

「教養は通奏低音を響かせること」という直感も、クラシック音楽にハマっていなければ思い付かなかっただろう。

僕は到底教養人というには及ばないが、多少なりとも芸術全般に触れたり、本を読んだことで自分の中に通奏低音が響くようになった。教養を積めば積むだけ、それはより響くようになるし、より豊かな生活を約束してくれるはずだ。

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