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ウダブノの洞窟壁画 第3話




ラストチャンス

首都トビリシのメトロ駅にて
ウダブノへ向かうため郊外のバスターミナルへの移動途中
旧ソ連国であるジョージアのメトロは軍事利用も視野に入れて建設されていたため
多くの駅がとても地下深くに建設されている
Camera: Nikon F2 [Film: CineStill 50Daylight Fine Grain Color Negative Film]


 トビリシでの合同展示を終え、私はウダブノへ舞い戻って来た。この後にイタリアの片田舎に住む刺繍職人のアトリエに訪問する予定があったため明々後日にはジョージアを出国しなければならず、ウダブノで洞窟壁画へとアタックできるのは後一回だけだった。フレスコ画をどうにか訪れるために私は朝早くに宿を出発した。まずは2回目のアタックで鉱石を見つけた場所まで早足で歩き進め、午前10時ごろに無事にそのセーブポイントを通過できた。しかしその先には腰まであるイネ科の植物で辺り一面覆われており、さらには深い谷がある。だから航空写真を見て目星をつけておいた。少しばかり迂回しながらも確実に前に進める道を歩き続けると気がつくとそこには新しい景色が広がっていた。イネの草原が少しずつ殺伐としていき無味乾燥な地面が姿を現し始めた。すると目の前にふたこぶの小高い丘が見えた。その丘の間に周辺の地面とは色味の異なるわだちのような線が見えた。「やった!崖を迂回して、無事にトレイルに戻ってこれた!」私はそう確信した。

ウダブノ郊外にある廃墟
何度ものアッタクで必ず横を通った馴染み深い景色である
Camera: Nikon F2 [Film: Film Washi S50]
腰の高さを超えるイネの草原
地盤はぬかるんでおり下手に足を運ぶと靴が沈んでしまうほどであった
Camera: Nikon F2 [Film: Film Washi S50]
見渡す限りの草原が広がる砂漠地帯
Camera: Nikon F2 [Film: Film Washi S50]


 それからもまだまだ長い道のりが待っていた。地図によるとそのふたこぶの丘に伸びる道を北上していき、1時間ほど歩くと巨大なプランテーションにぶち当たる。そこで西に進路を取り、また1時間ほど歩き続ける、その後は小高い丘の尾根を進み続ける、という道順が最も迷子になりにくそうだった。読図していた通りに2時間半ほど歩き続けると、辺りの景色がまた変わっていった。洞窟を掘れそうな小高い岩山がちらほらと遠くの方に見え始めた。現在位置から判断するに目的のフレスコ画がある洞窟まではまだ7kmほどあるはずだから今見えている岩山でないのは確かだった。しかし草原や砂漠しかそれまでなかった土地にようやく岩山を見ることができたのだ。アドレナリンが体の中に溢れ出ていた。私は立ち止まる事なくひたすらに洞窟壁画に向けて歩き続けた。

プランテーション農場と巨大な農機(写真中央に映る複数の黒い点)
Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]
プランテーション農場の端
プランテーションを囲む樹木の生えた堀(写真左手)
Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]
プランテーション周辺の道には
農機が移動するためと思われる車のわだちが多く見られた
この辺りで雨が降ってきたため、写真に映る木の下で雨宿りをした
そこで食べたクッキーの美味いこと
Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]


生命体

 小雨が降る中わだちを歩き続けて2時間ほどが経過した。そんな時、ある植物に目を奪われた。それは立ち止まらずにはいられなくなるほどに力強い生命力を感じさせた。地に拡大できる限り大きく葉を広げ、また更に伸び続けようと若葉の先にまで養分を送り続けているようであった。砂漠地帯の無味乾燥な環境下で必死に生きるその姿を無視することはできなかった。その植物を見ていると、いつの時か聞いた、ある生物学者の言葉を思い出した。


「生命の活動原理は子孫繁栄と栄養確保に過ぎない。
であるならば、その他の行動に意味は与えられうるのか?」


 楽観主義者にも思えた彼の答えはもちろん「YES」であった。皆それぞれの回答があり、中には自信満々に「NO」と答える悲観主義者もいるであろう。極端にそれらの極解を行き来してしまう僕なので、この美しい名も知らぬ植物に、是非ともその問いへの考えを聞いてみたいものだった。私はその植物の前であぐらをかき、まるで美術館に飾られた芸術品を鑑賞するかの様に眺めていた。それは抽象画を眺めている時と同じ気分だった。何かを考えているようで実は圧倒さてているだけで何も考えちゃいない。そんな時間が幾分か経った後、ふと我に帰りまた歩き始めたのだった。

幅1m50cm程の植物
写真では確認しにくいが毒々しい赤色の小さな種子をつけていた
Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]


思想のあれこれ

 そうしてあれこれ考えながら歩き進めていくとまた羊飼いの小屋を遠目に見た。地図によるとこれが洞窟壁画までの道のりに見る最後の家屋である。初めのうちは家屋の側を通るたびに人間活動の面影を感じて心安らいだものであったが、今となってはもう特別な感情は起きはしなかった。それよりも、洞窟壁画を目前にし、と言ってもまだその場所ははっきりとはわかっていないのだが、この先にどんなワクワクが待っているのか、その高揚感の方が今目の前に見えている家屋への興味関心より遥かに上回っていた。

