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ハンダ、ケーブル、電源、オカルトかよって本当に音変わるんだなって。

■ケーブルでも素材でも音は確かに変わる


ぜ~んぜん信じてなかった、あったとしてもどうでもいい認識だった、この手の素材とかチューン。

それがま~、根っから研究してる人に教えてもらうと本当に変わるもんだと、態度が改まりました。

一つ一つだったら「へぇ確かに変わるんだね~。」ぐらいの効果かもしれません。でもこれがトータルで詰めていくと本気でビックリします。


ただ、「変わる!」って盛り上がりそうな一方で、合わない物があるのを実感させられてきたのも、これまでの経験。

「これがあれば据え置きのアンプが生まれ変わる!持ち込みのプリアンプとかも要らなくなるかも!?」なんて売り文句の電源ケーブルを使った事もありますが、正直、何気なく使ってる適当なやつの方が遥かに良かったというね。

そしてこれは、そのケーブルに限った話ではなく、高級に凝ろうとした物は何か大体合わない、そんな印象が個人的にはあります。

やたら音が膨らむ、あざとくギラギラする、膜が張った感じになる、パワフルになるどころか元気を失う、そういう類のは全く好きになれません。


これは本当、スピーカーケーブルとかでも同じ。

いかにも高級なやつを使ってみたものの、大して変わらない、そんなに良くない、どう考えても費用対効果が微妙、こういうジャンルには凝るまいと嫌悪が湧くぐらい、イマイチな物がありました。

楽器用ケーブルにしたって、あまりに取り回しが悪い、耐久性に疑問がある、高すぎてそもそも使う気にならないなど、実用性に難がある物はその時点で使いたくない。

「あれこれこだわるより良いバッファ載せるべきじゃない?」

それが正直なところですし、音に影響があると分かったからと言って、そんなに固執したくない世界なのは今でも変わりません。


しかし、求める音の方向性が決めってるのであれば、そこに向かって前進できるのも確かに実感させられました。

徹底的に割り切るのであれば、

「プレイヤーは素直に楽器だけ弾いてりゃいい!演奏にこそ全てを注ぐべきだ!細かいどうでもいい事なんか無視しろ!」

これも真理ではありますし、実際、変にマニアックになりすぎるのは疑問が湧いてしまいます。

ただそれでも、実際に体験してしまった、変化がある事を否定できない、より良い音、好きな音が手に入る事実がある、そこを頑なに否定しようとするのも、認知が歪んでしまってると言えそうです。


また、自分が体験した中で重要なポイントは、

【べつに超高級じゃなくてもいい】

それが正しいんじゃないって事。

高い物を使うほど良くなる、理想にどんどん近付いていく、そんな単純な話じゃないってのは実に魅力的です。

実際に体験、

「え!何でこんなモンからこんな良い音が出んの!?」

本気で驚愕した電源ケーブルとかありますし、

「それどこのですか!?」って言われても、ほとんど無名の安物な為、答えにならないってのが面白い。


好きな音がある、そこに向かいたいって意味では、凄く単純とも言えるかもしれないし、やはり、好みや方向性が決まってる事が大切なんじゃないかと思います。

それがあれば、そこに応えてくれるその道のプロが存在するのも分かりますし、現実に出会えたりもします。


「ハンダ?ケーブル?んなモン俺には分かんねぇよ!大事なのはそういう事じゃねぇだろ音楽ってのはよ!!」

なんて言い放つ超一流プレイヤーがいたとしても、それを支える人達が徹底的にチューンしている可能性もあるし、全面的に信頼して任せているのかもしれない、そんな意識も持っておいて損はありません。

奏者当人が自分が詳しくない事を理解しているからこそ、超絶詳しい人をよく知っている、協力してもらっている、そんな構造があっても何も不思議じゃない。

だからこそ、表面的に捉えて失念してしまうのは避けたいし、楽器の選択にしても調整にしてもそこは同じでしょう。


まぁ本当、ハンダで音が変わるとか、そんなのどうでもいいだろって姿勢でいましたが、これを料理で考えてみたら面白くなりました。

「弱火でも強火でも変わんねぇよ!小さじでも大さじでも同じだろ!10分煮込むのも1時間煮込むのも同じ!腹に入れば一緒だよ!」

って、作る方も食べる方もそれじゃ困っちゃいますよね。

ハンダの量、熱を加える時間、結合具合、そもそもの素材、要因や扱いによって差や違いが生まれるのは、難解どころか実に分かりやすい話なのかもしれません。

料理待ち待ち、焦げ焦げ、脂ベトベトの大盛りとか、そりゃ食べたいとも任せたいともならない、そう考えれば、

「変わって当たり前!」

この認識の方が自然なんじゃないか、今は強く思います。


楽器、アンプ、ハンダ、ケーブル、こだわると言っても別に、高級料理だけに限定しろって事ではなし。

きったねーホルモン屋にも味わいがある。町中華にも堪らない良さがある。一杯飲み屋にも風情がある。やっぱり家庭料理が落ち着く。

そうやって、こだわりや楽しみを見出すのは何も悪い事じゃないし、何も不自然な事でもない。

高級店を知るのも素晴らしい事だし、文句ばっか言って敵視しててもいざ体験すりゃ認識が一気に変わる可能性だってあります。

問題なのは、

・無関心

・無気力

・無好奇心

そこから始まる無理解と断絶のように感じます。


ハンダやケーブル、そこにどう意味や価値を見出すかは人それぞれだけど、なかなか面白い世界だって分かったのは間違いありません。

一つ一つは小さな問題かもしれないし、そのほんの一点、僅かな影響だけを見れば「下らない….」とも確かに思えてしまいます。

でも、よくよく考えると、その小さな一つをしっかり認識してるからこそ、その積み重ねがあるからこそ、音は作られるとも考えられます。

完成した大きな形、トータルこそが大事なのは間違いない一方、小さな部分が全然見えてない、認識できてない、要素として存在しないように考えてしまうのはどうなのか、今は疑問になります。

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