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11.イディッシュ語

 世界には日本が承認しているだけで196カ国存在しているが、一方で言語の数は軽く千を超えてしまう。この時点でこの地球上で一カ国=一言語という考えはすでに成り立たない。計算上、一つの国には最低でも一言語以上存在していることになる。中には事情があり、国を持たずに存在している言語も多い。というか、言語の数を考えると国を持たない言語の方が実は多数派ではないだろうか。
 
 例えば、この旗がどこのものか当てられた人はそれなりのマニアだと思うしかない。これはロシアの極東管区にある「ユダヤ自治州」の旗である。州都はビロビジャン 。ロシア国内でシベリアに位置する。名前の通りユダヤ人のために設けられた自治州であり、その上珍しいことに「イディッシュ語」と呼ばれる言語が文化的に影響がある州だ。

イディッシュはドイツ語なのか?

 イディッシュ語をドイツ語のようにしゃべるとシナゴーグでよくイディッシュ語の先生に怒られる。だってしょうがない。イディッシュ語は見かけはほとんどドイツ語(の方言)に非常にそっくりで、イディッシュ語話者とドイツ語の話者が会話しても会話を成り立たつことがあるくらいだ。ドイツ語とイディッシュ語を同時に複数の人としゃべる場合、しゃべっている言葉がどっちの言葉なのか分からなくなってしまうほどに。

 個人的な話で恐縮だが、ドイツ語の方が学習歴が長いので、私のイディッシュ語がどうしてもドイツ語みたいになっていくのは仕方がないことなのである。言い訳じゃないですよ。

 さてそうなってくると、はたしてイディッシュ語はドイツ語の方言か何かではないかという考えが出てくる。結論から言って、そういう考えをすることもできる。例えばこんな文を考えてみよう。

①Ich habe gestern mit dir gesprochen und war frölich.
(昨日君と話せて嬉しかった)

このようなドイツ語の文章をイディッシュ語に翻訳するとどうなるだろうか。

②Ikh hob geredt nekhtn mit dir un hob gehat hanoe.

うーん、分かったような分からないような気になる。

 ドイツ語が分からなくても、単語だけ見てみよう。所々に類似した単語が使われていることに気づけると思う。上の文章でいうと、大体50%程度、類似した単語が使われている。実際、通じてしまう。特にイディッシュ語はドイツ語の方言により近い形をしているので、地方の言葉を使うドイツ人とはより相互理解が高まる。

 そう考えると、日本語でも例えば甲州弁と津軽弁の人が本気でお互いの方言を使って話した時の方がイディッシュ語とドイツ語の場合よりも相互理解率が低いのではないかと思う。そう思うとドイツ語とイディッシュ語の方が言葉として近いのだから、やはりドイツ語はイディッシュ語の方言、あるいは思い切ってドイツ語はイディッシュ語の方言と言ってしまってもいいのでは?

ヘブライ語のエッセンス

 だが、イディッシュ語がドイツ語の方言、あるいはその逆と言い切れない理由が主に二つある。

1.ヘブライ語の単語をたくさん使用
 上記②の例文の最後に"hanoe"という単語があるが、これはセム語系のヘブライ語から借用した単語である。ヘブライ語は今までに紹介したアムハラ語やアラビア語が属する、ドイツ語とは全く異なる語派の言語だ。ヘブライ語は歴史的に中東の言葉と言える。そのため、言語自体も母体民族の文化もドイツ語圏とは全く異質な文明を起源に持つと言えるだろう。



 例の"hanoe hobn"を見てみよう。これはヘブライ語の"楽しみ"という単語とゲルマン語由来の"hobn"から「楽しむ」という複合動詞を形成している。まず"hobn"はドイツ語の"haben"だとわかる。けれども、次にドイツ語には"hanoe"という単語がない。

 このようにドイツ語の知識だけでは太刀打ちできない単語がふんだんに混入している。あるいはゲルマン語の単語と融合し、独自の言語と言わざるを得ない造語感覚をイディッシュ語は持っている。

 下記はそのような一例だ。ヘブライ語の単語を直接借用したり、ゲルマン語系の単語とヘブライ語由来の単語を融合させている。

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 他にも"magayr zeyn(ユダヤ教に改宗する)"、"frum(敬虔なユダヤ教徒)"等、ユダヤ文化色を帯びた独自の単語も存在している。

2.ヘブライ文字を使用する
 
ラテンアルファベットではなく改良したヘブライ文字を使用する。

 ヘブライ文字は本来、子音を重要視するヘブライ語を筆記するために発展した文字だ。そのため、「子音を重視しない言葉を書く」という点で、根本的な思想が全く異なっている。そのため、イディッシュ語ではヘブライ語でよりしっかり母音も表記する形で書く。例えば上記②の例文をちゃんとヘブライ文字、イディッシュ語の正式な形で書くと次のようになる。

