路地裏の寿司屋、看板のない呉服屋|わかりやすさの罠と、提供価値のおはなし。
市川望美です。11月3日はアツい1日でした・・・(嵐好き)
さて、今日は、創業時に考えていた【わかりやすさの罠】と【提供価値】のおはなしです。
ビジネスの現場では常に、自分たちが提供している価値はなにか、存在意義はどこにあるかということを考え続ける必要があるけれど、(直接的であれ間接的であれ、ふとした時でも常に問われる)自分達が売っている「モノ」は一体なんなのか。自分達は、何屋なのか。
それは実はとっても難しい問いなのだ・・・・。
何をしているのか。そして、なぜしているのか。Polarisの創業時、手探りながらもどんなことを考えていたのか、ちょっと振り返ってみたいと思います。
「実績がない」から「価値」について考えまくった。
Polaris創業当初は、当然ながら「実績」というものがなく、まだまだ会社として事業は形を成していなかったわけですが、仕事がないから時間はたっぷりあったし、色々な人に話を聞いてもらわないとはじまらないから、あの時期はとにかく「価値」について考えまくりました。
Polarisの前も、子育て支援のコンサル会社(合同会社)を立ち上げたり、子育て支援のNPO法人に理事として関わっていたり、カラーセラピストとしての個人事業もやっていたので、自分の売り物がいったいなんなのかをきちんと理解していないと遅かれ早かれて立ち行かない、ということはわかっていた。早く事業化しないといけないけれど、どんな事業にすればいいのかぶれてしまうとそのあとが大変だと。
その時、頭の中でイメージとして浮かんでいたのは、『路地裏の寿司屋』と『看板のない呉服屋』でした。
「わかりやすさ」の罠|「わかりにくさ」が守ってくれるもの。
「『路地裏の寿司屋』と『看板のない呉服屋』が象徴として表すものは「わかりにくさ」です。でもなんで、「わかりにくさ」が大事だと思っていたのか・・・。もともとPolarisは、
と、強く思っていたので、「〇〇できます!」「○○の資格持っています!」といえる人を集めて「わたしたちこれができます!」と言えればわかりやすいし、営業もしやすいだろうと思ったりもしたけれど、そっちに舵を切ることはしなかった。
「セタガヤ庶務部」は、スキルチェックもしないし、履歴書提出もない。
なぜなら、それをした瞬間に、本当に届けたい人たちとの分断が起きてしまうと感覚的にわかっていたから。私たちは、市場価値がわかりやすく高値が付きやすい「ハイスペック人材」ではなく、「わたしなんて何も持ってない・・・」と思っているような人たちのための場をつくりたかったから。(*それから10年、今は少し違う考えになってきてはおります)
いや、そういう人たちも排除されない場、という方が言いたいことに近い。「ハイスペック」だろうと何だろうと、誰でも排除されない。それが正しいニュアンスです。
わかりやすく求められたり、わかりやすく喜ばれるのは、「○○できます」という明確なスキルや資格だったり、「フォロワー○人います」みたいな明確な数だったり、「○○の経験者」だったりするんだけど、私たちは、そういった「スキル売り」じゃないことをできるようになりたいと思っていた。
明確な「ウリ」があれば、仕事の依頼がしやすい。人も集めやすいし、提案しやすい。それは、組織の内部からも出てくる声で、確かにそうだとも思った。提案先にも、どんな人がいるのかリストがあればほしい、と言われたこともあったし、そういうものを整備しないとビジネスと言えないよ、とアドバイスくださる人も多かった。
「経理」とか「WEB」に特化すれば、売り手も買い手もわかりやすい。
「資格」で粒をそろえれば、質も担保しやすく売りやすい。
だけど、私は、その「わかりやすさ」に振ることが一番怖かった。
創業時に一番恐れていたのは「価値のミスリード」や「価値の棄損」だったのだろうと、今振り返って思います。
Why Me?|自分たちらしさを捨てない。
私たちは、労働市場において、「わかりやすい武器」を持っていないから退場し、「粒」をそろえることが難しいから、あきらめた人たちと一緒にやってきた。(経営をしている私たちもそうだと言える)
特別なスキルを持たなくても、はたらける仕組み。特別な経験を持たなくても、価値を生み出すことに関われる仕事。そういうものを創りだしたいと思って立ち上げたのがPolarisであり、セタガヤ庶務部だった。
子育て支援の現場を通して、何気ないけれど「いい感じ」の人たちに沢山出会ってきた。一緒に何かをやって気持ちよかったり、お願いしたこちら側が感謝されてほっこりしたり、カンとセンスが良くて、いい仕事するな・・・と思える人たちも沢山いた。
その人たちは、誰もが納得できるスキルやキャリアがあるわけではないけれど、すごいなあ、とか、いいなあと思わせてくれるところが沢山あって、そこに価値を見出せない「市場の値付け」に不満を持っていた。
と、ちょっと怒っていた。
特筆すべき経歴なんてものはないかもしれない。
資格だってはるか昔に取った英検とか秘書検定だったり、免許だって、普通自動車運転免許しかないかもしれない。しかもペーパー・・
でも私は、私たちは、履歴書で表現しきれない、この人たちのすばらしさを知っている。この人たちを「そのまま」で売ることができなかったら、自分達が創業する意味はどこにあるのか。そんな風に思ってました。
Why me?
