4月20日

新国立劇場で『エンジェルス・イン・アメリカ』を通して見て、過去上演の劇評でも読みたいなと思いネットを徘徊していた。するとF/Tの杉原邦生さん演出作品の劇評(https://www.festival-tokyo.jp/13/critic/2012/01/kunio-aia.html)に行き当たり、そこから第55回岸田國士戯曲賞の選評(https://www.hakusuisha.co.jp/news/n12261.html)に飛んだ。

前日(4月18日)に偶然、第28回劇作家協会新人戯曲賞の選評(http://jpwa.org/main/activity/drama-award/prize/senpyo28th /2022年12月10日公開)を読んでいた。設立以来初めて「該当作なし」となったことや最終選考を辞退なさった方がいたこととか、最後の渡辺えりさんの選評などをとても興味深く読んだ。そして中屋敷さんの「劇場空間への企み」という言葉が心に残っていたため、前段の岸田國士戯曲賞の選評に心が向いた。宮沢章夫さんのものだ。

作品評から離れ唐突なことを書くようで申し訳ないが、岸田國士戯曲賞は文字通り「戯曲」の賞だ。たとえ、その上演を知っていたとしても──ほかの選考委員がどう考えているかわからないが──、あくまでテキストと対面することが選考の基準だと私は考える。または、選考委員は皆、そこに書かれたものを読んで舞台での「演出」を、あるいは舞台の様子をある程度、想像することができるだけの経験(読むこと、観ることに実作者としての経験)を持っている。それは逆に言うなら、舞台を観てしまったことによって、もっとべつの要素に影響され本質を見逃すことでもある。だから、あくまでテキストにこだわり、テキストの細部から作品を判断する。そんなふうに書き、そこだけ取り出して語れば、かつて否定された「戯曲」を中心とした演劇における文学主義のように受け取られるだろう。しかし、そうした「戯曲」の特別性が問われてからすでに五十年近くが過ぎている。戯曲の優位性を問題にするような議論もいまでは存在しない(だから逆に、その文脈で過去に否定されたはずのある時代の日本の戯曲も再上演が盛んに行われる)。つまりもうそんなこと(=戯曲中心主義の否定)など自明だと誰もが了解したうえで演劇は作られている。むしろ「演劇を更新する運動」そのもの、あるいは「ドラマツルギー」という言葉がいまでは過去のものであるかのように。

第55回岸田國士戯曲賞選評 宮沢章夫
https://www.hakusuisha.co.jp/news/n12261.html

という箇所から続く部分も実に興味深い。そして一旦の結論を置く。

そして、演劇を冷静に「読む」ことは演劇を問い直すまたべつの「演劇的な行為」になる。

 つまり「読む」ことでしかわからない「演劇の価値」だ。一方に戯曲を発表する場所と、それを議論する場がほとんどない現状があり、戯曲(=テキスト)と対面する〈演劇の空間〉として岸田戯曲賞の選考という特別な場所がある。それはきわめて特別な意味だ。だからこそ選考委員はただ読むことによって作品と対峙せざるをえない。

第55回岸田國士戯曲賞選評 宮沢章夫
https://www.hakusuisha.co.jp/news/n12261.html

時々興味が繋がって別の場所にいくことがある、という話。

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