② .איך האָב גערעדט מיט דיר נעכטנ און האָט געהאַבט הנאה

 まず読み方がアルファベットと異なる。ヘブライ文字は右から左へ読む。次にゲルマン語的な書き方とヘブライ語の綴りが混在している。例えば文章の前半は一定のルールに従い読むことができるが、後半の"hanoe"はヘブライ語からの借用語であるため、ヘブライ語の綴りで"hanoe"と書かれている。イディッシュ語の読み方で読むと"hnah"となってしまうが、ハズレだ。当然、普通のドイツ人にこのような文字が読めるわけがない。

 このようにイディッシュ語がドイツ語の一部として安易に組み分けできないのは上記のような理由があるからだ。

イディッシュは今

 イディッシュ語は有名なところでいうと舞台・映画『屋根の上のバイオリン弾き』の原作である『牛乳屋テヴィエ』に代表されるような文学的な伝統があり、アイザック・ジンガーのようにノーベル文学賞も受賞した文学者も輩出している。イディッシュ語は世界に名だたる文学言語である。

 しかしながら、ロシアではイディッシュ語への興味関心は消えゆきつつある。例えばТолстогузовとГринкругのレポートによれば、冒頭のビロビジャンでは2000年代に入ると、イディッシュ語の学習需要が低いことを理由に大学はイディッシュ語コースのやめてしまったり、ある学校は統合に伴い学校教育が「改善」されたため、低需要のイディッシュ語の先生がリストラされ、授業がなくなってしまったりという事例があるようだ(1)。イディッシュ語のシオンの地ではすでにイディッシュ語が放逐されようとしているのである。

 そのような環境にありながら、ロシア語との併用でありつつも、ビロビジャンのイディッシュ語紙『ビロビジャンの星(Биробиджанер Штерн)』は懸命にイディッシュ語での情報発信に奮闘している。

 一方、ロシアの外ではイディッシュ語にとって昨年は当たり年だった。劇場で『屋根の上のバイオリン弾き』がイディッシュ語で公演された。また、イギリスのロンドンにある『Yiddishe Shtub London(イディッシュの家ロンドン)』という団体がアムステルダムにイディッシュ研究者やイディッシュファンを集めた国際的な研究会を実施した。スウェーデンではイディッシュ語のテレビ番組が制作された。そのような情報が入ってくるのはなんと言っても、イスラエルにあるイディッシュ語メディア『Vorverts(前進)』のおかげである。

 また、日本でも我々のようなイディッシュ語を学習する人や研究者による、海外から来日した生きたイディッシュ語をしゃべる人やユダヤ学研究者を歓迎することも行った。また、イディッシュ語の『屋根の上のバイオリン弾き』公演後には日本でもイディッシュ語で曲をコピーしライブを行ったJinta-La-Mvtaのような日本のグループもいる。

 しかし、そのような文化活動が活発化するということはイディッシュ語が消えようとしている流れの中で起きていることではないかと感じている。イディッシュ語とラディーノ語は現代ユダヤ人の文化を代表する二大文化グループと言えるので、そのような流れの中、研究・養育機関がいかに国家からのサポートを得られ、言語を教育し、出版や文化活動としてアウトプットできるかという「言語メンテナンス」が重要ではないだろうか。世界の小さな活動一つ一つがイディッシュ語を死なせないための一欠片となっているのである。

オススメ

 案外日本語で勉強できるイディッシュ語の教材の量は多いとは言えないが、優秀だ。上田和夫先生の本は非常にコンパクトでまとまっている。エクスプレスのイディッシュ語は非常にオススメだ。文法的な内容としてはもしかしたらエキスプレスの方がSheva Zuckerの本の内容を上回るかもしれない。ただ、後者は筆記体のイデイッシュ語や歌や文化の紹介など、より生きたイディッシュ語に近づける内容になっている。特にこのような言語は話者を見つけるのが難しく、文化や歌に親しむことが大きな割合を占めがちになるため、重要である。

 文法は変に凝った文法書を探す必要はなく上田先生の文法入門で初級〜中級レベルは問題ない。

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参考

(1)Толстогузов, П.Н. ,Гринкруг, Л.С. "Национальное образование в Еврейской автономной области: история и перспективы"(2020/2/1閲覧). PP.2. https://web.archive.org/web/20180113150149/http://www.qr.nasledie-eao.ru/konferens/konf_2011/konf_idish_2011/Tolstogyzov.pdf

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