また、「わかりやすさ」に対応していくということは、自分たちらしさやこだわりを捨てていくことにもなる諸刃の剣・・・。
「ん?それってどういうこと?」と、いい「引っ掛かり」を持ってもらうことで、関心がある人たちに出会う可能性が高まる。あえて、わざわざ、回りくどい表現をしたり、独特の言いしをすることが多いのがPolarisでもありますが、それは「わずかな、でも圧倒的な差」に気がついてくれる人に出会う確率を高めてくれる戦略だったりもするのです。(「非営利型株式会社」も同じ)
「信頼」の質
お客様に約束すべきは、わかりやすいメニューを掲げて、いつでも同じ商品を、同じクオリティでご提供出来ますよ、だからご安心ください、ということではないのではないか。そんなことをやろうとしたら、多分あっという間に破綻するか、人を消費してしまう。自分たちが届けたいもの、世の中に伝えたいことがぶれてしまう。どこに行っても同じものを安定的に供給できるのは、量の圧倒があってこそ。
売り物をそろえてわかりやすくしなさい、ということは、もっともそうに聞こえるし、それが近道なのかもしれないけど、何か違う気がする・・・。そして、きっとできない。
そのショートカットの先は、本当に私たちが向かいたい場所なのか。
いや、きっと、世の中には、ちゃんと成立している、似たような商売があるはずだ。私が真似したいのは、どんなお店なんだろう・・・・。
そんな時に思い浮かんだのが、『路地裏の寿司屋』と『看板のない呉服屋』です。どちらも、『敷居が高くて入りにくい』の象徴。
『路地裏の寿司屋』が約束するのは、最高級の寿司屋とか、新鮮さが勝負の魚河岸でも、安くておいしいチェーンの回転寿司とも違うもの。
有名産地の高級なネタがあるわけじゃないし、安さで勝負もできないけど、その時その時で仕入れられる一番おいしいネタを提供する。お寿司だけじゃなく、裏メニューがあったりする。
こんな場所でこんなもの食べられるんだ、という驚きだったり、食べたいと思っていなかったけれど出されたものを食べてみたらすごくおいしかったとか、お酒とのマリアージュが楽しかったとか、器がすごいいいんだよねとか、そんな気持ちになれるから、また行く。
そんなお店みたいにしたい。
呉服屋なんて、そもそもが敷居高い。
相場もわからないし、何を買えばいいのか、自分が必要なものが何かもわからない。『看板のない呉服屋』は、誰かに教えてもらうか連れてきてもらわないと入れないお店。誰かと一緒じゃないと怖い。
でも、行ってみたら、女将さんが気さくだったとか、着物のそもそもとか今のはやりとか教えてもらって、なんか勉強になったとか、絶対怒られると思っていたワンタッチ帯だって、「それもいいじゃない、でもこうするともっと素敵に見えるよ」と受け入れてもらって、でも本物を知るからこそのコツや所作を教えてもらえて、やっぱちゃんとしたのを着たいなあと思わせてもらえるとか。
全然買わなくていいけどよかったら見てってーと、目の保養になるような物凄い素敵な品々を見せてもらって、いつかここで誂えたいなって願いをもつとか、「ここで色々教えてもらったらいいよ」と、訳知り顔で大切な友達を連れいくとか。
双方に共通するそんな「信頼」の形こそが、私が目指したかったもの。
「自分の想像通りのものが間違いなく得られる場所」ではなく、想像してなかったものとか、想像できないものが得られる場所。
両方のお店は、わかりにくい、敷居が高い。でも、ここに来てくれる人は、「わかりやすい品ぞろえ」「均一のクオリティ」ではなく、「お任せします」とゆだね、どんなことが起きるのか楽しみに待てるような人たち。
そんな種類、そんな質の「信頼」が得られるような事業者になりたい、それを裏切らないサービス、事業を創りたい。そんな風に思っていました。
糸井重里さんの名コピー「ほしいものが、ほしいわ。」も、重なるイメージ。
「遠くへ行くなら」
もちろん、市場のニーズ、クライアントのニーズにこたえていくことも事業を継続、成長させていくうえで重要なことだし、押し付けてはいけないけれど、市場に受け入れられているものをつくれば売れるというものでもないし、売れるから事業が続くというものでもない。
売れて、儲かったとしても、人が疲弊していったら?自分たちが悩んだ分断を大きくしてしまったら?わざわざ、自分たちで苦労して創業する意味ってあるんだろうか?
自分たちが守るべきものを守り、価値を磨いていく中で、おのずと道は開けていくのではないか。私たちがすべきこと、できること。私たちだからこそ磨きこめる価値があるのではないか。
『速く行くならひとりで行け、遠くへ行くならみんなと行け』というのは、よく引用させていただくアフリカの言葉だけど、ほんと、そんな気持ちでした。
自分たちが提供するのは、庶務だったりのサービスだけど、そのサービスを通して得てほしいものは、「安くてよかった」とか「楽できてよかった」ではなく、「こんなところにこんな人たちがいるんだ」とか「こんなやり方があるんだ」とか「こんなやり方もありなんだな」といった「王道ではないもの」の良さだったり、「よくわからないけど託す、おまかせします」と言ってみる経験の心地よさ、面白さだった、ということですね。
10年かけて、その価値は伝えてこられただろうか。
取り巻く環境も変わったし、私たちも変わってきている。でも、ゆるぎない「価値」ってのはDNAレベルであるんだろうから、時にこうやって振り返ってみるのもいいな、と思ったりもするのでした。
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