時にわだちはイタズラを仕掛けてくる
あなたならどちらの道を選ぶ?
人生の岐路に立たされた時と同じで
選択する瞬間にはどちらが正しい道なのかはまだ分からない
のであろう
Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]


 ここジョージアで見た家屋の周辺もそうであったし、モロッコのアトラス山脈に住むアマジグ人を訪れるためドンキーとトレッキングした時にも同様のことを感じたが、意外なことに羊飼いの家々の周りには生活ゴミが多少散乱している。数ヶ月前、もしくは数年前に放棄されたプラゴミは、ラベルが読めないほどに色褪せ、草木の隙間に居場所を見つけて、風に揺られながら、おそらくその場所に半永久的にあり続けるのであろう。そんなゴミを見ている時にある大学教授の研究を思い出した。韓国の大学に籍を置きながら北朝鮮の生活について研究するその教授は、海岸に流れ着く北朝鮮からの生活ゴミを収集して、そのラベルの成分表記から北朝鮮の産業発展度合いの統計を出していた。各地域の羊飼いのプラゴミから、彼らの嗜好思想を探ってみるのは面白いかもしれないと思ったが、別にゴミを集めなくても北朝鮮とは違い彼らの家に招待してもらえば生きた文化を覗き見ることができるわけだから、あまり有益なフィールドワークにはならないとすぐに結論が出てしまった。

道中に見つけた子供のぬいぐるみ
このぬいぐるみの持ち主は今どこで何をしているだろうか?
答えを知りたいわけでは決してなかった
想像力をどこまで膨らませられかというゲームを楽しんでいた
そういう時にこそ何か面白い絵のアイデアが浮か、、、
ばないものだ
Camera: Nikon F2 [Film: CineStill 50Daylight Fine Grain Color Negative Film]


連岩山

 最後の家屋を通り過ぎると、いよいよ洞窟壁画までは鼻の先の距離であった。地図によるとその家屋のあたりで北北西に進路を取らないといけない。また行ったり来たりのマッピングが待っているとばかり思っていたが、その道はすぐに見つかった。わだちほど立派な跡は残されていなかったが、明らかに植物の背丈の低い箇所が線の様になっていたからだ。植物が踏み潰され続けた結果その場所だけ成長が遅れているのだろう。公園で子供たちが近道に使う草地だけ植生がおかしなことになっているのと同じことだ。その道を歩き進めると確かに北北西へと進路が変わっていった。すると突然左手に連なった立派な岩山を見た。その岩山の距離は想像を遥かに超える長さであった。目に映る岩山だけでも優に5km以上は続いている。そのはるか先の方にも大小様々な岩山がある様にも見えるが遠すぎて双眼鏡が必要な程である。道なき道を20km以上彷徨いながら歩き続けた末に捉えたその岩山の景色の壮大で神々しいこと。私は歩みを止めなかった、いやそれどころか無意識にも早足になっていった。この巨大な連岩山のどこかに求め続けてきたフレスコ画が隠れているのだ。

あまりにも長すぎる連岩山
はるか先は霧に覆われて目視できないほどである
地層の各層の色味が写真でも認識できるほどに異なる
Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]


「どこだ!!俺が探して求めてきたフレスコ画はどこにその姿を潜めておる!?」30分ほど歩き進めるが左手の景色はちっとも変わらない、あまりにも長すぎる。しかしこのどこかに洞窟があるのだ。目を凝らし岩山を観察すると3kmほど先にゴマ粒ほどの小さな黒い穴がポツポツと岩肌に見えた。「あれなのか?いやあれ以外に考えようがない、、、しかし穴が小さい、小さすぎる。」しかしそれは岩山があまりにも立派すぎたために小さく見えたにすぎなかったのだ。ゴマ粒までの距離が近くなるほどに岩山の大きさが際立っていく。ついにそれが洞窟であると確信に変わってからもまだその入り口までの距離は決して近くはなかった。何もない砂漠地帯に突如現れた連岩山、そこにある洞窟に眠るフレスコ画とはいったいどんなものであろうか、気分はインディアナ・ジョーンズが洞窟の中に入っていく時に見せたそれと同じである。

洞窟の入り口を捉えられた距離から
Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]


ついに洞窟の真下にまで辿り着いた。
もう昼の13時ごろであった。

洞窟の入り口は見上げる高さにあった。


手を使わなければ登りきれない程の急な斜面を這い上がっていく。



真っ黒にしか映っていなかった洞窟の内側に少しずつ陽が入ってくる。



フレスコ画はもうすぐそこにあった。



修道院の栄華之夢


駆け登る
邪魔をする急斜面

仰ぎ見る
自然界にない直線

彷徨い探し求めた
洞窟壁画

荘厳華麗
映画之夢を見てた


Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]
Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]
Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]


芸術とは


洞窟の内部はイスラム教寺院の建築様式の様にも思えた
半球状の空間やアーチ状の入り口の設計が
中央アジアに見られる土粘土で建てられたモスクの姿と類似していた

壁画はキリスト教の教えを広げるためのものであろうが
土着信仰の描写との融合を感じさせるフレスコ画であった

修復の跡が見られるが西欧諸国で見られる教会画ほど保存状態が良いわけではない
意図的に偶像の顔面だけが削り落とされた跡が確認できた

この文化の衝突を垣間見れることこそシルクロードを旅する醍醐味だ
ローマ帝国とオスマン帝国の影響を受け続けながら
ジョージアの独自の文化を守り続けて来た証がここに刻まれていた

色彩も大変豊かであった
当時まだ顔料が鮮明にその色味を発していた時には
この薄暗い空間はどれほど豪華絢爛であったであろうか

Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]

我々日本人には「侘び寂び」の概念が
その意味を十分に理解できずにいるままに
だがしかし確実に心に染み付いている

ベトナムや中国の仏教寺院を訪れたことのある者であれば
そこで見る極彩色の寺院になにかソワソワとしてしまうのではないだろうか
明治時代にフェノロサや岡倉天心は、今日我々が見る様な日本の寺院の古風ある姿も
価値ある立派な芸術であると説いた人物であったと私は理解している
しかし同時に、その解釈によって我々日本人の心の中では
宗教施設は宗教芸術へと価値意識が変化する結果となったのではないだろうか
西洋芸術に造詣の深い彼らは日本文化に対してこんなメッセージを残してくれた


本当の美は、
心の中で未完成なものを完成させようとする者によってのみ、
発見されるべきものです。


我思うに、極彩色の寺院は「生き続けている宗教空間」であり、
我々が言う侘び寂びを感じる寺院とは「生きてきた宗教芸術」である
何百年という歴史を経てもなお、火災や戦さ、廃仏毀釈にも打ち勝ち
今も尚礼拝者のいる寺院は決して死んではいない
だが我々がいう侘び寂びとは過去の時間軸を中心に芸術文化を捉えていると思わずにはいられない
一方で金ピカの仏像や、もはやネオンカラーのような朱色の寺院の空間には
地元の礼拝者の数が観光礼拝者よりも遥かに多い
そこではより生きた信仰を垣間見ることができる
そう感じてしまうのは私だけであろうか?

刺繍修行でパリに2年間住んでいた時にも似た事を考えさせられた
ノートルダム寺院まで歩いて15分の距離にあった私のアパートの近くには
よほどな物好きの観光客しか訪れないであろう、荘厳だが小さな教会も同じ距離にあった。
もしあなたが熱心なキリスト教信者であったのならば、
毎週日曜日に礼拝をする時、ノートルダム寺院を選ぶであろうか?

そんな考えがあった私にとってウダブノ洞窟壁画は異質であった
これは紛れもなく「死んだ宗教芸術」であった。
しかしその中に一歩踏み入れると、生き続けている何かを感じずにはいられなかった

僕は無宗教信者である
だからそこで、「その神々しさは人智を越える絶対的な存在の面影であった。」
と言い包める事はできない
けれど、そういった解釈を真っ向から否定しているのとも違う
「無•神論者」と「無宗教•信者」は別物であるはずだ

私は言葉に言い表せない存在を認めたい
芸術もそうであってほしいと願うからだ

Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]


製作


洞窟を訪れた理由は絵を描くためだった
オイルパステルと画用紙を2枚だけ持って来た
何を描こうかと悩む必要はなかった
いくつかの小さな洞窟を全て見終わった後
絵を描きたいと思った場所に自然と座り込んでいた
そして、目に映ったフレスコ画に見出した心象を描き残した


「READ BOOK」
Oil pastel on paper
Oct. 2023 Udabno, Georgia


Camera: iPad


「Machine Learning」

Oil pastel on paper
Oct. 2023
Udabno, Georgia


Camera: iPad

実はこの洞窟壁画には先客がいた。
ロシアからきた大学教授と彼が雇った現地人のアシスタントに洞窟の中で遭遇したのだ。
修復作業のためにフレスコ画の現状を撮影しに来たと言う。
ありがたいことに、車で訪れていた彼らは私を村まで送り届けてくれると言う。
そのおかげで私は帰る時間を気にすることなく2枚の絵を描き上げることができたのだ。
更に幸運なことに、彼らは撮影のためにこの洞窟壁画の後にも、別の壁画に行く予定があるから、
そこにも連れて行ってくれると言うではないか!
「なんだって!?」
「ここ以外にもフレスコ画が残る洞窟が存在するのか!?」
「それにそこへ連れて行ってくれるだと!」



つづく、



刺繍職人/アーティスト の Pom Zyquita です
インスタグラムでは刺繍作品や旅中に描いたパステル画を載せています!
是非見に来てね!




おまけ


教授のアシスタントに撮影してもらった絵を描く私の姿
洞窟内の地面は鳥の糞で覆われていた
Camera: Toy Camera [Film: LomoChrome Turquoise]


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